浮足立つ心

 ――バレンタインデーから数日が経った頃、アレスはよく一人でぶらりと出かけるようになった。

 きっと、何か欲しいものができて、自分で設定した予算内に収まる品を探しているに違いないと、レナータは大して気にも留めていなかった。


 だが、ある日の晩、ダイニングテーブルの上に置きっぱなしになっていた雑誌が視界に入った刹那、思考も身体も硬直してしまった。


(え……何これ?)


 アレスは先程、浴室に向かったばかりだ。アレスは長くお風呂に浸かったりしないが、しばらくは上がってこないだろう。

 念のため、周囲の様子を窺ってから、そろそろとダイニングテーブルの元まで歩み寄り、その上に無造作に置かれていた雑誌を手に取る。


 その雑誌は、エンゲージリングを特集に組んでいる、結婚関連の情報誌みたいだ。表紙からしてそうとしか思えないし、ぱらぱらと流し読みしてみても、やはりそういった情報ばかりが掲載されている。


(え? え? えええええええええええええ!)


 雑誌を手にしたまま、心の中で絶叫する。思わず取り落としそうになったものの、慌てて持ち直す。その際、雑誌のページに少しだけ皺が寄ってしまったが、このくらいならばアレスに気づかれないだろう。というよりも、そうであってくれないと、レナータが困る。


(……結婚? 結婚? アレス、結婚なんて考えているの!?)


 おそるおそる雑誌を元の場所に戻すや否や、急いで自室に駆け込み、ベッドに飛び込む。それから、枕を抱えてごろごろと転がる。

 羞恥心を吹き飛ばすために開始した行動だが、ベッドの上を転がり回ったことにより、かえって体温が上がった気がして、枕を抱えたまま、ぴたりと動きを止め、深々と息を吐き出す。


(結婚、かあ……)


 もしかして、数日前のレナータの責任を取ってという発言を、アレスはそういう風に受け止めてしまったのだろうか。そうだとしたら、アレスの考え方はなかなかに重い気がする。


(いや、そうでもないのかな……)


 再度ごろりと転がり、身体を横向きから仰向けに変える。


 そもそも、アレスはただレナータと一緒にいるためだけに、幼い頃に故郷を飛び出し、守り、養ってくれていたのだ。成長していくにつれ、レナータも自分の食い扶持くらいは稼げるようになったが、それまでの間に、アレスはどれほど自分のお金と時間を犠牲にしてくれたのだろう。レナータが働けるようになってからも、そこは大きく変わっていない。


 そこまでレナータに尽くしてくれたアレスの想いに報いるためには、どうすればいいのか。

 そう考えれば、答えは明白だ。アレスは自らの全てを捧げてくれたのだから、レナータもそうすればいい。

 元より、結婚という契約を交わすということは、そういうものだ。むしろ、明文化された誓約があったわけでもないのに、無条件にお金も時間もレナータに注ぎ込んでくれたアレスは、よくよく考えると、すごいと思う。まさに、見返りを求めない、無償の愛ではないか。

 それに、レナータは元々結婚願望が強かったわけではないが、結婚をするとしたら、相手はアレス以外考えられない。

 アレスは、一般的な理想の結婚相手の条件を満たしているとは、少々言い難い。しかし、レナータにとっては、これ以上ない相手だ。


(……うん。もし、アレスにそのつもりがあるなら、喜んでお受けしよう)


 むくりと起き上がり、枕をそっと定位置に戻す。それから、すっかり乱れてしまったダークブロンドを、さっと手櫛で整える。


(それにしても、アレスはどうしてあんなところに、ああいう雑誌を置きっぱなしにしたのかなあ……)


 もしかして、レナータに自分の意思をそれとなく察して欲しかったのだろうか。

 一瞬、そんな考えが脳裏を掠めていったが、それはないと、即座に思い直す。


 アレスは、言いたいことははっきりと言うタイプだ。むしろ、そこまで言葉にしなくてもいいと訴えたくなるようなことまで、口にすることがあるくらいだ。

 だから、ダイニングテーブルの上にあの雑誌が置いたままになっていたのは、単純に置き忘れただけに違いない。どちらかといえば、アレスは綺麗好きなのだが、時折妙なところで抜けてしまうのだ。


(そんなところが、可愛いんだけど)


 自分以外、誰もいないのをいいことに、つい照れ笑いを浮かべる。


(……よし。お水でも飲んで、さっさと寝よっと)


 そもそも、ミネラルウォーターを取りにキッチンへと向かう途中で、あの雑誌を発見したのだ。元々の喉の渇きを癒すと共に、頬の火照りも冷まそう。

 浮足立つ心を抑えきれぬまま、レナータはベッドから飛び降り、自室を後にした。



 ***



 ――そして、レナータの誕生日である、三月六日をついに迎えた。


 アレスは昨日、仕事が終わってから、そのまま第五エリアに直行した。第五エリアに、どうしても欲しいものがあるのだと、前もって聞かされたが、十中八九、エンゲージリングだろうと、あの雑誌を発見したレナータには、見当がついている。


 最近、どうやら楽園でクーデターが起きたらしく、各地で治安が悪化しているため、物流が滞りがちになっているのだ。特に、日常生活に不可欠というわけでもない上、高価な貴金属は手に入りにくいのだろう。だから、アレスはわざわざ第五エリアまで足を延ばしたに違いない。

 別に、レナータはそこまでして、エンゲージリングが欲しいわけではない。アレスからのプレゼントならば、どんなものであろうとも、レナータのために選んでくれたのだと思えば、それだけで嬉しい。


