女神の癒し
「ああ、ごめんごめん。君に用があって来たんだよ、レナータ」
「……私?」
「オリヴァー。まさか妻の目の前で、余所の女の子を口説くつもりじゃないでしょうね。いくらレナータが妖精みたいに可愛い子でも、駄目よ」
「うん、エリーゼ。くだらない冗談はやめて、本題に入らせてくれないかな?」
オリヴァーはさっと片手でエリーゼの口を塞ぐと、改めてレナータへと向き直った。
「小さな可愛いお客さんがね、君のことを捜していたんだよ。だから、僕が呼びにきたんだ」
レナータの元に訪れる、小さな可愛いお客さんといえば、アレスしかいない。
「アレスは今、どこにいるの?」
せっかく会いにきてくれたのだから、早く行かなければと、つい勢い込んで訊ねれば、オリヴァーが微笑ましそうに答えてくれた。
「中庭の、噴水のところ。ちょうど、そこで行き会ったんだ。あんまり、うろちょろされると困っちゃうし、今日は天気もいいから、そこで待っているようにお願いしておいたから、そこにいるはずだよ」
「ありがとう、オリヴァー。それじゃあ、今度こそ失礼させてもらうね。――またね。エリーゼ、オリヴァー!」
二人に軽く手を振ると、即座に彼らに背を向けて走り出す。
アレスと出会うまで、ずっと走ることなんてしなかったが、今ではよくあちこち走り回っている。相手は子供だから、一緒に遊ぶ時に走るのはもちろんのこと、少しでもアレスと一緒に過ごす時間を増やしたくて、こうして駆け出すことも、しばしばある。
密かに鼻歌を歌いながら、アレスが待っているという場所まで、弾むような足取りで駆けていった。
***
「――アレス!」
オリヴァーの言う通り、アレスは中庭の噴水のところにいた。噴水の縁に腰かけ、持参してきたらしい絵本を、膝の上に広げて読んでいたアレスが、レナータの呼び声につられて顔を上げる。
「こんにちは、レナータ」
アレスは膝の上に広げていた本を閉じると、両腕で大切そうに抱え込み、噴水の縁から軽やかに降り立った。そして、駆け寄ってきたレナータの元に、とことこと近づいてきた。
「こんにちは、アレス。ごめんね、待たせちゃって」
「本読んでいたから、平気」
「そっか。なら、よかった。今日は絵本を持ってきたの?」
「うん」
アレスはレナータに会いにくる時、おもちゃや絵本を持ってくることがある。そういうところは、実に子供らしくて微笑ましい。
(昨日、一緒に遊んだジェンガも、結構面白かったなあ)
積み木をタワーのように積み上げ、そこから積み木を一本ずつ抜き取っていくだけの、原始的な遊びだが、タワーを崩してしまうかもしれないというスリルが、思っていた以上に楽しみに繋がった。
レナータの質問にこくりと頷いたアレスは、表紙が見えやすいように絵本を掲げてくれた。そこには、王子らしき男性と、塔の窓から長い金の髪を垂らしている女性が描かれていた。
(ラプンツェル、かあ……)
現代に残されているお伽噺だから、性行為をほのめかしていた初版ではないだろうが、五歳の子供に読み聞かせる絵本として相応しいかと訊かれれば、少々悩ましい。
(まあ、お伽噺なんて、大体そんなものだよね)
有名な白雪姫やシンデレラなどのお伽噺だって、原作は色々な意味で子供には刺激が強い。それでも、子供の読み物として今でも親しまれているのだから、アレスに読み聞かせをしても大丈夫だろう。
「じゃあ、今日はこれを一緒に読もうか。お外と部屋の中、アレスはどっちがいい?」
今は春で、ちょうど花の盛りの季節だ。古城の中庭でも、色とりどりの美しい花々が咲き誇っている。加えて、天気に恵まれているおかげで、穏やかな日差しが辺り一面に降り注いでいる。
アレスは少し考える素振りを見せた後、先程まで座っていた噴水を指差した。
「あそこに座って読みたい」
「うん、いいよ。今日はいいお天気だから、お外、気持ちいいもんね!」
レナータが笑顔で頷くと、アレスは片腕で絵本を抱え直し、右手をこちらへと差し伸べてきた。アレスの意図を察したレナータは、その小さな手に自分の手を乗せる。すると、アレスがきゅっと手を握ってきた。
噴水までの、ほんの少しの距離でもレナータと手を繋ぎたがるアレスが、可愛らしくてたまらない。その気持ちに突き動かされるまま、手を繋いだまま腰を屈め、思わずぎゅっとアレスを抱き竦めてしまった。
***
「――こうして、ラプンツェルと王子様は、二人の子供と一緒にいつまでも幸せに暮らしました。めでたし、めでたし」
春の柔らかな陽光が降り注ぐ中、アレスと並んで噴水の縁に腰を下ろし、レナータは絵本の読み聞かせをしていた。それも無事、物語が終わりを迎えたことで、朗読していた声も止み、ゆっくりと絵本を閉じた。
絵本が見えやすいように、レナータと肩を寄せ合っていたアレスが、不意にこちらを見上げた。
「なあ、レナータ」
「なあに?」
「ラプンツェルと王子って、魔女に隠れてこっそり結婚していたのか?」
「え?」
確かに、物語の終盤には、二人の子供である双子の男の子と女の子が登場するし、ラプンツェルと王子はこれから夫婦として暮らすのだから、そう言えなくもない。
でも、二人は男女の仲になってはいるが、結婚をした描写はどこにもない。作中でも、恋人になったとは書いてあったものの、結婚したという文章は見受けられなかった。
レナータがきょとんと目を瞬かせていると、アレスがこちらから視線を逸らし、閉じられた絵本を指差した。
「だって、二人には子供がいるから」
なるほど、アレスは結婚をすれば、自然と子供が産まれてくるものだと思っているみたいだ。アレスはまだ五歳児だから、そう思い込んでいたとしても不思議ではないし、もしかしたら母親にそう教えられたのかもしれない。
「うん、そうだね。二人は夫婦になったんだから、そういうことになるね」
アレスの言葉を否定せず、笑顔で首肯する。大人になっていくにつれ、いずれ真実を知ることになるのだ。ならば、まだいたいけな子供のうちは、可愛らしい夢を見させてあげようではないか。
レナータがにこにこと微笑みを絶やさずにいると、アレスが再び絵本を開こうと手を伸ばしてきた。だから、絵本をさらにアレスの方へと寄せれば、王子がラプンツェルの長い髪を伝って塔の上へと上っていくページが開かれた。
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