狂犬

 ――何故、レナータが最初に連絡を入れた段階で、気づけなかったのだろう。レナータが最初に送ってくれたメッセージに、もっと早く気づいていれば、こんなことにはなっていなかったのではないか。


 だって、レナータが助けを求めるメッセージを送信してきた直後、なりふり構わずに店から飛び出し、すぐに見つけられたと思っていたのに、アレスの視界に飛び込んできたのは、薄闇に浮かび上がる、抜けるように白い肌と、その柔肌を這っていく男の手だった。


 その光景を目の当たりにした途端、頭の奥で何かが焼き切れたような気がした。そして、気づけば、レナータに覆い被さる男の元にあっという間に辿り着き、その横っ腹を蹴り飛ばしていた。男はあっさりと吹き飛び、建物の壁に叩きつけられ、そのままずるずると地面へと落ちていく。


「アレス……」


 透明感のある柔らかい声が、縋るようにアレスの名を呼んだが、返事をする余裕はない。先刻は視界に入らなかったものの、他に二人の男がいたらしい。


 やたらと体格に恵まれている男は、片手を押さえて座り込んでいるため、放っておいても問題はないだろう。十中八九、レナータに手の小指をへし折られ、戦意を喪失したに違いない。こんな状況下でも、レナータはアレスの教えを忘れず、忠実に守ったみたいだ。


 しかし、もう一人の男は表情一つ変えず、鉄パイプを片手に襲いかかってきた。とりわけ体格に恵まれているというわけではなさそうだが、座り込んだまま動けずにいる巨漢よりも、余程荒事に慣れているらしい。

 でも、今のアレスの目には、どうしてか男が鉄パイプを振りかぶる姿が妙に緩慢として見えた。そんなにゆっくり動いていては、隙を生むだけではないかと、鼻で笑う。


 振り下ろされてきた鉄パイプを難なく左手で掴み取るや否や、隙だらけの腹部に蹴りを放つ。ニット帽の男が苦悶に表情を歪め、身体を折り曲げたのと同時に、奪い取った鉄パイプを遠くに放り投げ、男の横っ面に拳を叩き込んだ。それから、ニット帽ごと男の薄茶色の髪を掴むと、その顔面を建物の壁に何度も叩きつけた。

 途中で、耳障りな音が聞こえてきたから、鼻が骨折したのかもしれない。それに、白くて小さな何かがいくつか零れ落ちてきたから、きっと歯も何本か折れたのだろう。


「――おい……聞きてえことがあるんだが」


 一度、ニット帽の男の顔を壁に叩きつけるのをやめ、強引にこちらへと向かせる。どちらかといえば、整っていた男の顔は、今は見るも無残なものに変わり果てており、鼻からはだらだらと血が流れ落ちていた。


「てめえら、うちの妹に用があったみてえだが……何をしようとしていた?」


 目の前の男たちがレナータに何をしようとしていたかなんて、あの光景を見れば、容易に想像がつく。

 だが、問題はその後だ。レナータを蹂躙した後、この男たちはどうするつもりだったのか。

 ニット帽の男がうっすらと口を開こうとした矢先、再びその顔を壁に叩きつけた。


「答えるのが、遅えよ……。ほら、さっさと答えろ」


 再度手を止め、こちらへと振り向かせてやれば、恐怖に見開かれた目と視線が交錯した。男は唇をわななかせていたものの、先程とは異なり、すぐに口を開いた。


「お……おがじ、で……うろう、と……」

「そうか……」


 耳障りな声が紡いだ返答を耳にするなり、また男の顔面を壁に打ち付け始める。腹の奥底で行き場を求めている怒りを、叩きつけるかのごとく、幾度も幾度も繰り返す。

 やがて、男の身体からぐったりと力が抜けたところで、ぱっと手を放す。男は呻き声さえ上げず、そのまま地面に倒れ込んだから、激痛に耐えられず、気を失ってしまったに違いない。

