再会

 ――灯りが漏れていない自宅を目の当たりにした刹那、嫌な予感が脳裏を過っていった。


 バスや汽車を乗り継ぎ、途中までは順調に帰路についていたのだが、第三エリアに入った途端、急な交通規制が敷かれた影響で、交通網がひどく乱れており、自宅までなかなか辿り着けなかった。おかげで、レナータと一緒に暮らしているアパートまで帰ってくるのに、予想していた時刻よりも二時間ほど遅れてしまった。


 しかし、ようやく着いたと安堵の吐息を零す暇も、アレスには与えられなかったのだ。

 嫌な予感に突き動かされるまま、アレスたちが借りている二階の部屋まで、階段を駆け上がっていく。念のため、扉の取っ手を掴み、鍵が開いているかどうか確かめれば、扉はあっさりと開いた。

 家にいる時であろうとなかろうと、アレスセレナータも、防犯のためにきっちりと施錠をしている。

 それなのに今、鍵が開いているということは――異常事態を示している。


「――レナータ……ッ!」


 咄嗟にレナータの名を呼びつつ、隙間程度しか開けていなかった扉を、思いきり開け放つ。

 すぐさま玄関脇の灯りのスイッチを入れ、素早く視線を走らせたものの、家の中を荒らされた形跡はない。レナータがいないことを除けば、いつも通りの自宅の光景だ。

 即座に浴室やそれぞれの自室も覗いてみたが、探し人の姿はない。見通しのいいリビングやキッチンに、レナータがいないことは、一目瞭然だ。


 でも、ふとダイニングテーブルに何かが置いてあることに気づく。急いでダイニングテーブルへと走り寄れば、うさぎの形を模した大きめのマグネットの下に、童の花が描かれたメモ用紙が数枚置かれていた。マグネットを退かし、メモ用紙を手に取って目を通すと、そこには見慣れたレナータの丁寧で綺麗な筆跡で、こう書かれていた。


『愛するアレスへ――』


 その書き出しから始まり、アレスへの謝罪と感謝の気持ち、そして二人の思い出が綴られている。まるで、これでお別れだと言わんばかりに。


『さようなら、アレス。ここではないどこかで、アレスの幸せをいつまでも願っているからね。

 心より、愛を込めて。

                                       レナータより』


 そして、最後まで読んでいけば、本当に別れの言葉で締めくくられていた。


 ――さようなら、アレス。ここではないどこかで、アレスの幸せをいつまでも願っているからね。


 かつて大聖堂で、ステンドグラスを透かした夏の日差しを浴びながら、慈愛に満ちた微笑みを浮かべ、アレスに別れを告げたレナータの姿が、瞼の裏に鮮明に蘇ってくる。


「……勝手なことばかり、言いやがって」


 気づけば、当時と同じ言葉が唇から零れ落ちていた。メモ用紙を掴む手に力が入り、自然と紙にぐしゃりと皺が寄る。


 そうだ。レナータはロボットだった頃も、人間になってからも、いつだって勝手だ。勝手に自己完結し、運命に抗おうとせず、いつも穏やかに受け入れようとする。

 人間になってから、レナータは変わったように思っていたが、その本質は何も変わっていなかったのだと、よりによってその張本人からの手紙により、その事実を突きつけられた心地だ。


 アレスのことが好きだと、大好きだと言っていたくせに。昔とは違い、レナータもアレスを必要としているのだと、そう思っていたのに。

 なのに、どうして――今、レナータはここにいないのだろう。


「――無様だな」


 不意に低く甘い声が耳朶を打ち、はっと紙面から視線を上げ、すぐに後ろを振り返る。すると、そこには眼鏡をかけた長身の優男が立っていた。アレスは他者の気配に敏感なのに、何故今の今まで男の存在に気づけなかったのか。

 濡れ羽色の髪と琥珀の瞳を有し、アレスの母とよく似た甘い顔立ちをした男は、こちらを冷ややかに見据えている。


「……リック?」


 目の前の男の顔に母の面影を見出した瞬間、兄の愛称を口にしていた。

 怪訝に眉根を寄せたアレスの呼びかけには応えず、男がつかつかとこちらとの距離を詰めてきたかと思えば、唐突に頬を強い衝撃が襲った。スラム街での生活のおかげで、ある程度荒事に慣れているはずなのに、突然の事態に思考が追いついていなかったからか、何が起きたのか、すぐには理解できなかった。


