醜悪
きっと、今のアレスに善意に訴えかけようとしても、徒労に終わる。そんな綺麗ごとを並べただけでは、今のアレスを止められない。
ならば、今のアレスにレナータの言葉を届けるためには、どうすればいいのか。
一度、きゅっと唇を噛むと、口の中に血の味がじわりと広がった。 僅かな逡巡の末、喉の奥から声を押し出す。
「私は、そんな人たちなんかのために、アレスに手を汚して欲しくない」
これは、嘘ではない。紛れもない、レナータの本音だ。
「……だから、何もするなと? あんなことをされたのに、お前はこいつらを許すっていうのか」
「許したわけじゃない」
明らかに怒りが膨れ上がった声を断ち切るかのごとく、きっぱりと言い切る。
「許せる……はずがない。ただ、憎みもしないだけ。そんな人たち……憎む価値もない」
本音を曝け出せば出すほど、自分がどんどん醜く汚れていく気がする。
しかし、今のアレスに最も必要なものは、きっと残酷な言葉だ。目に見える、分かりやすい暴力だけが、相手を絶望の底まで突き落とす手段ではないのだと、言葉巧みに証明しなければならない。
「……ねえ、アレス。その人たちを誰かが見つけたとしても、きっと誰も助けないよ。ここで、まともな医療を受けるためには、どれだけお金がかかると思っているの? 誰が法外なお金を払ってまで、その人たちに治療を受けさせようと思うの? だから……この人たちは、一生消えない傷を背負って、貴方を思い出して怯えながら、これからも生きていかなきゃいけない」
アレスの背が眼前に広がっている今、レナータの視界にはあの忌々しい男たちは一人残らず映らない。映す必要性が感じられないから、わざわざ見ようとも思わない。
「殺したら、それで終わりなんだよ? 死んだら、苦しみなんてなくなっちゃうんだよ? そんなの……それこそ、私は許せない」
これもまた、嘘偽りのない本音だ。
今のレナータは、人類の守り神ではない。ただの人間の小娘だ。だから、人としての尊厳を踏み躙られ、自分の意思とは関係なく、純潔を奪われそうになった恐怖を味わわされれば、その相手を許せなくて当然だ。
「でも、ここで見逃せば……この人たちは多分、生きながら苦しむことになる。ずっと、今日という日を忘れられないまま、生きていくことになる。……ね? 一思いに殺すよりも、こっちの方があの人たちをよっぽど苦しめられると思わない?」
ああ――なんて、醜いのだろう。
愛した人を犯罪者にしないためとはいえ、こんな言葉を吐き出す自分は、恐ろしく醜悪だ。
でも、それでもアレスが殺人鬼に成り下がるのは嫌だ。その上、被害者となる人間が、こんなどうしようもない下衆だなんて、認められるはずがない。
だから、これはレナータのエゴだ。
「だから、アレス……もう、やめよう。もう、家に帰ろう――私たちの家に。お願いだから……」
祈るような気持ちで、アレスの背に額を擦り寄せる。
家に帰ったところで何になるのかという気持ちが、一切ないわけではない。あの三人の男たちのせいで、レナータたちはもう昨日までの自分たちには戻れない。傷つき、傷つけた事実は消えてなくならない。日常に戻れるのかどうかも、今のレナータには分からなかった。
だが、それでも帰りたかった。アレスと一緒に支え合って生きた思い出がいっぱい詰まったあの家に、今は帰りたくて仕方がない。
レナータの声が宙に溶けて消えると、先程までの出来事が嘘みたいに、辺りは静寂に包まれた。
それから、どれくらいの時間が経ったのだろう。おそらく、数分にも満たない時間しか経過していないのだろう。しかし、今のレナータには妙に長く感じられた。
「――そうだな、帰るか」
ようやく沈黙を破ったアレスの声は、落ち着きを取り戻していた。握っていたナイフは、アレスのパーカーのポケットの中へと滑り落されていく。
正気に戻ってくれたのだと、ほっと安堵の吐息を零してゆっくりと身体を離すと、アレスがこちらへと振り返ってくれた。レナータへと注がれる琥珀の眼差しから、殺戮を望む獣じみた気配はもう消えている。
再度、胸いっぱいに安心感が広がっていくのを感じていたら、唐突にアレスがきつく眉根を寄せた。しかも、どうしてかアレスの視線はレナータの顔ではなく、その下に向けられていた。
疑問に思いつつもその視線の先を辿っていけば、下着こそ身に着けているものの、ほとんど素肌を晒しているレナータの上半身が、視界に映り込んだ。
「……もう少し、隠す努力をしろ」
「ご、ごめん」
正直、アレスを止めることで頭がいっぱいになっており、自分がどんな状態だったのか、すっかり失念していた。見苦しいものを晒していたことには、申し訳なさを覚えるが、アレスも無言で見ていないで、もっと早く指摘して欲しい。
チュニックは無残に引き裂かれていたものの、羽織っていたパーカーは汚れただけで、無事だったから、慌ててジッパーを引き上げて肌を隠すと、何の前触れもなくアレスに手を掴まれた。そして、足早に表通りへと向かっていく。レナータも、一刻も早くこの場から立ち去りたかったから、急いでアレスの隣に並ぶ。
表通りに出るや否や、瞬く間に喧騒に包まれた。本当に、先刻までレナータたちの身に降りかかっていた出来事は、悪い夢だったのではないかと思えてくる。
でも、レナータの殴られた頬は、未だにじんじんと痛む。もしかしたら、赤く腫れ上がっているのかもしれない。服だって破れ、土汚れが付着している。それに何より、アレスからは微かに血の臭いが漂ってきている。
今のレナータたちは、明らかに異質で、周囲から浮いているに違いないのに、誰もこちらに注意を払っていない。スラム街の住人は、自分とは関係のない赤の他人に、良くも悪くも無関心だ。
だが、そのおかげで、注目を浴びずに済んでいるのだから、今はこの街の住人の気質が有り難かった。
ふと、繋がれた手に力がそっと込められた。まるで、もう二度と決して放さないとでも言いたげの力加減だ。さりげなくアレスの横顔を窺ってみたものの、琥珀の眼差しは前方を見据えたままだ。
だから、レナータも言葉にこそ出さなかったが、声なき想いに応えたくて、いつもよりずっと強い力で手を握り返した。
***
小さな手を引きながら自宅に帰ってすぐ湯を沸かし、レナータを風呂に入らせた。本当は、すぐにでも怪我の手当てをしたかったのだが、 今のレナータには一人になる時間が必要だろうと思ったのだ。それに、地べたに押し倒されていたから、レナータの全身は汚れてしまっていたし、温かな湯は凝り固まった心を解きほぐしてくれるに違いない。
椅子に腰かけ、ダイニングテーブルの上に頬杖をつきつつ、そんなことを考えていたら、脱衣所の扉が開き、湯上り姿のレナータが現れた。いつもは天真爛漫な笑みに彩られている顔には、今は何の表情も浮かんでいない。
見慣れたパジャマを身に纏っているレナータが、とことことアレスの元へと歩み寄ってくると、少しふっくらとした柔らかい唇から、ぽつりと言葉が零れ落ちてきた。
「……アレス。次、どうぞ」
「いや、それより、怪我の手当てを――」
「――アレス、血の臭いがするよ」
レナータが風呂から上がってきたら、すぐに使えるようにと出しておいた救急箱に手を伸ばそうとした寸前、透明感のある柔らかい声に言葉を遮られた。
一度逸らしていた視線をレナータに戻せば、今の状況には似つかわしくない、恐ろしく澄んだ翡翠の眼差しが、アレスをじっと見つめていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます