貴方だから、できたこと

 ――兄が操縦する飛行船のデッキに飛び込んでから、どれほどの時間が経過したのだろう。

 レナータを庇い、アレス自身も受け身を取ったため、二人とも無事だ。デッキの床の上に緩衝材が敷き詰められていたおかげで、衝撃が吸収されたから、背中からデッキへと突っ込む形になったアレスの身体も、どこも痛くない。デッキの上部はもう屋根に覆われているため、それほど風も吹きつけてこない。


 しかし、何故か互いにすぐに起き上がる気にはなれなかった。レナータをきつく抱きしめたまま、緩衝材の上で仰向けに寝転がり、ぼんやりと天井を眺める。

 すると、急に腕の中のレナータがもぞもぞと動き始めた。アレスが腕の力を緩めると、レナータはむくりと上体を起こし、楽園がある方角へと顔を向けた。


「どうした?」

「……今、何か聞こえた気がしたんだけど……」

「飛行船の稼働音じゃねえのか」

「……言われてみれば、そうかも」


 アレスも上半身を起こし、二人の身体に頑丈に巻き付いているワイヤーを解きつつ、そう答えれば、レナータは納得したように頷き、こちらへと向き直った。それから、アレスの上からひょいと退き、すぐ隣にちょこんと座る。


「……アレス。助けにきてくれて、ありがとう。でもまさか、飛行船で助けにきてくれるなんて、思っていなかったから、びっくりしちゃったよ」

「……この船を用意したのも、操縦しているのも、リヒャルトだ」

「リックが?」


 アレスの返答に、レナータは驚いたように目を丸くした。

 レナータの反応にも、リヒャルトを相変わらず愛称で呼んだことにも、微かに苛立ちを覚えたものの、顔には出さないように気をつけながら、浅く頷く。


「だから、礼ならあいつに言ってやれ。俺は、大したことはしてねえだろ」


 大変気に食わないが、本当にその通りなのだから、仕方がない。

 アレス一人だったら、ここまで来ることはできなかった。兄が長い時間をかけて力をつけ、今回の作戦を練り、人員を集め、飛行船を用意したからこそ、無事レナータを奪還できたのだ。だから、レナータが感謝の言葉を伝えるべき相手はアレスではなく、兄だ。


 僅かに顔を背けつつ、吐き捨てるようにそう告げると、忙しなく目を瞬かせるレナータが、横目に窺えた。

 でも、何を思ったのか、不思議そうな顔をしていたのも束の間、レナータはふわりと柔らかく微笑んだ。


「そんなことないよ」


 透明感のある柔らかい声が鼓膜を震わせたかと思えば、レナータがアレスに向かって手を伸ばしてきた。そして、白くて小さな両手に頬を包み込まれ、強制的にレナータへと顔を向けさせられた。


「あんな風に塔の中に飛び込んでくるなんて、誰にでもできることじゃないよ。大抵の人は、覚悟を決めていたとしても、直前で怖気づいちゃうんじゃないかな。でも、アレスは迷わず飛び込んできたよね? 掠り傷でも、怪我をしたのに、その後も全然動きに迷いがなかった。ア レス、いつも無茶苦茶だけど……あの時のアレス、すごく格好良かったよ」


 格好良かったと口にした途端、レナータは再度赤面した。だが、翡翠の眼差しは一途にアレスへと注がれたままだ。


「それに、私を抱えて高いところから飛び降りるなんて、アレスだって怖かったよね? それでも、私を気遣って、冗談まで言ってくれたよね。それで、本当に私を抱えて飛び降りただけじゃなくて、私が怪我をしないように、自分の身体を盾にして庇ってくれたよね。……そんなの、誰にでもできることじゃないよ。だから、大したことじゃないなんて、アレスが言わないで」


 アレスの頬を包み込んでいた両手が離れた直後、今度はレナータの右手にそっと頭を撫でられた。そうされると、子供に戻ったかのような心地にさせられる。二十年前、ロボットだったレナータが幼いアレスの頭を撫でてくれた時みたいに、今も優しい手つきで濡れ羽色の髪に触れていく。


「もちろん、あとでリックにもお礼を言うつもりだけど、私はアレスにもたくさんお礼を言いたいな。――アレス、本当にありがとう。私を助けようとしてくれたアレスの気持ちが、一番嬉しいよ」


 囁くように言葉を紡いでいく、透明感のある柔らかい声が耳朶を打つ度に、喉の奥から熱いものが込み上げてくる。

 ああ――どうしてレナータは、昔からずっとアレスが欲してやまない言葉を惜しみなく与えてくれるのだろう。

 込み上げてくるものをぐっと呑み込んでいると、慈愛に満ちた微笑みを浮かべていたレナータが目を伏せ、僅かに表情を曇らせた。


「でも……アレスもリックも、こんな無茶をして大丈夫なの? 楽園には、二人のお母さんもいるよね?」


 アレスの頭を撫でていた手を引っ込めると、レナータは胸元でぎゅっと握り締めた。アレスに向けられていた翡翠の眼差しは緩衝材の上に落とされ、ダークブロンドが一房、さらりと零れ落ちていく。

 不安がるレナータを安心させたくて、今度はアレスが手を伸ばし、ダークブロンドに覆われた小さな頭を撫でる。


「――大丈夫だ。その辺は、抜かりねえよ。母さんも、今は楽園じゃなくて、第一エリアにいるからな」


 アレスとは違い、兄は無謀な賭けに出たりしない。勝機がなければ、基本的に動かない男なのだ。だから、自分や自分の周りの人間に火の粉が降りかかりそうだと判断していたら、兄はレナータの救出に向かわなかったかもしれない。

 しかし、勝機があると分かれば、恐ろしく行動が早い。金も時間も人材も、ツキを自らに引き寄せるためならば、躊躇いなく投資する。

 アレスの返事を耳にしたレナータは、伏せていた視線を持ち上げ、分かりやすく安堵に表情を緩めた。


「そう……だったんだ。それなら、よかった」

「ああ。だから、レナータが心配する必要はねえよ」


 レナータの頭を最後にくしゃりと一撫ですると、ゆっくりと立ち上がる。


「悪い、レナータ。ちょっとだけ、ここで待っていてくれないか」

「うん、いいよ。どのみち、またアレスに抱えてもらわないと、怖くて動けなさそうだから、ここで座って待っているね」


 なるほど、アレスは移動中の飛行船の揺れに特に何も感じないのだが、レナータにとっては恐怖の対象らしい。

 ならば、早く中に入った方がいいのかもしれないが、アレスにはどうしてもレナータと二人きりで話したい用事があるのだ。だから、レナータには申し訳ないが、もう少しだけ我慢してもらおう。

 足早にデッキを移動し、飛行船の中に入るなり、目当てのものをパーカーのポケットに突っ込み、またすぐにデッキへと戻る。


(……誰にも盗まれていなくて、よかった)


 兄はそういうことをするタイプではないが、世の中には他人の貴重品を盗み、勝手に売り捌いたり、自分のものにする人間もいるのだ。

 だから、本当は船内に置いていきたくなかったのだが、レナータの救出時に持っていこうものなら、紛失するか、壊れるのが目に見えていたから、アレスにと宛がわれた船室にこっそりと置いておいたのだ。


 デッキへと戻ってくると、レナータが不思議そうにアレスを見上げていた。そんなレナータの目の前で片膝をつき、パーカーのポケットに突っ込んでいたものを取り出す。


「それ……」


 アレスの手のひらに乗っている、明らかに高級感が溢れている小箱を目にした瞬間、ただでさえ大きい翡翠の瞳がさらに大きく見開かれていった。

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