罪悪

 一度目と二度目のキスをした時と同じ感触が、アレスの唇に返ってくる。それから、二度目の時は、アレスが高熱を出していて分からなかったぬくもりも、一度目にキスをした時同様、今回は伝わってくる。ヴァーベナによく似た爽やかな香りも、相変わらずアレスの鼻孔を掠めていく。

 それに、三度目のキスでも、レナータは大きく目を見開き、涙を零している。レナータとキスをする時は、大体いつも似たようなシチュエーションだと、笑うところではないのに、つい笑ってしまいそうになる。


 薄目を開いてレナータの様子を観察するが、翡翠の瞳が瞼に隠される気配は、露ほどにもない。驚愕に目を見開いたまま、琥珀の瞳を凝視している。

 柔らかな感触を惜しみつつも、ゆっくりと唇を離しても尚、レナータは茫然としている。こういうところまで、三回とも同じだとは、やはり笑ってしまいそうになる。


「……アレス、どうして……?」


 しかし、今までとは違った部分もあった。レナータは自身の唇に華奢な指先を宛がい、おずおずとキスの真意をアレスに訊ねてきた。


「――姫の呪いを解くのは、口同士のキスって決まっているからな」


 でも、アレスの答えは変わらない。

 レナータの姿形が変わろうとも、二人を取り巻く環境が変わろうとも、アレスの気持ちは微塵も揺らがない。アレスにとって、レナータはいつまで経っても、ただの――お姫様みたいに可愛い、女の子だ。そして、今のアレスには、レナータはかつてのように、悪い魔女に呪いをかけられたお姫様みたいに見える。

 ならば、その呪いを解こう。そのためならば、言葉も行動も惜しまない。


「レナータ、覚えているか」


 アレスの問いかけに、レナータはゆっくりと目を瞬く。もう涙は引っ込んでしまったのか、レナータが瞬きをしても、涙が頬を濡らすことはなかった。


「もし、レナータが人間の女の子に生まれ変わることができたら――俺が、ずっと一緒にいる。絶対に、その手を放してやらない。……そう言ったよな」


 今度はアレスがレナータの手を掴んで引き寄せ、その小さな手のひらに頬を擦り寄せる。

 かつての宣言と一言一句違わぬ言葉を口にした途端、レナータは再度目を丸くした。だが、それは一瞬のことで、すぐに泣き出しそうな顔になってしまった。


「私……もう、あの頃とは違うよ。綺麗なだけのあの頃の私には……もう戻れない」

「レナータはレナータだって、言っただろ」

「……お姫様みたいに可愛いって思うような、女の子じゃなくなっちゃったのに?」

「お前、鏡見てみろ。世の女どもの反感、買うぞ」

「それでも……アレスは、私と一緒にいたいって、まだそう思うの?」


 何だか、昔も似たようなやり取りをしたなと、妙に感慨深い気持ちになる。

 誰が一体、想像できただろう。かつて人工知能だった少女が人間の少女に生まれ変わり、十五年の時を経て、少年だった男と同じような言葉を交わすなんて、アレスでさえも予想できなかった。

 だからこそ、嬉しい。レナータに滅茶苦茶で、できっこないと言われたことを、アレスはやってのけてみせたのだから。


 レナータの後頭部に回していた手を腰へと移動させていき、アレスとの距離をより一層縮める。レナータの顔を覗き込むと、翡翠の瞳が戸惑いに揺れていた。


「俺、あの時、言ったよな? やってみなければ分からないって。それで実際、やり遂げたっつっても、過言じゃねえよな?」


 何だか、徐々に脅迫じみた物言いになってきたが、この際どうでもいい。何も言えずにいるレナータを余所に、とどめの台詞を言い放つ。


「レナータのこともらうって。それで、責任取ってもらうから、大丈夫だとも俺、言ったよな? 忘れたとは、言わせねえぞ」


 そう言い放った瞬間、怖気づいたかのごとく、レナータがアレスから逃れようと、身を捩った。

 しかし、アレスにレナータを逃すつもりなど、欠片もない。一旦頬を寄せていた小さな手を放し、レナータの腰に両腕を巻きつける。


「だから、レナータ。生きろ。生きて、一緒にいてくれ。……頼む」


 アレスの懇願の言葉に、目の前にある翡翠の瞳が、さらに揺れる。惑い、揺れながらも、どこか縋るように向けられる眼差しに、あともう一押しだと確信を抱く。自分は存在してはならないのだという呪縛から解放するための、あと一歩を踏み出すため、アレスはレナータの耳元に唇を寄せ、囁きを落とした。


