「アレスは、怪我していないと思うけど……お風呂に入って、臭いを落としてきた方がいいよ」


 レナータは、アレスを恐れるわけでも、軽蔑するわけでもなく、淡々と風呂に入るようにと促してくる。


 ――血の臭いが身体にこびりつくほどの暴力を、自分は振るっていたというのか。


 レナータに指摘されるまで、自分から血の臭いが漂っていることに、全く気づかなかった。アレスはグラディウス族なのだから、血の臭いを身に纏っていたならば、すぐにでも分かりそうなものなのに、一体どうしてしまったというのか。もしかして、嗅覚が麻痺してしまっていたのだろうか。


「……なら、そうする」


 レナータに対し、それしか言えなかった。

 椅子から立ち上がり、着替えを取りに自室へと向かう。そして、着替えを手にすると、足早に浴室に行き、湯船には浸からず、手早くシャワーだけ浴びて済ませる。


 愛用している黒いスウェットに着替え、キッチンに寄って冷凍庫から保冷剤を取り出してから、リビング兼ダイニングに戻ってくると、レナータはソファの上で膝を抱え込み、背を丸くして座り込んでいた。抱えた膝に顔を埋めているから、今、レナータがどんな表情を浮かべているのか、ここからでは窺えない。それでも、その姿は、やはりひどく傷つけられた子供にしか見えない。

 着替えと一緒に持ってきた薄手のタオルで保冷剤をくるみ、救急箱を手に持ち、レナータに近づいていくと、艶やかなダークブロンドに覆われた小さな頭が、のろのろと持ち上げられた。


「……レナータ、これで顔を冷やせ」


 タオルに包まれた保冷剤を差し出せば、レナータはやや間を置いてから受け取ってくれた。それから、赤く腫れている左側の頬に保冷剤を当てたレナータは、微かに表情を歪めた。布越しとはいえ、保冷材の冷たさが腫れた部分にしみたのかもしれない。


「レナータ。顔以外に怪我したところ、あるか?」


 目に見える範囲では、頬以外には目立った外傷はない。しかし、パジャマに隠されているだけで、その下に傷がある可能性がある。

 レナータは僅かに視線を彷徨わせた末、ゆっくりと口を開いた。


「……お風呂に入った時、両方の腕に擦り傷があるのを、見た。あと……お湯に浸かった時、背中が痛かったから、もしかしたら背中も怪我しているかも」

「そうか。じゃあ、まずは袖をめくってくれるか」

「うん」


 思ったよりも怪我が少なく、度合いも軽くてよかったと、内心安堵する。ニット帽の男は手荒な印象を受けたが、一応商品となる手前、できるだけレナータに傷をつけないようにしたのだろう。

 一度は安心したものの、その後に続けられた心の中だけの言葉に、思わず眉間に皺を寄せる。改めて、レナータを襲った暴漢たちへの怒りと憎悪が、腹の底から湧き上がってくる。

 でも、そんなアレスの内心を見透かし、咎めるかのごとく、衣擦れの音が聞こえてきた。はっと我に返ると、レナータがレモンイエローのギンガムチェック柄の袖をまくり上げ、白くて華奢な腕を晒していた。


 レナータの言う通り、白く滑らかな腕には擦り傷が走っていた。だが、先程入浴してきたばかりだから、傷口は綺麗だ。ただ、白い肌が赤 くなっている様は、見ていて痛々しい。

 救急箱の中から消毒液とガーゼ、それからテープを取り出し、怪我の手当てを開始する。

 本当は、ここまでしなくてもいいのではないかと思うほどの掠り傷だが、この傷を見る度に、レナータはきっと今日の出来事を思い出してしまうに違いない。だから、レナータの視界に入らないようにするため、傷口をガーゼで覆い、テープで固定していく。


「レナータ。背中の怪我を見なきゃなんねえから、悪いが、一回パジャマを脱いでくれるか」

「うん、分かった」


 レナータは顔色一つ変えず、もう一度素直にこくりと頷く。そして、アレスにくるりと背を向けるなり、ぷちぷちとパジャマのボタンを外していく音が耳朶を打つ。その音が聞こえなくなったかと思えば、間髪入れずにぱさりとパジャマが白い肌から滑り落ちていく。


 露わになったきめ細かな皮膚に覆われた華奢な背中には、レナータが自己申告していた通り、いくつかの擦過傷が見受けられた。この傷も手当てするほどではないような気がしたが、こうして肌を晒させてしまっている以上、念のため消毒しておくことにした。

