夜明けの訪問者
(……アレス、私のメッセージ、ちゃんと聞いてくれたかな……)
昼間の出来事の追想が終わると、首に巻いているチョーカーにそっと触れる。
レナータは、常に監視の目に晒されているわけではない。だから、楽園に連れてこられた当日の夜のうちに、アレスのチョーカーにメッセージを送ったのだが、聞き届けてくれたかどうか、レナータ側から確かめる術はない。
レナータとアレスが身につけている、チョーカーに扮した音声送受信機は、送信も受信も一度きりしか使えない。だから、レナータ側から音声を送信することは、もう二度とできないし、アレス側がメッセージを受け取ることも、もう不可能だ。あとは、アレスがメッセージを送り、レナータがその音声を受け取ることしかできない。つまり、今のレナータは、アレスが行動を起こすまで、待つしかないのだ。
(でも……)
アレスが行動を起こすということは、レナータの事情に自ら巻き込まれるということだ。
アレスに助けて欲しい。だが、アレスにはリスクを冒さないで欲しい。無事でいて欲しい。
二律背反の想いが胸の内で渦を巻き、思わず溜息を吐く。
「……アレス……」
吐息交じりの声でアレスの名を呼んだ直後、静寂に満ちていた塔の内部から微かな物音が聞こえてきた。
普段のレナータならば、聞き逃していたのではないかと思うほど、ささやかな音だが、きっと今は神経が過敏になっているからなのだろう。いつもより、鋭くなった聴覚が拾った音が何なのか見極めようと、耳を澄ませる。
すると、その音は一定の間隔で聞こえてくる上、次第にレナータがいる部屋に近づいてきていることに気づく。つまり、誰かが塔の螺旋階段を上り、レナータの部屋へと向かっているのだ。
そう現状を認識するなり、できるだけ大きな物音を立てないように注意しながら、素早くベッドから飛び降りる。それから、この部屋のたった一つの出入り口である扉から、最も離れた場所に当たる窓際へと、足音を殺しつつ駆け寄っていく。
(こんな時間に、誰……?)
今は、ようやく明け方に近づいてきたくらいの時間帯だ。そのため、この訪問は非常識だ。
ただ非常識であるだけならばいいのだが、十五歳の時に自分の身に降りかかった出来事を思い出せば、警戒せずにはいられない。
窓際の壁に張りつくようにして背を預けると、扉を睨み据える。
出入り口が一つしかない以上、そこからの脱出は絶望的だ。
一応、この部屋には椅子があるから、その椅子を相手に叩きつけて隙を作り、扉の外へと飛び出し、螺旋階段を駆け下りていくという方法はある。
しかし、実際にレナータはどこまで想定通りに動けるのか、予想がつかない。十五歳の事件の際には、アレスに言われていた通りに、行動できたものの、思わぬ奇襲を受け、窮地に陥ったのだ。今回もそうなる可能性は、充分ある。
そんなことを考えながら、油断なく窓へと視線を移せば、美しいステンドグラスが視界に入り込む。
この窓は、利便性を全く考慮していない、見た目重視のいわば装飾品みたいなものだ。そのため、ガラスは嵌め殺し式で、窓の開閉ができない。仮に窓が開いたとしても、ここは地上からかなりの高さがある。飛び降りでもしたら、まず助からない。
でも、椅子でステンドグラスを叩き割れば、ガラス片を武器にすることくらいはできるだろう。
(今ここで使える武器は、椅子とガラス片……か)
逃走経路の確保は無理でも、武器の確保はできそうだと判断している間にも、何者かの足音がこの部屋に近づいてくる。
息を殺し、扉を凝視していると、やがて出入り口付近で足音が止まった。そうかと思えば、ゆっくりと音を立てて扉が開かれていく。
そして、非常識な時間に姿を現した予想外の人物に、驚愕に目を見開く。
「……ルーイ?」
この部屋にやって来たのは、紛れもなくルートヴィヒだ。
だが、どこか様子がおかしい。
こんな時間帯にも関わらず、きっちりと身だしなみを整えているのは、几帳面を通り越して潔癖症のルートヴィヒらしいが、その顔はさながら亡霊みたいに青白い。元々、それほど血色がいいわけではないのだが、それにしてもあまりにも顔色が悪い。
何より、目の焦点が合わず、あちこちに視線を彷徨わせているアイスグレーの瞳が、尋常ではない。白目の部分は痛々しいくらいに充血しており、一睡もしていないのではないかと、疑ってしまう。
どうして、こんな時間にルートヴィヒがレナータの前に現れたのかという疑問と、その憔悴しきった様子により、困惑は深まるばかりだ。
