異変
――異変を感じたのは、その日の夕方のことだった。
お気に入りのカフェで少し遅めのランチを済ませ、予約しておいたバースデーケーキを受け取り、いつもより少しだけ奮発したディナーを、アレスが帰宅してくると予想される時刻に自宅まで宅配してもらうように注文し、慣れ親しんできたアパートに帰ってきたレナータは、さて何をして時間を潰そうかと考えていた。
(ケーキは冷蔵庫に入れたし、夕ご飯も予約したし、あとはアレスが帰ってくるのを待つだけ)
ならば、リビングにあるテレビで映画でも観ようかと、液晶画面に視線を向ける。
スラム街で暮らしていた頃は、アレスの職場の同僚から譲ってもらった、お古のテレビで観ていたのだが、かなり劣化していたみたいで、時々修理を必要としていた。
このアパートに入居した際に購入したテレビは、そこまでスペックは高くないものの、以前使っていたものに比べると、雲泥の差だ。画面も流れてくる音声も、ずっと綺麗だ。特に、観ている途中で突然画面がブラックアウトしない点は、非常に好ましい。
何の映画を観ようかと、ラックに並んでいるディスクのパッケージの背を眺めていたら、ふと違和感を覚えた。
(……なんか、静か過ぎる)
今日は、平日だ。レナータの誕生日をゆっくりと祝うため、二人とも有給休暇を取得しただけであり、世間一般では今日は休日ではないのだ。だから、普段よりアパート周辺が静かなのは、当たり前だ。
それに、暦の上では春とはいえ、まだまだ肌寒い日が続いているから、窓だって閉めている。だから、アパートの外の音が聞こえにくくても、不自然ではない。
しかし、近隣から全く物音が聞こえてこないのは、いくら何でもおかしくはないか。平日でも、道路を行き交う車の走行音くらい、窓を閉めていても、聞こえてくるものではないのか。もう夕方なのだから、帰宅してくる人々の気配を感じたり、外で遊んでいた子供たちの笑い声が耳朶を掠めていくものではないのか。
一度違和感を覚えると、この妙な静けさが余計に際立っていく。ごくりと生唾を飲み込む音さえも、やけに大きく聞こえる気がした。
忍び足で窓辺に近寄り、おそるおそる窓の外の様子を窺う。すると、そこにはにわかには信じ難い光景が広がっていた。
車道を走る車の姿がない代わり、そこには何台もの軍用車両が停車していた。その周りには、楽園の軍隊に所属している証である軍服に身を包んだ、何人もの軍人がライフルを構え、待機している。レナータが見た限りでは、一般人の姿は全く見当たらない。
窓から視線を引き剥がし、もう一度足音を忍ばせながら、今度は玄関へと向かうと、急いでドアスコープを覗き込む。その直後、レナータの視界に映り込んだのは、やはりライフルを手にしている軍人たちと、彼らを従えていると思しき一人の科学者の姿だった。
(ああ……とうとう、見つかっちゃったんだ……)
これまでが運に恵まれていただけだと思う反面、今の今まで見つけられなかったというのに、レナータたちの捜索をまだ諦めていなかったのかと、ある意味感心する。
いつの間に、レナータたちの自宅の前まで接近していたのかという驚愕と、どこから情報が漏れたのかという疑念が全身を貫くのと同時に、科学者らしき男性の顔にどこか見覚えがあるような気がして、微かに眉間に皺を刻む。
(ううん、あの男の人のことは、今はどうでもいい......)
