呼び声

「だ……大体、あんたがそうやって、レナータを大事に大事に守っているから、あいつらはレナータに目をつけたんだよ」

「――どういうことだ」


 アレスがそう訊ねれば、カルロの奇妙な笑みが、にいっとより一層深まっていく。


「あんたがレナータを守れば守るほど、レナータの付加価値は上がっていったんだよ。みんな、誰かの大切なものほど、欲しがるもんだろ? だから今回、レナータは狙われた。もし、あんたがレナータのただの兄貴分に徹していれば、レナータはこんなことに巻き込まれずに済んだんだよ。あんたさえ……あんたさえいなければ、レナータは――」

「――言いたいことは、それだけか」


 ――カルロの言葉が耳朶を掠めていった刹那、再び頭の奥で何かが焼き切れる音が聞こえた気がした。

 問答無用にカルロの人差し指を折り曲げると、もう何度目か分からなくなってきた悲鳴が耳の奥まで響いた。カルロの身体は不自然なほど、ひくひくと痙攣している。


「そうか……なら、この質問にも答えろ。……てめえの仲間は、あのニット帽の男と、馬鹿でかい男の二人だけか?」


 カルロは、もう声を出す余力が残されていないのだろう。こくこくと、幾度も激しく首を縦に振る。


「そうか、よく答えられたな」


 褒美だと言わんばかりに、最後に残された親指をへし折れば、一際濃いアンモニア臭が鼻をついた。

 悪臭に表情を歪めながら、一旦カルロの上から退くと、振り向きざまに巨漢に向かって護身用のナイフを投擲する。すると、片手を押さえたままその場から逃げ出そうとしていた大男の背に、吸い込まれるように刃が突き刺さった。

 狙い通りにナイフに貫かれた男は、叫び声を上げつつ地面に倒れ込んだ。


「安心しろ……。急所から外れているし、そもそもそんなに深く刺せるわけねえだろ。投げただけなんだからよ。だから……逃げるんじゃねえぞ」


 倒れた巨漢にゆっくりと歩み寄り、大男の顔を覗き込みながら、血に濡れたナイフを回収すると、先程のカルロみたいに、無言で激しく頷いた。この様子ならば、そう簡単には逃走を図らないだろう。

 緩慢とした動作で立ち上がり、刃を軽く振ると、ぱたぱたと血の雫が地面に降り注ぐ。そして、カルロの元へと戻り、ナイフの刃でその頬をぺたぺたと叩く。


「さて……どうするか……」


 今すぐ殺してやってもいいが、楽に死なせたくはない。

 右手の指を一本ずつ切り落とし、両手を使いものにならないようにしてから、刺し殺してやろうか。もしくは、呼吸ができない苦しみを味わわせつつ、絞殺するか。先刻のニット帽の男同様、壁に顔面を叩きつけ、ぐちゃぐちゃにしてから、撲殺してやろうか。確か、その辺にまだ鉄パイプが転がっていたはずだ。


(ああ……どれも――)


 ――楽しそうだ。


 胸中でそう呟いた途端、自然と唇に笑みが刻まれていった。その様を目の当たりにしたカルロの顔は、絶望一色に染まっていく。


 これまで、積極的に他人を痛めつけたいと思ったことは、一度もなかった。大切なものを奪われたくなくても、選択の余地がない場合の、最終手段だと考えていた。

 だが、今はこの馬鹿なガキを嬲り殺したくてたまらない。苦痛に喘ぎ、恐怖に歪めた顔を眺めながら、さらなる奈落の底へと叩き落してやりたい。


 自分の中に、こんなにも暴力性と残虐性が潜んでいたとは、夢にも思わなかった。何故、今までこれらの欲求が顔を出さずに済んだのだろう。


(理由なんて、何でもいいか)


 そう胸の内で吐き捨て、全ての指がおかしな方向に曲がっているカルロの左手を踏みつければ、断末魔みたいな絶叫が鼓膜を貫いた。嬲り殺しを実行する場合、この耳障りな悲鳴を聞き続けなければならないのかと思うと、少しだけ迷いが生じた。

