七章 罪悪

アレス二十二歳、レナータ十五歳

 また月日は流れ、アレスが二十二歳、レナータが十五歳となった年の秋のことだった。夏が過ぎ去り、朝晩ともなると涼しいくらいになったその日、レナータは職場の同僚である女友達と一緒に夕食を外で摂ることにした。事前にそう伝えておいたから、その日はアレスも夕食は外で済ませると聞いていた。


「――うーん! おいしかったねえ」

「ね、おいしかったね。ついつい食べ過ぎちゃったよ」


 レナータはアメリアの言葉に同意し、腹部を軽く擦る。ピザとパスタが評判のレストランで食事をしたのだが、チーズは満腹感を覚えやすい食材だと思う。


「ねー! 本当に、それ!」

「なんかさあ、お手頃価格の食べ物って、高カロリーのもの多くない? 私、貧乏なのに、太りそう」

「あ、分かる! 高タンパク低カロリーのものほど、結構いいお値段するよねえ」


 盛り上がるアメリアたちとは対照的に、レナータはこっそりと首を傾げる。

 レナータは母親に似て、太りにくい体質だ。だから、どれだけ食べようとも、体型への影響はそれほどない。

 だが、そんなことを今この場で口に出そうものなら、袋叩きの刑に遭いそうだから、大人しく口を噤んでおく。


 アメリアたちの会話を聞き流しながら、オフホワイトのチュニックの上に羽織っている、薄手のミントグリーンのパーカーのポケットに手を突っ込む。そして、ポケットから携帯端末を取り出すなり、ホームボタンを押し、画面を表示させる。画面が明るくなった直後、指を滑らせてメッセージアプリを開き、アレスに連絡を入れる。


『ごはん食べ終わったから、先に家に帰るね』


 一瞬、アレスに迎えにきてもらおうかと思ったものの、今日はそんなに遅くならなかったのだ。きっと、アレスは食事中だろう。ならば、今日は一人で帰っても大丈夫だろうと判断し、一足先に帰宅する旨を伝えた。


 レナータの予想通り、アレスはまだ食事中だったに違いない。いつもならば、メッセージを送ると、すぐに返信が来るのに、今日は既読すらつかない。


「レナータ、今日もお兄さんが迎えにきてくれるの?」

「ううん、今日は一人で帰ろうかなって」

「え、レナータのお兄さん、今日は来ないの?」

「ええー、残念。ちょっと顔を見たかったのに」

「ねー。レナータのお兄さん、怖そうだけど、かっこいいもんね。遠くから拝みたいよね」

「うん、遠くから見ている分にはかっこいいよね」


 友人たちのあまりにも明け透けな感想に、思わず苦笑いを浮かべる。


 アメリアたちは、アレスに憧れめいた感情を抱いているものの、関わり合いにはなりたくないみたいだ。アレスがレナータの迎えにきてくれた時は、遠くからこちらの様子を観察しているが、ただの一度も近寄ってきたことがない。友人たちの中で、アレスは観賞物という扱いらしい。


 しかし、そこまで話したところで、アメリアが不意に心配そうに表情を曇らせた。


「でも、レナータ。一人で大丈夫? この辺、何かと物騒だから、それなら途中まで一緒に帰ろうよ」

「本当? そうしてくれると、助かる。ありがとう、アメリア」


 やはり、持つべきものは心優しい友達だ。おかげで、全身に一気に安堵が広がっていく。


「そうそう、みんなで帰ろ!」

「みんな一緒なら、怖くない!」


 アメリアの言葉に同調した他の友人たちも、ぴったりとレナータの周りを固めてくれた。なんて頼もしいガーディアンたちなのだ。


「みんな……本当に、ありがとう」

「なんのなんの」

「レナータ、可愛いからなあ。なーんか、悪い男に引っかかりそうで、心配」

「だから、我らがお姫様。今日は、私たちがお守り致します」

「それは、ありがたいんだけど……悪い男に引っかかりそうって、ちょっと失礼じゃない……?」


 アメリアたちは一体、レナータのことを何だと思っているのか。

 きゃいきゃいと言葉を交わしつつ、みんなで一緒に家路につくと、確かに不安はそれほど感じずに済んだ。時々視線を感じても、女の子同士で固まって行動しているからか、ほとんど声をかけられなかった。話しかけられても、何事もなかったかのように、みんなでお喋りに興じていれば、向こうもすぐに諦めてくれた。


