――何が起きたのか、すぐには理解できなかった。

 ぬくもりに包まれたかと思えば、嗅ぎ慣れた清潔感のある香りが、ふわりと鼻孔を掠めていった。そこで、ようやくアレスに抱きしめられているのだと、鈍った思考で理解する。


「アレ……ス……?」


 何故、抱きしめてくれるのだろう。未遂とはいえ、男に襲われた女の子なんて、傷物同然ではないか。汚らわしいと思われたって、仕方がない。触れるのもおぞましいと嫌悪感を抱かれることに、全く傷つかないわけではないが、そういう気持ちを微塵も理解できないわけでもない。

 それなのに、どうしてアレスは何の躊躇いもなく、レナータを抱き寄せてくれたのか。いや、こうして腕の中に閉じ込められる前から、アレスは手を繋いでくれた。掠り傷にも関わらず、優しく手当てをしてくれた。レナータに、触れてくれた。


 アレスに抱きしめられた拍子に、目の縁に溜まっていた涙は流れ落ちたはずなのに、また目頭が熱くなり、視界が滲んでいく。喉の奥からも熱いものが込み上げ、それ以上の言葉を紡ぐことができない。


「……大丈夫、じゃねえだろ」


 喉の奥から絞り出すように発せられたアレスの声は、ほんの少しだけ震えていた。もしかして、アレスも泣いているのだろうか。


「あんな目に遭ったんだ、怖かったに決まっているだろ」


 そうだ、怖かった。理由なんてほとんどないような悪意に晒され、少しでも気を抜けば、恐怖心に囚われてしまいそうだった。


「殴られて、痛かっただろ」


 当たり前だ。これまでの人生の中で、殴られたことなんてなかったのだから、あんなにも痛いものだとは知らなかった。


 知らず知らずのうちに唇がわななき、嗚咽が漏れたかと思えば、もう一度目尻から大粒の涙が零れ落ちていく。

 すると、アレスにもっと強く抱き寄せられた。それから、右手だけレナータの背から離れたと思った次の瞬間には、その大きな手のひらに頭を撫でられていた。


「身体を勝手に触られて、気持ち悪かっただろ」


 本当に、アレスの言う通りだ。あまりの不快感に、本気で吐くかと思った。いっそ、下手に我慢しないで、あの暴漢どもの顔面を吐瀉物塗れにしてやればよかったと、今さらながら思う。


「――お前がそんな思いをしていたのに、すぐに助けてやれなくて……ごめんな」


 そうだ、何故もっと早く救い出してくれなかったのか。いつもは、レナータがメッセージを送れば、すぐに見てくれるのに、どうして今日に限ってそうしてくれなかったのか。

 アレスに助けを求めたのに、なかなか姿を現してくれなくて、このまま来てくれないのではないかと思うと、それこそ恐ろしくてたまらなかった。


「ぅ……あ……」


 ――それでも、アレスならばきっと駆けつけてくれると信じて、レナータなりに必死に恐怖に抗っていたのだ。

 レナータもアレスの背に腕を回し、ぎゅっとしがみつく。アレスの服に皺が寄るほど、強く握り締める。


「う……あああああああああああああああああああああああ……!」


 ――気づけば、物心がついてから初めて、声を張り上げて泣き出していた。

 自分でも驚くほどの大声が口から逆るものだから、喉が痛い。涙はあとからあとから溢れ出し、止め処なく頬を伝い落ち、アレスの肩を濡らしていく。

 こんな泣き方をしていたら、確実に喉を痛めるだろうし、目の周りも腫れてしまうに違いない。

 だが、声も涙も止まらなかった。止められなかった。アレスにますます強く縋りつき、幼子みたいに泣きじゃくる。

 しかし、アレスはそんなレナータを咎めたりしなかった。むしろ、頭を撫でてくれていた手が背中へと戻り、あやすように優しく叩いてくれた。


 両親ともう二度と会えないかもしれないと思ったあの日だって、自分を律することができたのに、何故今はできないのだろう。どちらが不幸だったのかと比べられるものではないが、あの日の方が苦しい思いをしたはずなのに、どうしてなのか。


 そこまで考えたところで、レナータが縋りついている背はこんなにも広かっただろうかと、ふと疑問に思う。あの日も、こんな風にアレスに抱き竦められていたが、レナータの背を撫でる手はあの時よりも大きく、腕も遥かに逞しくなっている。肩幅だって、あの頃よりもある。


(……そっか)