 バランスを崩した身体はテーブルにぶつかり、そのまま床へと崩れ落ちる。だが、テーブルや床にぶつけた箇所よりも、頬の方が余程痛かった。ただ痛みが走っただけではなく、その前に痺れと熱を感じたから、眼前の男――兄に殴り飛ばされたのだと、鈍った思考がようやく現状を把握した。


「……何しやがる」

「ごっこ遊びは、気が済んだか」


 兄はやはりアレスの言葉には応じず、淡々とそう問いかけてきた。さながら夜空に君臨し、冴え冴えとした光を放つ満月のごとく、琥珀の眼差しが無慈悲にアレスへと注がれる。

 兄の質問の意図が掴めず、眉間にさらに深い皺を寄せると、低く甘い声がまた言葉を紡いでいく。


「お前は、自分に与えられた義務を全て放棄し、楽園から出ていったな。それから十八年間、レナータと生活を共にしていたようだが――まさか、お前一人でレナータをここまで育て上げたと、思い上がっているんじゃないだろうな?」

「……そんなわけねえだろ」

「アードラー夫妻の世話になっていたことを言っているんじゃないだろうな? それとも、レナータも仕事をしていたことについてか?」

「……何が言いたい」


 月光と錯覚しそうな兄の眼差しを睨み返しつつ、疑問を投げかけたアレスの声は、どこか手負いの獣じみていた。自身の余裕のなさが滲み出ているみたいだと感じ、思わず舌打ちを零す。

 そんなアレスを嘲笑うかのように、視線の先にある薄く形のよい唇が酷薄な笑みに彩られていく。


「――アードラー夫妻が殺害された後、お前たちの行方を楽園側に悟られぬよう、手を回していたのは、私だ」


 ――衝撃が脳髄を貫くのと同時に、やはりエリーゼたちは楽園の人間に殺されていたのかと、冷静に受け止めていた。そして、どうして兄にそんな真似ができたのかと、疑問が芽生えていく。

 そんなアレスの声なき声に応えるかのごとく、兄は言葉を繋いだ。


「私は生憎とお前とは違って、楽園の犬としてあの場所に残ったからな。だが、その甲斐あって、楽園内外問わず、人脈を広げ、リヒャルト=ヴォルフとして、力をつけることには成功した。おかげで、お前たちがスラムに転がり込んだことも、すぐに分かった。だから、楽園側の情報網を撹乱し、私の手足となる人間をスラムに送り込み、お前たちが路頭に迷わぬよう、見張らせていた」


 兄の告白に、驚愕に目を見開く。


(……俺たちを、見張らせていた?)


 スラム街で生活していた七年間、見張られている気配は砂粒ほどにも感じられなかった。近所に住んでいた住人からも、職場の同僚からも、そういった素振りは一切見受けられなかった。それだけ、兄の手の者が優秀だったということなのだろうか。


「アードラー夫妻のことは私も母も、守れなかった。その気になれば、多少の介入はできたのかもしれないが……結果は、失敗に終わっていただろう。何より、その頃の私には今ほどの力はなかったからな。間違いなく、私も母も反逆罪で処刑されていただろう。だから、せめてお 前たちの平穏だけは脅かされぬよう、私なりに手を尽くしたつもりだ」


 ならば、何故あの秋の事件を未然に防げなかったのかと、詰りたい衝動に駆られたが、ぐっと堪える。

 何事も、完璧など存在しない。そんなことは、アレスでも知っている。だから、兄を責めたところで、もう終わってしまったことはどうにもならないと、必死に自分に言い聞かせたが、それでもやるせなさは込み上げてくる。


「そして、もうお前たちが楽園から逃げ回らずに済むよう、クーデターを起こした。……楽園に不満を持つ者は、楽園内部といえども、一定数存在する。特に、グラディウス族を扇動したからな。あっという間に、クーデターは成功した」

「……なら、なんでだ」

「ん?」

「なら、なんで……レナータは、楽園の人間に連れていかれた!? つまり、そういうことなんだろう! てめえらが、クーデターを起こしたせいで、レナータはそれに巻き込まれた! お前のせいで……っ!」


 勢いよく立ち上がり、兄の胸倉を掴む。しかし、微笑みを唇から消し去った兄は、自分を睨み据えてくる弟を涼しい顔で見つめ返した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る