 この程度で失神しているのではないと思ったが、この男にはもう用はない。


 視線を動かした先には、地面に這いつくばりながらも、必死にこの場から逃げ出そうとしている男の姿があった。瞬く間に男との距離を詰めると、容赦なく背中を踏みつけた。


「おい……逃げるなよ。随分と、つれないな……」


 ぐりぐりとその背を踏みつけていたら、男が呻き声を上げつつも、ぎこちない動作でこちらへと振り向いた。苦痛と恐怖に引きつったその顔には、見覚えがある。


「お前、カルロといったか。なんで、てめえがレナータにこんな真似をした?」


 確か、カルロはレナータに恋心を抱いていたはずだ。少なくとも、二年前の夏の時点ではそうだった。それなのに、何故こんな犯罪行為に加担したのか。


 しかし、先刻のニット帽の男と同じで、すぐには答えようとしなかった。すぐに答えれば、多少は痛い目を見ずに済むかもしれないとは、考えもしないのだろうか。それとも、すぐには答えられないほど、アレスが恐ろしいのだろうか。


 一つ溜息を吐くと、その場にしゃがみ込み、カルロの左手を取る。それから、躊躇なく小指をへし折った。

 木片が真っ二つになったかのような音が辺りに鳴り響いた直後、カルロの口から絶叫が迷った。その上、アンモニア臭までもが嗅覚を刺激してきた。どうやら、痛みか恐怖か、あるいはそのどちらもが原因で、失禁してしまったらしい。


「きったねえなあ……。指一本折られた程度で、ぎゃあぎゃあ泣き喚くな。鬱陶しい」


 そうだ、この程度ではまだ足りない。カルロの指を一本骨折させただけでは、この怒りは収まらない。


「なあ……てめえにとっては、レナータは惚れた女なんだろ? 仲間と一緒に犯して売り飛ばすことが、惚れた女にすることか? なあ……答えろよ」


 薬指を掴んだ瞬間、カルロの悲鳴じみた声が耳をつんざいた。


「も……元はといえば、あんたのせいだろ!」

「……あ?」


 この期に及んで、この男は何を口走っているのか。

 意味は理解できなかったが、とにかく不快だったから、眉間に皺を寄せたまま、そのまま薬指をへし折れば、もう一度周囲に叫び声が響き渡った。このままでは、誰かが騒ぎを聞きつけ、やって来るのではないかと思ったものの、カルロの絶叫さえなければ、不思議なくらい辺りは静かだった。


(ああ……面倒ごとには関わりたくねえのか)


 そういえば、スラム街の住人の多くは、事なかれ主義だったと、ふと思い出す。自分に差し迫った実害がなければ、誰がどんな目に遭おうとも、見て見ぬふりを決め込む。

 だから、今までもアレスが守らなければ、誰もレナータを助けようとはしなかった。そして、今回も同様の結果になった。それだけの話なのだろう。

 そんなことを考えていたら、カルロの声によって意識が現実へと引き戻された。


「あ……あんたが、ずっと、レナータに俺を近づかせなかったから、いけないんだ……!」

「……それとこれと、どういう因果関係があるっていうんだ」


 全くもって、意味が分からない。恐怖心に囚われるあまり、思考が迷走しているのではないか。

 眉間に一際深い皺を刻み、そう問いかければ、カルロは涙と鼻水を垂れ流しながら、喚き散らした。


「お、俺は……ただ、一回くらいレナータと付き合ってみたかっただけなのに……! あんたが、ずっと見張っているもんだから、話しかけることもできなくなって……! そ、そんな時、あいつらに声をかけられて、レナータの情報を売って、捕まえるのに協力したら、俺に最初にやらせてくれるって……! 好きな女とは、一回くらいやってみたいって、男なら誰もがそう思うだろ!?」

「……そんなの、知らねえよ。つうか、それ、何の免罪符にもならねえだろ」


 アレスに、カルロをずっと監視していた覚えなど、露ほどにもない。大方、カルロが一人で勝手に怯えていただけに違いない。

 しかも、レナータへの想いを拗らせた挙句、こんな暴挙に出るなんて、馬鹿にも程がある。


 聞くに堪えない言い分に舌打ちをして、次は中指の骨を折ると、また絶叫が鼓膜を激しく震わせた。

 でも、今度は叫ぶだけでは終わらなかった。カルロは額に脂汗を浮かべつつも、どうしてか唇を笑みの形に歪めた。

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