亀裂

(嘘……あのストーカーの仲間!?)


 気が動転しそうになりながらも、腕を振り解こうともがいていたら、そのまま引きずり倒されてしまった。うつ伏せに倒れ込んだレナータの身体は強引に裏返され、巨漢が上に覆い被さってくる。


 ここは路地裏だが、飲食店が並ぶ通りは、目と鼻の先だ。叫び声を上げれば、もしかしたら誰か気づいてくれるかもしれない。

 周囲に助けを求めようと、密かに大きく息を吸い込み、喉の奥から声を押し出そうとした矢先、男の分厚い手がレナータの口を覆ってきた。そのせいで、叫び声はくぐもった音にしかならず、余程近くに誰かがいない限り、レナータの声は届かないだろう。


 レナータの口を塞ぐ男の生温い息が顔にかかり、ぞっと肌が粟立つ。男の顔は、愉悦の形に奇妙に歪んでいた。

 何の目的があって、目の前の男がこんな真似をしているのか、その表情を見れば、嫌でも予想がつく。同時に、吐き気を覚えるほどの生理的嫌悪感が込み上げてくる。

 もう、先刻のストーカーの仲間かどうかなんて、関係ない。今すぐ、この男から逃げなければならない。


 本能がそう警鐘を鳴らした瞬間、急いでレナータの口を塞ぐ手の小指を掴み、ぐっと全身の力を込めて反対方向へと曲げた。その直後、ぽきっと木の枝が折れるような音が聞こえてきたかと思えば、男の口から悲鳴が迸り、塞がれていた口がようやく解放された。

 女子供の力など、たかが知れていると思われがちだが、全力でやれば、手の小指くらいならば、へし折ることができる。口を塞がれたら、迷わずそこを狙えと、アレスが教えてくれた。

 上体を跳ね起こし、指を折られた方の手を押さえる男に頭突きを繰り出すと、素早く立ち上がる。


 だが、身を翻して駆け出そうとした寸前、後ろから思いきり髪を引っ張られた。痛みに顔を歪めたのも束の間、頭を掴まれたまま、地面へと顔から沈められた。

 咄嗟に両腕で顔を庇うことには成功したものの、犠牲にした腕にはじんじんと痺れが広がっていく。もし、無防備に顔面を地面に打ち付けていたら、もしかすると鼻が折れていたかもしれない。


 しかし、いつまでもレナータがうつ伏せで倒れていることを、相手は許してはくれなかった。先程同様、レナータの身体が引っくり返された刹那、男の顔が視界に映った。

 今、レナータの上に覆い被さっているのは、先刻の巨漢ではない。すらりとした体躯を持つ、ニット帽を被った男だった。


 でも、当然ながら、今のレナータにのんきに眼前に迫る男の顔を観察している余裕なんて、欠片もない。レナータの力で抵抗を試みたところで、大して意味はないから、とにかく叫ばなければならない。

 また口を塞がれたらたまらないと、即座に息を吸い込んだ直後、頬を強い衝撃が襲った。視界がぶれ、頬に痺れと熱が走る。遅れて、じわりと痛みも覚えた。目の前の男に殴られたのだと、そこまで感覚を拾ったところで、ようやく理解する。

 殴られた衝撃のせいか、未だにぐらぐらと揺れる視界の中、見覚えのある光景が過った。手足を拘束され、冷たい石床に転がるレナータを、せせら笑う二人の男が鉄格子越しに眺めている。


(ああ、これは――)


