お前さえ、いなければ
――目を開くと、そこは一面真っ白な空間だった。
ここはどこなのだろうと、辺りを見渡せば、レナータの全身を映し出せるほど大きな鏡が目に留まった。どうして今まで気づかなかったのかと、自分自身に呆れてしまう。
しかし、その鏡面に映っているレナータは、膝に届きそうなくらい長い、癖一つないまっすぐな銀髪を垂らし、マリンブルーの眼差しをこちらにまっすぐに向けている。純白のドレスに身を包んだかつての自分と、じっと見つめ合っているなんて、何だか不思議な心地だ。
(……これ、夢だな)
眠りに落ちている状態で、これは夢だと認識できる夢を、明晰夢と呼ぶのだと、ふと思い出す。レナータも、人間になってから時折見たことがあったが、昔の自分の姿になっている夢は、それこそ生まれて初めて見た。
しばらく、鏡の中の自分と見つめ合っていたら、唐突に視線を感じた。鏡面から視線を引き剥がし、何気なく振り向いた途端、思わず息を呑んだ。
そこには、肩の上で切り揃えたダークブロンドと翡翠の瞳を持つ、今のレナータの姿をした少女が立っていたのだ。自分と同じ顔をした少女に、無言で凝視されているこの状況は、ひどく奇怪に感じられた。
(えっと……これ、どういう状況?)
これは夢だと認識できている上、自分の意思もある程度反映されているみたいだが、こういう場合はどうしたらいいのか。所詮、ただの夢だと、流れに身を任せていればいいのか。
でも、無表情にレナータを凝視しているもう一人の自分から、何だかただならぬ雰囲気が漂っている。 咄嗟に一歩後退れば、少女がレナータとの距離を詰めてきた。少女が動いた拍子に、ダークブロンドがさらりと揺れる。
「……初めまして、人類の守り神さん」
目の前の少女が発した声は、やはりというべきか、レナータのものとよく似ている。だが、少しふっくらとした柔らかそうな唇を、皮肉っぽく笑みの形に歪めている様は、母であるエリーゼを連想させた。
「ねえ――人の人生を奪ってまで生き長らえるのって、どんな気持ち?」
突如として投げかけられた問いに、声が喉の奥で絡まる。
しかし、咄嗟に答えられないレナータを意に介さず、少女は言葉を続けた。
「三千年も稼働し続けていたくせに、よく飽きないね。ある意味、尊敬しちゃう。……でも、貴女が生き長らえてよかったことなんて、なあんにもないのにね」
レナータのすぐ目の前までやって来ると、少女は立ち止まってくすくすと笑う。少女の笑い声が耳に纏わりつき、鼓膜に侵食していくかのような錯覚を引き起こす。
「貴女のせいで、お父さんもお母さんも、いなくなっちゃった」
――違う。 声には出せなかったものの、心の中で否定する。
レナータは、母に望まれて人間として生まれ変わった。計画が実行される前は、父は頑なに反対していたが、いざレナータが自分の娘として生まれ変わったら、愛情を惜しみなく注いでくれた。
でも、確かに、レナータが二人の娘として生まれ変わったからこそ、両親は楽園から逃げ出した末に消息不明になってしまった。
「アレスだって、貴女のせいで人生が狂っちゃったよね」
違う。アレスは自分の意志で、レナータの傍にいてくれるのだ。むしろ、レナータと一緒にいたいのだと、幼い頃のアレスは望んでくれたのだ。
だが、そもそもアレスはレナータと出会わなければ、人並みの人生を歩めたのではないか。特殊な遺伝子を持ってこの世界に産まれ落ち、軍人としての道しか選べなかったとしても、今よりはずっと恵まれた環境で生きていくことができたのではないか。
「貴女に私の身体を奪われたせいで、一歩間違えたら、私の身体を穢されるところだった」
違う。少なくとも、あれはレナータのせいではない。レナータには、何の落ち度もなかった。
しかし、やはりレナータが人間として生まれ変わらなければ、こんな治安の悪い場所で生活していく必要もなかったのだ。
あの時、レナータがこの世界から消え去り、この身体の本来の持ち主がそのまま生きていれば、両親もアレスも楽園から離れることはなかったのだろう。そうしていれば、きっと両親は今も娘と一緒に暮らし、あんな出来事とは無縁のままでいられたに違いない。
それに、もしかすると――目の前の少女こそが、アレスと一緒にいるべき人だったのかもしれない。
「――そうだよ。みんな、みんな、貴女のせい」
――違う、違う、違う、違う、違う!