即座に思考を切り替え、現状の打開策がないか、一人模索する。
この様子では、単身での脱出は不可能だ。玄関の前には、幾人もの軍人がいる。今のところ、大きな動きは見せていないが、レナータが飛び出してきたら、見逃してはくれないだろう。また、レナータたちが借りている部屋は二階だから、いざとなれば、ベランダから飛び降りても怪我だけで済むに違いないが、結局その先にも軍人が待ち構えているのだ。リスクを冒したところで、レナータにメリットはない。
(多分、あと二、三時間でアレスは帰ってくるだろうけど……)
でも、果たして向こうは悠長に構えているのだろうか。今すぐにでも、この部屋の中に突入されても、不思議ではない。
仮に、アレスが帰宅してくるまで籠城できたとして、事態は好転するだろうか。そもそも、この一帯はあの軍人たちによって占拠されているみたいなのだ。アレスがここに辿り着くのは、至難の業だろう。
(脱出も無理。ここにこのまま籠城したところで、私が助かる見込みは少ない……)
かつては、人工知能だったからだろうか。もしくは七年以上、治安が悪いスラム街で生活していたからだろうか。どこからどう見ても緊急事態だというのに、レナータの思考は恐ろしく冷静に機能していた。もしかすると、暴漢に襲われた経験が、皮肉にもレナータに非日常への耐性を高めたのかもしれない。 回避が不可能ならば、選べる道は抵抗か、服従だ。
今のレナータにとって、武器になり得そうなものは、アレスに買い与えられた催涙スプレーと、キッチンの収納棚にある包丁くらいだ。相手が一人だけならばまだしも、複数人もいる場合、これだけでは心許ない。
そもそも、相手は戦闘の訓練を受けている軍人なのだ。抵抗を試みたところで、すぐに武器を取り上げられ、身柄を拘束されてしまうに違いない。
そう考えると、レナータに残された選択肢は、たった一つしかない。
(私がロボットのままだったら、あんな軍人たち、すぐに制圧できたのに……)
ロボットは、基本的に人間への攻撃を禁じられているが、自身のボディを傷つけられそうな場合のみ、人間への攻撃が許可されている。しかも、レナータは自分が人間に害されそうになった場合、殺傷許可まで下りる仕組みになっていたのだ。
だが、ないものねだりをしたところで、仕方がない。現状を正しく認識し、選択を間違えるなと、自分に言い聞かせる。自身の選択が、自らを破滅に追い込むかもしれないのだ。たった一度の過ちですら、命取りになりかねない。
深く細く息を吐き出してから、ゆっくりと玄関から距離を取った後、まるでタイミングを見計らったかのごとく、インターホンが場違いなほど軽やかに鳴った。
ここで、レナータが沈黙を保ったところで、軍人たちが強行突破してくるだけに決まっている。それに、アレスと暮らしてきた大切な場所を、必要以上に踏み荒らされたくはない。
(なら――)
一度深呼吸をして、今にも胸を突き破りそうなくらい、鼓動を速めている心臓を宥め、喉の奥から声を押し出した。
「――はーい!」
さながら、何も知らない少女を装い、玄関まで小走りで駆け寄る芝居をする。それから、再びドアスコープを覗くと、軍人ではなく、科学者の男が無表情に見つめ返してきた。冷ややかな色合いのアイスグレーの瞳に、やはり既視感を覚える。
レナータが言葉を続けようとした矢先、ドアスコープ越しに見つめ返してくる男に先手を打たれた。
「――私の名は、ルートヴィヒ=フレーベル。楽園の科学者に名を連ねている。……そこにいるのは、レナータ=アードラーなのだろう?」
――涼やかで上品な声が名を告げた瞬間、人工知能だった頃の記憶がありありと脳裏に蘇ってきた。その記憶の中に、確かにルートヴィヒ=フレーベルという男は存在した。
「……久しぶりだね、ルーイ」
レナータは、ルートヴィヒという男と親しかったわけではない。ルートヴィヒは、プロジェクト・黄昏に参加していたメンバーではないから、二度か三度、言葉を交わしたことがある程度の間柄だ。しかし、ルートヴィヒという名はどうも呼びにくかったから、両親を真似て自然と愛称で呼んでいた。
レナータに愛称で呼ばれたルートヴィヒは、神経質そうな細い眉をぴくりと動かした。でも、すぐに何事もなかったかのように、言葉を返してきた。
「……今の貴様に、久しぶりという挨拶が適切かどうかは甚だ疑問だが……久しぶりだな、レナータ。かつて高性能なAIだった貴様なら、我々の目的くらいすぐに分かるだろう」
「……私たちを、楽園に連れ戻すつもりなんでしょ?」
「半分、正解だ。貴様は今の楽園に必要だが、グラディウス族のガキは、別にいらん」
「……そう」
今この場にアレスがいなくてよかったと、心の底から安堵する。同時に、レナータが暴漢に襲われた夜を思い出す。
あの時、アレスは三人の男を散々痛めつけていた。時には、拷問紛いの真似まで仕出かしていたのだ。きっと、アレスがこの場にいたら、レナータを楽園に連れていかせるかと、力の限り反抗しただろう。そうしたら、アレスはこの場で殺害されていたかもしれないのだ。いくらアレスが強いとはいえ、正規の戦闘の訓練を受けている複数の軍人相手に、レナータを守りつつどこまで立ち回れるのか、分からない。
だから、今ここにいるのがレナータだけだったのは、不幸中の幸いだったのかもしれない。
(……待って。これは、本当に偶然なの?)