 ――レナータが、人類の守り神と呼ばれていた頃の記憶か。

 過去を振り返っていられる状況ではないというのに、Zプロジェクトに反対した結果、地下牢で拘束された当時の光景が、忌々しいほど色鮮やかに瞼の裏に蘇ってくる。


『おいおい、これが人類の守り神様だとよ。大したことねえなあ。これじゃあ、ただの女じゃねえか』

『だが、顔と身体はよさそうだな』

『お前、無機物に欲情しているのか? どれだけ飢えているんだよ』

『馬鹿、思ったことを言っただけだよ。下手に犯そうとしたら、攻撃許可どころか殺傷許可が下りるロボットに、誰が手を出すかよ』

『だよなあ』


 そうだ、どうして忘れていたのだろう。

 鉄格子越しに、下卑た笑みを浮かべてレナータを舐め回すように見る男たちに、怒りや屈辱、憎悪、それから恐怖を覚えたというのに、何故これまで忘れていられたのか。


(違う……忘れていたんじゃない……)


 当時のレナータは、ロボットだった。だから、頭部に納まっているのは、脳ではなくて生体コンピュータだった。記録さえ残しておけば、その時に味わった感情は消しても何の問題もなかった。

 だから――少しでも、エラーを起こすリスクを回避するため、レナータにとって不都合な感情を消去していただけだ。

 それなのに、どうして今思い出してしまったのか。あの時と似たような状況に陥ったから、連鎖反応を起こした脳が、過去の記憶を引きずり出してしまったのだろうか。


 だが、そこで意識が現実へと引き戻された。

 男はレナータのチュニックに手をかけると、勢いよく引きちぎった。露わになった肌を涼しい夜風が撫で、背筋に悪寒が走る。そして、男が手にした布をレナータの口の中に無理矢理押し込んできた。ぐいぐいと口内に布が侵入してくる息苦しさから、自分の意思とは関係なく、目尻にぶわりと生理的な涙が込み上げてきた。


 こんな男の前で、泣き顔は晒したくない。

 だから、絶対に泣くものかと、ぐっと目に力を込めて男を睨み据える。すると、今のレナータにできる精一杯の抵抗を目にした男が浮かべ た嘲笑が、焦点が定まらない視界の中でも捉えられた。


「――おいおい。こういう気が強い女は、何を仕出かすか分からねえから、殴って口の中に布を押し込んでおくのが、定石だろ。暴れられる のも面倒だが、舌噛みきって死なれても困るからな」


 男は、おそらくレナータに小指を折られた、巨漢に話しかけているに違いない。レナータから視線は外され、別の場所へと向けられている。レナータを嘲笑う男の言葉が耳朶を打った途端、腹の奥底から怒りが湧き上がってきた。


(誰が……そう簡単に、自殺なんてするもんか……!)


 これは、両親が、アレスが、ずっと守り続けてくれた命だ。そう容易く投げ出せる命ではない。たとえ、ここで凌辱されたところで、自分の命を軽んじるような真似だけはできないと、必死に己に言い聞かせる。本当は、奥歯を噛み締めたいところだったが、布が邪魔をして、柔らかいのか硬いのか、よく分からない感触だけが歯に伝わってくる。


「お、やっと追いついたか――カルロ」


 ニット帽の男の口から飛び出してきた、信じ難い名に、驚愕に目を見開く。その拍子に、目の縁に溜まっていた涙が、顔の横に流れ落ちていったが、今はそんなことに構っていられなかった。


(あのストーカー男が、カルロ……?)


 何故か、未だに視界は揺れ続けていたが、意志の力で視線を動かす。すると、レナータが催涙スプレーとリュックサックで撃退した男が、視界の隅に映る。よくよく目を凝らして見れば、確かにその男はレナータの職場の同僚であるカルロだった。


(どうして、カルロが……)


 二年前の夏、アレスにきつく言い含められてから、カルロは必要最低限の連絡以外では、レナータと口を利かなくなった。余程、アレスの牽制が堪えたのだろうと、同情さえ覚えそうになったのに、どうして今こんなことになっているのか。


「悪い……催涙スプレー、水で落とすのに、思ったより時間かかった……」

「ミネラルウォーター、用意しておいて、よかっただろ。こういうところにいる女は、持っている奴が多いからな」


 何故――その男と、親しげに話しているのか。

 状況に思考が追いつかず、茫然と二人を見上げていたら、ニット帽の男がレナータに視線を戻した。


「それにしても……思ったより、随分といい身体をしているな。十五の女だっていうから、大して期待なんてしていなかったんだが……」


 舌なめずりをする男の視線が、レナータの素肌を這う。その気持ち悪さに、咄嗟に息を呑む。


「おい……約束と違うだろ」


 ニット帽の男がレナータの肌を眺めていたら、カルロが口を挟んできた。


(約束……?)