それでも、いつ、何が起きるか分からないため、細心の注意を払ってルートヴィヒの動向を窺っていたら、不意にアイスグレーの瞳がレナータを捉えた。
その瞬間、何故か寒気が全身を包み込み、ぞくりと肌が粟立った。
「ルーイ……?」
再び、レナータの視線の先にいる男の名を呼ぶ。しかし、先程とは違い、ルートヴィヒの名を呼ぶ声は無様に震え、怯えが滲んでいた。
怯え――そう、レナータは今、確かにルートヴィヒを恐れていた。
どうしてかは、自分でもよく分からないものの、その恐怖心は、かつてのレナータにプロポーズを断られた男が自殺したと知った時や、地下牢に拘束されていた日々、それから暴漢たちに襲われた夜に味わったものに酷似している。
あたかもレナータの呼び声に引き寄せられたかのごとく、名を呼ばれたルートヴィヒがこちらに向かって一歩踏み出してきた。その様を目の当たりにした途端、一気に恐怖心が煽られていった。
このまま恐怖に心を絡め取られていては、思考も身体も硬直してしまいかねない。
そう判断するなり、レナータは一旦ルートヴィヒから視線を外し、ドレッサー目掛けて一目散に駆け出す。そして、ドレッサーの前に置いてあった椅子を鷲掴み、顔の前まで持ち上げる。
「私に……近づかないで」
牽制するように唇から零れ落ちた声は、今度は震えてはいなかったものの、ひどく硬い。
でも、レナータの声など聞こえていないとでも言わんばかりに、ルートヴィヒの足音は着実に近づいてきている。
「私に、近づかないで――」
「……何故だ」
ルートヴィヒが発した疑問の声に、微かに眉根を寄せる。
レナータにとって、ルートヴィヒは親の仇であり、楽園まで強引に連れ戻した張本人だ。積極的に顔を合わせたい相手ではないのだから、あまり近づかないで欲しいとレナータが思うのは、当たり前ではないか。何より、今のルートヴィヒは、正気とは思えないのだから、尚更だ。
「何故――エリーゼの遺伝子も、レナータの遺伝子も、私を選ばない? 何故、私の想いを否定する?」
レナータの訴えを余所に、尚もルートヴィヒの足音はこちらに近づいてくる。しかも、何の脈絡もなく、エリーゼとレナータの遺伝子がルートヴィヒの遺伝子を選ばなかったことに話が及び、眉間に寄せていた皺が一層深くなる。
(どうしてって、言われても……)
ルートヴィヒの遺伝子を選ばなかったのは、エリーゼやレナータの意思ではない。誰の意思も介在しない手段によって決定した、ある意味公明正大な結果だ。そのくらい、楽園で生まれ育ったルートヴィヒは重々承知しているはずなのに、そちらこそ突然何を言い出すのか。
一度、顔の前に掲げ持っていた椅子をすぐ脇に下ろし、ルートヴィヒを見据える。
ルートヴィヒは先刻と同じ、虚ろな目をしていたかと思えば、レナータと視線が交錯した瞬間、いきなりその目が血走ったものに変わった。それに伴い、歩幅もずっと大きくなり、足音も荒々しくなっていく。レナータとの距離が、急速に縮まっていく。
一旦下ろしていた椅子にレナータが手を伸ばすよりも早く、ルートヴィヒに肩を掴まれた。その手の強さに、つい表情を歪める。
「――何故だ!」
肩を強い力で掴まれた痛みに表情を歪めたレナータが、ルートヴィヒの目にはどう映ったのだろう。ただでさえ、ルートヴィヒは鬼気迫る形相をしていたのに、アイスグレーの瞳がさらに怒りに染まっていく。
「あんな……へらへら笑いながら、場当たり的な優しさを振り撒くしか能がない男や、野良犬同然の男よりも、私の方がずっと君に相応しいだろう! 私の方が、君の誰よりも優れた才能を引き出せるはずだ! それなのに、何故……何故なんだ、エリーゼ!」
「私は……エリーゼじゃないっ……!」
エリーゼと、母の名で呼ばれた刹那、かっと頭に血が上り、気づけばレナータの肩を掴むルートヴィヒの手を叩き落していた。それから、急いでルートヴィヒから距離を取り、再度椅子を構える。
最初は、レナータに向かって話しかけているのだと思っていた。正気とは思えない様子でも、目の前の人間が誰なのか、認識することはできているのだろうと、考えていた。
だが、レナータの翡翠の瞳を覗き込みつつも、ルートヴィヒがエリーゼの名を叫んだ途端、そうではなかったのだと思い知らされた。
ルートヴィヒは翡翠の瞳を通し、エリーゼの幻影を垣間見ていただけだったのだ。
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