「じゃあね、レナータ。また明日ねー」

「うん、またね」


 みんなとの分かれ道に差し掛かり、それぞれに別れの言葉を告げると、皆、足早にそれぞれの家へと向かう。スラム街では、女の子が一人でのんびりと歩いていたら、格好の獲物と見なされてしまうからだ。


 だから、レナータもさっさと家に帰ろうとしたのだが、ふと人の気配を後ろから感じた。何となく気にかかり、一旦立ち止まってそっと背後を窺ったものの、目視できる範囲に人の姿は見当たらない。

 気のせいかと思い、正面に視線を戻して歩みを再開させた途端、レナータ以外の人間の足音を聴覚がはっきりと捉えた。

 試しに、もう一度レナータが歩みを止めると、先程聞こえてきたはずの足音もぴたりと止んだ。それから、またすぐに歩き始めると、再び後ろから足音が聞こえてくる。レナータが歩調を変えれば、向こうもこちらのペースに合わせてくる。


(……間違いない)


 相手は誰だか知らないが、レナータは今、確実に何者かに後をつけられている。

 ならば、このまままっすぐ自宅に向かうのは、得策ではない。たとえ今回、相手を撒くことに成功しても、ストーカーにレナータの家の場所を知られてしまう危険性が出てくる。


 密かに溜息を吐くと、さりげなく進路を変える。自宅がある場所とは違い、人通りが多い方向へと、黙々と歩いていく。そして、人混みに紛れながら、しばらく進んだところで、勢いよく走り出す。

 いきなり駆け出したレナータに驚いたり、鬱陶しそうにしつつも、通りを歩いていた人々は避けていく。迷わずそのまま突き進みながら、再度パーカーのポケットから携帯端末を抜き取り、すぐさま操作する。


『アレス、助けて』


 走りながらだったから、長々とした文面は作成できなかったが、アレスにはこれで充分だろう。とりあえず、アレスが食事をすると言っていた飲み屋へと、このまま進もう。


 でも、通りを抜けても尚、後ろから足音がレナータを追いかけてくる。こんなことならば、いつも通り、アレスに迎えにきてもらえばよかったと、盛大に舌打ちを零す。

 目的地は、まだ先だ。レナータは、足の速さには自信があるが、時間稼ぎのための保険はあった方がいいだろう。

 そう判断するや否や、レナータはその場で急停止し、素早く後ろを振り返る。すると、レナータを追いかけていた男は、急には立ち止まれず、たたらを踏んだ。辺りには薄闇が広がりつつあった上、男はレナータみたいにパーカーのフードを目深に被っていたため、顔はよく見えなかった。

 その隙を逃してたまるかと、帰る間際に、万が一のためにと、携帯端末が入っていたポケットとは、反対のポケットに入れておいた、催涙スプレーを取り出し、躊躇なく男の目の辺りに吹きかける。そして、念には念を入れるため、たった今まで背負っていたリュックサックを下ろし、渾身の力を込めて男の顔面に炸裂させた。

 男が呻き声を上げつつ、顔を押さえている隙を狙い、もう一度走り出した。あのリュックサックの中には、財布も入っていたが、悲しくなるほどの額しか入っていない。それに、今はそんなものに構っている余裕など、微塵もない。だから、くれてやる。


 あと、もうひと踏ん張りすれば、アレスの元へと辿り着く。

 その事実は、逸る心臓を宥める効果があったが、知らず知らずのうちに油断も誘っていたに違いない。

 あと少しで、アレスがいるはずの店が見えてくるというところで、脇道から伸びてきた腕に、咄嗟には反応できなかった。気づけば、左腕を痛いほどの力で掴まれ、暗い路地裏へと引きずり込まれていった。

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