 しかし、迷っていたのは、本当にごく僅かな間だけだった。とりあえず、右手の小指から切り落としてやろうと、ナイフの柄を握り直す。


「――アレス! もう、やめて……!」


 その時、悲痛な響きを帯びた叫びが耳朶を打ったかと思えば、柔らかなぬくもりが背に抱きついてきた。そして、透明感のある柔らかい声が鼓膜に沈み込んでいくのと同時に、徐々に胸の奥底で暴れ狂っていた願望が鳴りを潜めていった。



 ***



 アレスがこの場に現れた瞬間、加害者と被害者の立場は、あっという間に逆転してしまった。これでは、もうどちらが悪なのか分かったものではない。

 そう頭では理解していたのに、レナータはすぐには動けなかった。目の前に広がる光景が、あまりにも非現実的で、身体が凍り付いてしまっていた。それなのに、無情にも思考だけは凄まじい速度で巡っていった。


 アレスは、これまで実戦を経験したことはない。エリーゼたちと一緒に暮らしていた頃は、母親のミナーヴァが送ってきた教材で戦い方を学んでいたが、それだけだ。スラム街に移住してからは、万が一を恐れ、ミナーヴァとは連絡を取り合わなくなったのはもちろんのこと、会うこともなくなったから、学ぶ機会も激減していた。

 そもそも、アレスは荒事を好む人ではなかった。可能な限り、暴力とは距離を置いていたように思う。


 それが、今はどうだろう。他者を甚振るアレスは、ひどく愉快そうだ。他人を蹂躙することに歓喜を覚えている琥珀の瞳は、さながら狼の目そのものだ。


(これが……アレス……?)


 生物は、生得的要因と環境的要因、その二つの要因を基に形作られていくものだ。ならば、今のアレスを駆り立てているのは、生得的要因――グラディウス族の血なのだろう。


 確か、第一世代のグラディウス族の脳は、科学者たちによって弄り回されていたはずだ。

 万が一にも、戦場で躊躇いを生じさせないために。いっそ、他者に苦痛を与え、命を奪っていくと、悦に浸るように。その快楽を追い求めさせ、次々と敵を屠っていくよう、脳の構造を作り変えていたはずだ。

 そしてその性質は、二世代目のグラディウス族にも、脈々と受け継がれてしまったに違いない。その二世代目のグラディウス族に当たるアレスが、今までそういう欲求とは無縁に生きてこられたのは、きっと単純に運がよかっただけなのだろう。


 そこまで考えたところで、アレスがナイフの柄を持ち直した。そこで、ようやくはっと我に返る。


(このままじゃ、駄目……)


 レナータがこのまま傍観に徹していたら、間違いなくアレスはカルロをその手で殺害してしまうだろう。

 それだけは駄目だと、今にも逃げ出しそうになる自分自身を戒め、目にぐっと力を込め、アレスに向かって駆け出した。


「――アレス! もう、やめて……!」


 アレスの胴に両腕を巻きつけ、必死にしがみつく。

 こんなことをしても、大した抑止力にならないことくらい、自分でもよく分かっている。普段のアレスでも、簡単に振り払えてしまうに違いない。今のアレスならば、レナータを吹き飛ばしてしまうかもしれない。


 でも、アレスはそもそも、レナータを助けようと力を振るっていたのだ。それは、おそらく間違いない。だから、そこに一縷の望みを賭け、そう易々と離すものかと、アレスにさらにぎゅっと抱きつく。


「アレス、もういい! もう、いいの! だから、もうやめて! それ以上、暴力を振るったら、その人、死んじゃう!」

「……それの、何がいけない?」


 懸命に叫ぶレナータに返ってきた声は、ひどく乾いていた。だが、その奥では暴力性と残虐性が蠢いているのだと、確信を抱かせるには充分な声音だった。

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