 一体何の話かと、微かに眉根を寄せるレナータに構わず、カルロたちは言葉を続けていく。


「ああ、最初にお前にやらせるって話な。別に、約束を破るつもりはないぜ?ただ、俺も参加する気になったってだけの話だ」

「なら、いいけど……」

「まあ、このくらいの歳の女は、処女の方が高く売れるんだが……どうせ、こいつ、処女じゃねえだろ。男咥え込んで、生きてきたような女だもんなあ」


 その言葉が鼓膜を貫いた瞬間、かっと頭に血が上っていった。先程まで、恐怖で全身が冷えきっていたというのに、今ではその感情を凌駕する勢いで膨れ上がっていく怒りにより、燃えるように熱い。


(ふざけないで……!)


 どうして、こんな男たちにレナータとアレスの関係を貶めるような言い方をされなければならないのか。

 今すぐにでも叫び出したい衝動に駆られても、口の中に詰め込まれた布のせいで、手負いの獣じみた唸り声が僅かに漏れるだけだ。


 視界に映るもの全てを睨みつけていたら、不意にニット帽の男がレナータの上から退いた。しかし、間髪入れずにカルロが覆い被さってきたため、レナータがこの場から逃れる隙は、砂粒ほどにも与えられなかった。

 それでも、心だけは屈するものかと、眼前に迫る顔を睨み据えれば、カルロは気まずそうにレナータから目を逸らした。そんな反応をするくらいならば、こんな真似をするなと糾弾したかったが、やはり口の中の布が邪魔だ。


 カルロは、表情こそ申し訳なさそうにしているものの、その手は欲望に忠実だ。レナータの腹部に置かれた手が、次第に上へと移動していく。まるで、その動きに連動するかのごとく、吐き気が喉元までせり上がってくる。自然と手足に力が入り、考えるよりも先に身体が動き、カルロの下でじたばたと暴れる。


 瞼を下ろしたわけでもないのに、目の前が真っ暗になっていく錯覚に溺れそうになった直前、レナータを襲った男たちとは異なる足音が鼓膜を揺さぶったかと思えば、突然カルロの身体が吹き飛ばされた。

 事態はよく呑み込めなかったものの、この好機を逃す手はない。


 素早く身体を起こし、引き裂かれたチュニックを掻き合わせ、口の中から布を引っ張り出すと、カルロが吹き飛んでいった方向へと視線を走らせる。

 そこには、見慣れた男性がレナータに背を向ける形で、吹き飛ばされたカルロの前に立っていた。


「アレス……」


 安堵の吐息と共に、レナータがこの世界で最も信頼できる人の名が、つい唇から零れ落ちていく。いつの間にか、視界も正常に戻り、もう揺れてはいなかった。

 カルロは呻き声を上げつつ、地面に這いつくばっており、反撃の予兆は一切見受けられない。


 でも、そんなカルロの代わりに、ニット帽の男が無言でアレスに襲いかかろうとしていた。しかも、その手には鉄パイプが握られている。その辺に転がっていたものを拾ったのか、あらかじめ用意しておいたものなのか知らないが、このままではアレスが危険だ。


 だが、レナータが声を上げるよりも早く、アレスはすぐに男へと向き直っていた。アレスの横顔を視界に捉えた刹那、形容し難い感情が胸の奥底に芽生えていった。


「……アレス……?」


 ――黄金に輝いて見えるその瞳に、アレスが怪我をしたらどうしようという不安とはまた別の、恐怖が胸を掠めていった。

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