 消毒液を染み込ませた脱脂綿を再びピンセットで摘まみ、うっすらと赤くなっている傷口にそっと押し当てれば、目の前の華奢な肩がびくりと跳ね上がる。そして、アレスに素肌を見せていることに恥じらいを覚えているのか、レナータが少しだけ項垂れた。その拍子に、ダークブロンドがさらりと零れ落ち、白くて華奢なうなじが姿を現した。


 綺麗で真っ白な肌を惜しげもなく目の前に差し出された刹那、何とも形容し難い複雑な心境に立たされた。

 レナータはまだ十五歳の少女なのだから、子供の範疇に収まっているはずなのに、そうしていると大人の女になったかのようだ。この肌をあの男たちも目の当たりにし、あまつさえ触れたのかと思うと、先刻鎮まったばかりの激情が再度火を噴きそうだ。


 そんな自身の気持ちを紛らわせるかのように、黙々と手当てを進めていく。

 背中はレナータ自身の目には映らないから、腕みたいにガーゼを貼らなくてもいいかと一瞬思ったが、寝ている間に布が傷口に擦れたら、痛むかもしれない。一応、傷口は清潔に保っておいた方がいいだろう。とはいえ、ガーゼでは眠る時に邪魔になりそうだったから、大きめの絆創膏を貼っておく。

 レナータの背の傷一つ一つに絆創膏を貼り終えたところで、声をかける。


「レナータ、もう着ていいぞ」


 レナータは小さく頷くと、即座にパジャマを羽織り、素早くボタンを留めていることが、聞こえてくる音で伝わってきた。やはり、あんな ことがあったばかりだから、たとえアレス相手でも、男に肌を見せることに抵抗があるに違いない。


 パジャマをきっちりと着たレナータは、アレスへと向き直り、手当てを受けている間もずっと頬に当てていた保冷剤を、おそるおそる離した。

 冷やし始めて間もないから、レナータの頬はまだ腫れている。だから、今度は救急箱から冷湿布を取り出し、レナータの頬に丁寧に貼りつける。これで、手当ては完了だ。


「……痛むか」


 殴られた箇所が痛んで当然なのに、気づけば、間の抜けた質問をしていた。

 レナータはきょとんと目を瞬かせたのも束の間、苦い笑みを零した。


「……うん、ちょっとね。でも、大したことないよ。口の中が切れたわけでも、鼻血が出たわけでもないから、きっと向こうも手加減したんだよ。それに、未遂で終わったんだし。だから……だからね」


 レナータは、きっと笑おうとしたのだろう。頬の筋肉を動かし、口の端を持ち上げたことから、笑顔を作ろうとしたことが見て取れる。

 しかし、実際に出来上がったのは、あまりにも不格好な泣き笑いの表情だった。頬は不自然にぴくぴくと痙攣しており、きゅっと口角は持ち上がっているものの、少しふっくらとした柔らかい唇は、微かに震えている。


「こんなの……全然、大したことじゃないよ。大丈夫、だよ」


 それでも相変わらず不器用に笑おうとしているレナータの言葉を耳にした途端、頭の奥で怒りが爆ぜた。

 何が、全然大したことではないのか。何が、大丈夫なのか。

 感情に突き動かされるまま、アレスが口を開こうとした直前、透明感のある柔らかい声が言葉を継いだ。


「だから、アレス……。もう、あんなことはしないでね。私は、大丈夫だから」


 レナータの言葉はアレスから声を奪い、刃となって胸の奥深くまで貫いていた。


(俺が……お前に、そう言わせているのか?)


 先程みたいに、アレスが過剰防衛に走らないように、レナータは必死に虚勢を張っているのだろうか。そう思ったら、たまらなく自分が情けなくなった。

 レナータを守るために動いていたはずなのに、結局我欲を満たすために暴力に溺れるなど、あまりにも愚かではないか。これでは、レナー タを襲った暴漢と何も変わらないのではないか。


 ――お前さえ、いなければ。


 呪詛じみた言葉が、耳の奥に鮮明に蘇ってくる。

 言葉を失ったアレスを余所に、レナータは尚も懸命に言い募ってくる。


「私、ロボットのままだったら、あんな人たちなんてことなかったのにな。私ね、最大出力まで出せば、大の男の人の頭をかち割れるくらい、強かったんだよ? 私、人間になってから、アレスに迷惑ばっかりかけて、本当に駄目、だなあ……」


 途中までレナータは強がり続けていたものの、だんだんと声が尻すぼみになっていく。目尻には涙が溜まり、今にも零れ落ちそうだ。でも、意地でも泣くまいとしているのか、レナータは瞬き一つせず、アレスをまっすぐに見つめてくる。

 レナータのあまりにも痛々しい姿が見ていられなくなり、気づけば、その小さな身体をきつく抱き寄せていた。

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