「――本当に?」
レナータが胸中で否定の言葉を叫ぶのとほぼ同時に、目の前の少女が小首を傾げて囁いた。
「自分は何も悪くないって、本当にそう思っているの?」
すっと細められた翡翠の瞳は、やはりエリーゼそっくりだ。同じ顔をしていても、中身が違うだけで、こんなにも受ける印象が違うのかと、内心驚く。それとも、顔立ちこそエリーゼに似ているものの、目元や雰囲気は父親譲りだとレナータが思っていただけで、実際には違うのだろうか。
「本当は、十五年前にはこの世からいなくなっていたはずだったのに。道具でしかなかったくせに。それなのに、一人の人間としてのうのうと生きることが許されるって、本当に思っていたの? ……だとしたら、傑作だね」
吐き捨てるようにそう告げられたかと思えば、急に翡翠の瞳を持つ少女に思いきり肩を突き飛ばされた。予想外の出来事に、咄嗟に対処できず、レナータはそのまま床の上に仰向けに倒れ込んだ。すると、後頭部と背中を硬質な床に強かに打ち付け、息が詰まり、目の前が大きく歪む。これは夢だというのに、全ての感覚が妙に生々しい。
「――返して!」
血を吐くような叫び声が、耳を穿つ。視界が陰ったかと思えば、少女がレナータの上に跨ってきた。その重みが肺を圧迫し、余計に息苦しくなっていく。
「私の身体を返して! 私のお父さんとお母さんを、返して! 私の……人生を返して!」
レナータを見下ろす翡翠の瞳には、涙の膜が張っていた。怒りや悲哀、やるせなさで揺らめいていた。
この身体の本来の持ち主の自我は、おそらく存在しない。存在する前にレナータに身体を奪われてしまったのだから、芽生えるはずがないのだ。
でも、もしほんの少しでも存在していたのだとしたら、間違いなくこうしてレナータを責め立てたのだろう。エリーゼたちの娘は、完全に被害者だ。レナータを許せないと思い、責める権利がある。そして、レナータにはその痛みを受け止めなければならない義務がある。
「貴女さえ……貴女さえ、いなければ……」
少女の目尻に溜まっていた大粒の涙が溢れ出し、ぽたぽたとレナータの頬に落ちていく。
(――私も、そう思ったことが、何回もあるよ)
だが、その思いが脳裏を過る度に、そんな風に考えては駄目だと、自分を戒めていた。
だって、レナータが自分自身の存在を否定してしまったら、両親の愛やアレスの献身さえも否定することになってしまう。
母の愛には、打算が含まれていた。父の愛には、罪悪感と同情が滲んでいた。しかし、それでも愛されていたことに、違いはないのだ。
そして、アレスは信じられないほどまっすぐな気持ちを、昔から今に至るまでレナータに捧げてくれた。不純物が全く紛れ込んでいなかったわけではないだろうが、それでも両親から注がれた愛情に比べると、ずっと綺麗だ。
(ああ……だから私は、アレスに恋をしたのかな)
幼い頃はひたむきに追いかけてくれ、成長してからは慈しみ、守ってくれた。そんなアレスをかつてのレナータは可愛がり、今は慕い、感謝するのは、当然と言えよう。レナータがアレスに恋心を抱くのは、必然だったのかもしれない。
少女の目の縁からは止め処なく涙が零れ落ち、レナータの頬を濡らしていく。これでは、まるでレナータも泣いているかのようだ。
ふと、レナータに降り注ぐ透明な雫の中に、赤いものが混ざっていることに気づく。それから、異臭も鼻につく。
(これは――)
気づいた時には、少女はアレスが護身用に持ち歩いているナイフを両手で握り締めていた。その刃は血に塗れ、切っ先から真っ赤な雫が滴り落ちていた。
咄嗟に身じろいだものの、レナータの上に少女が馬乗りになっているため、この場から逃げ出せない。
「貴女さえ……貴女さえ、いなければ……!」
両親やアレスを想えばこそ、否定できずにいたが、今はそうすることさえも罪ではないのかと思えてきた。
レナータは、生きていて許されるのだろうか。存在そのものが、罪ではないのか。だって、現に今、目の前の少女を苦しめているではないか。
(たす、けて……)
でも、少女が勢いよく血塗れのナイフを振り上げた瞬間、気づけば、救いを求めていた。
「助けて、アレス……!」
ここにいるはずのない人の名を呼んだ直後、誰かに肩を強く揺さぶられた気がした。
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