「――好きだ、レナータ」



 ***



 ――今も昔も、レナータは王子様というものに憧れたことが、一度もない。

 王子とは、世の女性の夢と理想を詰め込んだ、所謂、偶像だ。こうあって欲しいという身勝手な都合を押しつけられる、憐れな存在だ。そういう意味では、王子と呼ばれる存在に、レナータは共感と同情さえ覚えていた。

 かつてのレナータは、人類の守り神だと崇められる度に、そんな崇高な存在ではないのだと、否定したかった。好都合な道具として扱われる度に、レナータにも意思があるのだと、訴えたかった。

 だから、幼い頃のアレスが持ってきた絵本に登場するお姫様よりも、白馬の王子様の方にレナータは思わず感情移入をしていたのだ。


 でも、王子に憧れを抱くことはついぞなかったが、お姫様には憧憬の念を密かに抱いていた。どんな苦境に立たされようとも、どれだけ嘆き悲しもうとも、必ず救い出してくれる存在が目の前に現れる、お姫様が羨ましくて仕方がなかった。無条件に守られ、愛されるお姫様は、随分と恵まれていると思った。

 お姫様になりたいとまでは思わなかったものの、その目を通して見る世界はどんなものなのかと、夢想したことはある。

 だが、叶わぬ願いだと理解していたからこそ、夢を見ていたのだ。誰が、人工知能を搭載したバイオノイドに過ぎないレナータの心を、救おうとするのだろう。かつて渇望した終わりを、ようやく迎えられるのだから、それでいいと思っていた。


 そう思っていたのに、ある日突然、ステンドグラスが美しい大聖堂に現れた少年が、この世界から消えることさえ叶わなくなった、壊れかけの道具の傍にずっといてくれると、約束してくれたのだ。

 そして、その言葉通り、少年はロボットから人間の赤子へと生まれ変わったレナータの後を、故郷を捨ててまで追いかけてくれた。成長し、少年から青年へ、それから大人になっても、レナータの庇護者として在り続けてくれた。それこそ、周囲から番犬と呼ばれるまでに、献身的だった。


 レナータは人間の少女になったことで、お姫様になっていたのかもしれない。だって、こんなにも無力で、誰かに守ってもらわなければ、生きることすらままならないなんて、お姫様と呼ばずして何と呼ぼう。

 ――そう、かつてレナータが憧れたお姫様は、決して恵まれた存在などではなかったのだ。

 お姫様の目を通して見た世界は、美しいだけのものではなかった。理由なき悪意が蔓延し、自分自身の心さえ醜く腐敗していくような世界だった。救いの手を差し伸べられると、感謝の気持ちが湧き上がってくるのと同じくらい、自分の無力さに打ちひしがれた。


 王子様に憧れたことはない。お姫様を羨ましいと思うことも、もう二度とない。

 しかし、たった今、耳の中に吹き込まれた甘い囁きは、夢は夢でしかないのだと、現実を知ったレナータの心を歓喜に震わせた。


 今、レナータを抱き竦めているのは、目つきも口も悪く、いくら守るためとはいえ、暴力に訴えかける粗暴な人で、理想の男性像である白馬の王子様とは、似ても似つかない。

 でも、一度交わした約束は、どんな手を使ってでも、必ず守り通してくれる、信頼に値する男の人だ。そして、何の罪もない少女の人生を奪ってまで生き長らえているレナータに、何の迷いもなく生きろと願ってくれる人だ。

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