 あの日のアレスは、まだ子供だった。だから、どれだけ辛い思いをしても、その全てをアレスの前で晒すわけにはいかないと、無意識に強がっていたのだろう。

 でも、今のアレスは、どこからどう見ても、大人の男性だ。今のアレスならば、きっとレナータの苦しみを受け止めてくれるに違いないと、自分でも気づかないうちに、心のどこかで思ったのかもしれない。だから、こうして小さな子供みたいに、アレスに全幅の信頼を寄せ、大きな声を上げて泣くことができたのだろう。


「……う……アレ、ス……」


 そう思ったら、想いを言葉にせずにはいられなかった。


「……どうした」


 レナータの背を擦りながら、アレスは落ち着いた声音で言葉の続きを促してくれた。優しい相槌を打ってくれたアレスに背を押され、痛む喉の奥からも再び声を押し出す。


「約、束……守ってくれて、ありが、とう」


 途切れ途切れに感謝の言葉を告げた瞬間、アレスが大きく息を呑む音が聞こえた。


 ――もし、アレスが大きくなって、大人になった時……私が困っていたら、助けてくれる? 


 叶うはずがなかった約束。嘘で塗り固められた約束。

 だが、アレスがその手で本物にしてくれた約束だ。


「守ってくれて、ありがとう……!」


 アレスがいなければ、レナータは今頃どうなっていたのだろう。想像しただけで、寒気がする。

 泣きじゃくっているから、ひどく聞き取りにくい声になってしまったものの、懸命に感謝の気持ちを伝えると、何故かアレスにさらに強く抱きしめられた。あまりの力の強さに、息苦しさを覚えるほどだったが、今はそれさえも心地よく感じられた。


「守れて、ねえだろ……」


 アレスがレナータの肩に顔を埋めてくるものだから、濡れ羽色の髪に首筋をくすぐられ、かなりくすぐったい。だから、つい身動ぎしてしまったのだが、アレスが拘束を解いてくれる気配は欠片もない。


「ちゃんと、守ってくれたよ。私がそう思っているんだから、それでいいの」


 すんと鼻を啜り、アレスがしてくれたように、レナータもその広い背を優しく撫でる。


「……でも、殺すのは駄目だよ。どんな理由があっても、それだけは駄目。……お願い」


 レナータたちにとっては許し難い相手だが、彼らにもおそらく大切な人がいるに違いない。そして、そんなあの人たちを大切に想う人だって、きっといるはずなのだ。

 だから、誰かの大切な人の命を奪うような真似を、レナータにとって大切な人であるアレスには、して欲しくない。理想論かもしれないが、それでもそんなことをせずに済むのであれば、しないで欲しい。


 十中八九、アレスにも言い分があっただろうに、無言で頷いてくれた。完全に納得したわけではないだろうが、とりあえずはレナータの願いを聞き届けてくれたらしい。


「……ありがとう、アレス」


 言葉と共に、ふわりと微笑みが零れる。先刻は、無理矢理表情を作ろうとしなければ、笑うこともできなかったのに、今は自然に微笑むことができた。これも、間違いなくアレスのおかげだ。


「ねえ、アレス。もう一つ、お願いしてもいい?」

「なんだ」

「今日は、昔みたいに一緒に寝てくれる?」


 昔は、時々アレスに添い寝をしてもらっていた。帰宅してきたばかりの時は、一人になりたくて仕方がなかったが、今は一人になりたくない。一人で眠るなんて、以ての外だ。

 十五歳にもなって添い寝を強請るなんて、あまりにも子供っぽかっただろうかと、不安が込み上げてきた直後、低く美しい声が鼓膜を揺さぶってきた。


「……俺も、男なんだが」

「うん、そうだね」


 何をいきなり、そんな当たり前のことを言い出すのかと疑問に思ったものの、律儀に返事をすると、アレスは困惑と呆れが入り交じった声音で言葉を繋いだ。


「あんな目に遭ったばかりだっていうのに、よく男と一緒に寝ようと思えるな」

「こうやって抱きしめられている時点で、今さらじゃない?」


 仮に、今のレナータが大人の男性全般を警戒しているのであれば、こうして抱き竦められている時点で拒絶している。


「それに……アレスはいいの。アレスなら……いいの」

 相手がアレスならば、手を繋ぐのも、肌に触れられるのも、こうして抱きしめられるのも、嫌ではない。むしろ、もっとぎゅっと抱きしめて欲しいくらいだ

 何だか甘えるような声を出してしまい、照れ臭さに目を泳がせていたら、突然アレスがレナータの肩から顔を上げた。それから、顔を覗き込まれたかと思えば、再度頭を撫でられた。


「……そうだな、今さらだな」


 今夜は一緒に寝てくれるのだと、穏やかな琥珀の眼差しから感じ取った刹那、今度は微笑みに留まらず、心からの笑顔が溢れた。

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