(でもアレス、ああ見えて、結構ロマンチストなところがあるからなあ……)


 現代の成人年齢を迎える、レナータの誕生日にプロポーズなんて、実にロマンチックだ。それに、レナータ自身にそこまで強いこだわりがないだけで、決して嫌なわけではない。むしろ、素直に嬉しい。


 鼻歌を歌いつつ、自室に置いてある姿見の前に立ち、改めて変なところがないか確認をする。

 今日は、去年の誕生日にアレスがプレゼントしてくれた、ベビーピンクのワンピースを身に纏っている。チャコールグレーの繊細なレースに縁取られ、同色のサッシュベルトで腰を引き絞っているから、大人可愛い印象だ。

 ワンピースの可愛らしさに思わず頬が緩み、その場でくるりと一回転する。すると、レナータの動きに合わせ、ワンピースの裾がふわりと膨らむ。


(アレス、早く帰ってこないかなあ)


 そんなことを考えていたら、レナータの心の声に呼応したかのごとく、机の上に置いておいた携帯端末が着信を告げた。いそいそと机へと歩み寄り、ホーム画面を呼び起こし、通信アプリを開くと、そこにはこんなメッセージが表示されていた。


『悪い。今、空港で足止め食らっていて、予定より帰るの遅くなる』


 空港で足止めという言葉を目にするなり、急いで今日の第五エリアの空港の状況をネットで調べる。


(よかった、飛行船の事故ではないんだ……)


 今日は雲一つない晴天が広がり、大気が不安定な状態になっているようには思えない。でも、万が一ということもあるから、念のため調べてみたものの、空港のシステムにエラーが発生したことが、飛行船を出せない原因みたいだ。

 素早く画面を切り替え、アレスに返事を送る。


『了解。焦らなくて大丈夫だから、気をつけて帰ってきてね。あ、でも飛行船に乗ったら、連絡ちょうだい』

『了解』


 レナータとは違い、アレスはすぐさま返信を送ってきた。きっと、携帯端末を眺めていることくらいしか、今はできることがないのだろう。


(うーん……お昼は二人でどこかに食べにいく約束をしていたけど、どうなるかな?)


 その予定がキャンセルになっても、レナータとしては構わない。楽しみにしていたことには変わりないが、それよりもアレスに無事に帰ってきて欲しい。


(……お願い、アレス。この際、プレゼントなんてどうでもいいから、無事に帰ってきて)


 楽園でクーデターが発生した影響で、治安が悪化している中での出来事だから、自然と不安が込み上げてくる。

 第三エリアに移住してから、レナータたちの無事を伝えるため、アレスの母親であるミナーヴァと接触を図ろうと、一度試みてみたものの、結局連絡を取ることすらできなかった。クーデターが起きた時期を考えると、もしかしたらその頃から、楽園では不穏な動きがあり、レナータたちと連絡を取るに取れなかったのかもしれないと、最近のニュースを見て思ったのだ。

 携帯端末を手にしたままベッドへと向かい、そこに腰を下ろすと、祈るように携帯端末を額に押し当てた。



 ***



 その後も、アレスから現状を伝えるメッセージが届いたかと思えば、電話をかけたいと言い出してきた。

 いよいよ不安が膨張していく中、アレスと通話を始めてみると、レナータの杞憂に終わった。アレスはいつも通り、元気そうだし、通話の内容も至って自然なものだ。事件や事故に巻き込まれた様子がなかったことに、心の底から安堵した。

 張り詰めていた気が緩んだからか、ついつい茶化すようなことを言ってしまったら、予想以上の反撃を受けてしまった。


『ああ、そうだ。帰ったら、たっぷり可愛がってやるから、覚悟しておけ』


 低く美しい声にそう告げられたら、どれだけの破壊力があるのか、アレスは理解していないのだろう。もし、分かっている上でそんなことを口走ったのだとしたら、一発殴ってやりたい。

 たっぷりと思考停止した後、どうにか他愛もないやり取りを交わすことができたが、アレスとの通話が切れた途端、ワンピースに皺が寄るのも意に介さず、ベッドの上に倒れ込んだ。


(アレスって……アレスって……!)


 確かに以前、レナータが十八歳になったら、アレスをちょうだいと強請った。だが、あれはその場の勢いというか、雰囲気に背を押されたからこそ出てきた言葉だ。我に返っている今、同じことを言えと言われたら、衝動的に自ら息の根を止めてしまうかもしれない。


(もう、怖くもないし、嫌でもないけど! でも、でも!)


 早くアレスに帰ってきて欲しいのに、同じくらい顔を合わせにくくなってしまったではないか。

 アレスの爆弾発言のおかげで、先刻まで胸に巣食っていた不安は、たちまち掻き消えてしまったが、その代わりに羞恥心に苦しめられ、今にも頭の中が沸騰しそうだ。

 しばらくの間、ベッドの上で身悶えてから、ゆっくりと起き上がる。立ち上がると同時に、お気に入りのワンピースの皺を丁寧に伸ばし、出かける支度を始める。


(……よし。お昼食べて、気分を入れ替えよう)


 外に出て、思う存分陽の光を浴びれば、おそらくこの懊悩も晴れ、清々しい気持ちになるに違いない。


(そうだ。せっかくのいい天気なんだから、テラス席があるお店に行こうっと)


 別に急いでいるわけでもないのに、必要最低限の荷物を入れたハンドバッグを手に、慌ててアパートの外へと飛び出した。

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