第7話 異界都市黒羽

 炎司が暮らす東京都黒羽市は埼玉との県境にある。人口は約三十万。都心へ続く私鉄とJRが二本通り、都心へのアクセスがいいこと、市内の大学があること以外にはこれといった観光スポットはない。都心近郊ならどこにでもある街の一つ、のはずだった。


「なんだ……これ……」


 陽が完全に落ちて、あたりが暗黒に包まれてから外に出た炎司は、あまりの異様さに驚きを隠せなかった。


 いつも暮らしているはずの街は、いままで見たことなどない――いや、普通に生きていたのなら絶対に見ることがない異様さを示していたからだ。


 地面には何故が透けて見える黒い水のようなものが膝くらいにまで満たされ、そこらにある住宅にはそれが固まったようなものがいたるところにこびりついている。それは見るからに禍々しいものだった。


 なにより異様だと思ったのは――

 この異様な光景が見えているのが、自分だけということ。


 街を歩く学生や仕事帰りの人たちも、誰一人として膝ほどの高さまである黒い水や、いたるところのこびりついている黒い塊を気にしている様子は一切ない。彼らは、ごく普通に暮らしているのだ。その光景はあまりにも恐ろしい。


『これが、いまお前が暮らしている街の現状だ』


 頭の中に響くのはノヴァの軽やかながらも緊張感が感じられる重々しい声。


『あれは、〈裏側の世界〉と繋がった〈扉〉から流れ出したものだ。異様なものだというのはわかるが、少なくとも現段階では影響はなにもない。そもそも、普通の人間には見えも触れもしないのだからな。


 だが、余談は許されない状況だ。このまま事態が進行していけば、普通の人間にも認識できるようになり、そうなれば影響が出てくる。いまお前の膝くらいまでの高さだが、これがお前の身長を超えるくらいになると影響が出てくるものが出始める。


 そして、二階建ての住宅が飲み込まれるくらいになったら終わりだ。この街は〈裏側の世界〉の完全に飲み込まれ、裏と表が消失し、いずれすべてを飲みこむ虚空と化すだろう』


 その言葉を聞いて、炎司はさらなる恐ろしさを抱いた。


 まだ、ノヴァが言っていることが本当なのかどうかはわからない。


 だけど、この黒い水や黒い塊がいいものであるはずがないのは確かで――


 その危機を、自分が阻止する。

 そんなこと、果たしてできるのだろうか?


 逃げ出したい。心からそう思う。そんな重い責務なんて、自分にはこなせない。


 しかし――


 もし、これに街が飲みこまれてしまったらと思うと、それがとても恐ろしく思えてしまって――


 逃げ出そうにも逃げ出せなかった。


 自分はこれを知っているのに。この世界がこんなことになっていることを知ってしまったのに、それでもなお逃げ出すことができるほど火村炎司という人間は図太い神経を持ち合わせていない。


 膝の高さまであるのにまったく足を取られないし濡れもしない黒い水を掻き分けて街を進んでいく。


「というか、この黒い水に浸かってて大丈夫なの?」


『ああ。お前は私の力で守護しているからな。影響は受けない。現にお前の身体は足も取られていなければ濡れもしていないだろう? だから大丈夫だ。もともと、見えるものでも触れられるものでもないからな』


 大丈夫らしいが、炎司には見えも触れもするので、気になるのは事実だ。これが、なにかの足かせにならなければいいのだけど――


『もう一度説明しておこう』


 こちらの不安を切り裂くかのようにノヴァは声を響かせた。

 すると、自分のまわりにホログラムのようなものが出現する。


『我々が行うのは〈扉〉の破壊だ。いまこの街にそれが三つ出現している。一番近いものはここにある』


 そう声を響かせると、ホログラムにマーカーが出現する。どうやら、このホログラムは街の地図を立体的に表したものらしい。ここからだと、五百メートルもない場所にそれはあった。


 これほど近い場所にこんなやばいものを垂れ流すものがあるのかと思うと、さらに心が冷えた。


「でもさ、壊すってどうすればいいの?」


『なにを言っている。簡単なことだ。思い切りぶん殴ればいい。渾身の力を込めてな』


「殴れって……」


 そもそも、こちらの世界で蘇ったときに与えられたという力さえどう使うのかわからないのだ。


 いや、そんな力が本当にあるのだろうかとさえ思えてくる。


『嫌か?』


 こちらの不安と緊張を察したのか、ノヴァは単刀直入に訊いてくる。


「そりゃそうさ。いきなり戦えなんて言われたってできないよ。なにしろこっちは最後に喧嘩したのは小学生の頃なんだぜ。どうしてそんな自信満々なのさ」


『そりゃお前にはできるからだろう。どうして私がお前を選んだのかわかっているのか? お前に私の力を使うたぐいまれな適性があるからだ。それだけの適性があれば、一度目の戦いで犬死するはずがない。逆に訊くが、どうしてお前はそこまで自分のことを信用していないのだ?』


「信用していない、わけじゃなくて――なんというか、その……」


『なんだ?』


 と、問い詰めるような声を響かせるノヴァ。


 その問いには、答えられなかった。


 そういえば、どうして自分をここまで信用できていないのだろう? よくよく考えてみると、自分が信用できない確固たる理由があるわけではない。


 なら――


『まあいい。まだなにも経験していないのだから、わからないのも当然か。だが、もう一度言っておく。お前はこちらの世界に蘇ったときに、戦うための記憶も一緒に与えられている。それを思い出してみろ。それさえできれば、お前は充分戦えるはずだ。


 それに、私だって十全のサポートをしてやる。そのために私はいるのだ。それでも不安なのか? そんなに私のことを信じられないか?』


「…………」


 強い口調の声が響いて、炎司はなにも答えられなくなってしまう。


 ノヴァは唯一、自分のことを『火村炎司』であると認識している存在だ。彼女のことくらい信じてやってもいいのではないか?


 そんなことを考えながら、触れているはずなのに触れている感触が一切ない黒い水を掻き分けて進んでいると――


『――――』


 背後から聞こえてきたのは大きな唸り声。それは、いままで炎司が聞いたことがある生物の声とは異質なものと思えた。


 その声を聞いた炎司は、歩く足が自然と止まってしまう。


 その気配は、一度感じたら忘れることができないほど異質なものだ。一言でこれを表現するのなら、『怪物』だ。


『来たぞ』


 ノヴァの声を聞いて、炎司は後ろを振り向こうとする。しかし、自分にかかっている重力が数倍になったかのように身体が重くなってしまって、後ろを振り向くことができなかった。


 なおも聞こえてくる『裏側の住人』の唸り声。なにを言っているのかまったくわからないけれど、炎司に狙いをつけているのは確かであった。


『なにをやっている! 早く態勢を整えろ!』


 ノヴァの叱咤を聞き、炎司はハッとして後ろを振り向こうとする――


 その瞬間、自分に迫っていたのは細長い形状のもの。もうすでにそれは炎司のすぐそばにまで接近していて――


 それは炎司の腹を、思い切り貫いた。

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