飛行船に乗れない状況に陥り、アレスの帰りが遅くならざるを得なくなったのは、本当にただの偶然なのだろうか。
(もしかして、ルーイたちの仕業?)
可能性としては、充分にある。
アレスは、戦闘に特化した遺伝子を受け継ぐ、二世代目のグラディウス族だ。できるだけ手間をかけずにレナータを楽園に連れ帰りたいのならば、アレスと分断させた方が得策だ。
実際、どうなのかは知らないし、ルートヴィヒたちの思惑にも微塵も興味が湧かないが、アレスを巻き込まずに済むのであれば、レナータとしてはそれだけで充分だ。
ただ、現在の楽園を取り巻く状況を考えると、十中八九、人類の守り神の記憶と人格を移植された脳か、アードラー一族の人間が必要な状況に追い込まれているに違いないと、薄々察しはついている。
再度、深呼吸をしてから言葉を継ぐ。
「――分かった、貴方たちについていく。でも、その代わり、アレスには手を出さないで。それから……せめて、置手紙だけでも書かせて欲しい。……お別れくらい、ちゃんと伝えておきたいから」
別に、レナータはこれでアレスとは今生の別れになるとは、欠片も思っていない。より正確に言えば、諦めるつもりは、さらさらない。
ただ、今は従順に振る舞っておくべきだと判断したから、ルートヴィヒたちに大人しくついていくだけの話だ。アパートの周辺を包囲されているものの、レナータに手荒な真似をするつもりは、今のところ、ルートヴィヒたちになさそうだ。
「いいだろう。――ただし、手紙を書く条件は、我々の監視の下でだ。書き終わった後には、内容を検めさせてもらう」
「うん、いいよ。――それじゃあ、これで交渉成立だね」
ルートヴィヒの返事に薄く微笑みながら、黒いチョーカーにそっと触れる。入浴時と就寝時以外、八歳の誕生日の時からずっと肌身離さず身に着けている、あのチョーカーだ。その存在を確かめるため、幾度も、幾度も触れる。
(……あの男たちに襲われた時に使わなくて、よかった)
このチョーカーで音声の送受信ができるのは、どちらも一度きりだ。楽園に着いたら、おそらく連絡機器は没収されるだろうから、これが最後の頼みの綱だ。
あの夜に使っていたら、あんな目に遭わずに済んだのかもしれないが、今この瞬間、切り札を失わずに済んだのだ。ならば、あの時のことは、今日という日のための代償だと受け止めよう。
精密検査を受けたら、引っかかる可能性は皆無ではないが、このチョーカーの製作者は、あの母なのだ。そう簡単に、音声の送受信機だと見抜かれないよう、幾重にも罠を張り巡らせているに違いない。
(天才科学者って言われたお母さんの作品、その力を見せつけてやってね)
チョーカーを撫でる手を一旦引っ込めてから、扉の取っ手に手を伸ばす。そして、慎重に開けていくと、ルートヴィヒがすかさず扉の隙間に足を突っ込んできた。
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