第2部 平行世界での後始末をすることになりました

第39話 この退屈を打破するモノ

 世界というものはどうしてこうも退屈なのだろう。ここ最近、僕はそんなことばかり考えている。


 人類の英知は偉大だ。現代を生きる一人の人間として、僕は心からそう思っている。小人間というものはかくも素晴らしい、と。


 だが――

 平和な世界。

 平和な日常。


 実に素晴らしいではないか。ごく限られたおかしな人間以外は、社会が平和で満たされているほうがいいと思うのが普通だろう。


 しかし――

 その平和な世界を、僕が退屈だと思っているのもまた事実であった。


 平和な世界というものは少しばかり刺激が足りない。生まれてからずっと平和な社会で暮らしてきた僕にとって。


 なにかなにのだろうか?

 僕は見慣れた街を歩きながら考える。


 僕が勤めている大学のある黒羽市は他の街よりも明らかに学生の数が多い。自分とそれほど変わらない年頃のはずなのに、彼ら彼女らは随分と子供に見えた。平和な国で暮らしている、大学に通える程度には裕福な若者たち――別に、僕は彼らが嫌いというわけではない。退屈な一ページを彩っているだけだ。それ以上でもそれ以下でもない。


 それでも――


 この平和で退屈な日常を少しでも打破しうるものを、見慣れた街の中にないのだろうか。


 だけど――

 なにも見つからない。


 この平和を――日常を打破するものなど、どこに行っても、なにをしても、それは見つかることはなかった。


 この平和が壊されて欲しいわけではない。


 戦争などごめんだ。戦争はあらゆるものを不幸にする非合理のかたまりだ。まあ、人間という存在が非合理で動く生物ではある。戦争はその非合理の極地にある一つだろう。


 ケインズを信奉するほど古臭くはないが、シカゴ学派にはそれなりの共感がある。


 そう、僕が望んでいるのは、人類を根本から変え得るなにかだ。


 そんなものさえあれば、この退屈だって――


 僕は自分のアパートの向かうために一つ路地に入った。時刻は午後八時。完全に秋に入ったいまの時期では、周囲は夜の闇に閉ざされている。街灯も少ない。


『――――』


「……なんだ?」


 僕は歩いていた足を止める。


 自宅へと進む道の先から、なにかおかしな音が聞こえてきた。なにかうなっているようだが、生物のものとは思えない。それに直感的になにか嫌なものが感じられた。なんだろうあれは。この先になにかいるのだろうか。


『――――』


 再び聞こえてくるうなり声のような音。それを聞いていると、絶妙に精神を揺さぶられ、不安に襲われる。


「なにか、いるのか?」


 僕は誰かに語りかけるように言葉を発していた。だが、その問いに対して返答はない。


 もう一歩近づいてみる。僕が近づくと同時に、奥にいる『なにか』はまたしてもうなり声のようなものを発した。


 こちらに、気づいているのか?


 そう思うと――ぞわり、と背中を冷たいもので撫でられるような感触が広がる。僕は背後を振り向いた。当然、そこには誰の姿もない。この通りにいるのは自分一人だ。


 この奥に一体なにがあるのだろうか。

 僕の本能は、危険を発している。

 その先にあるものはよくないものだぞ、と警告を告げていた。


 だが――

 足は再び動き出す。


 僕は少しだけ逡巡し、うなり声のようなものが聞こえる方に足を進めていく。

 一歩一歩、確かにアスファルトの道路を踏みしめながら。

 うなり声のするほうへと向かっていく。


 一ヶ所だけ、街灯が切れている場所があった。そこだけ、ぽっかりと暗闇が浮き出している。そこに近づくと――


 人間の腕ほどの塊が転がっていた。


「なんだ……これ」


 はじめは人体の一部かと思った。しかし、よく見てみると、それは複雑な色をした肉のような塊だった。こんなものが人体の一部であるはずがない。


 僕はしゃがみ込み、その塊に目を近づけてみた。


 それは、わずかに蠢いている。生きている――のだろうか。見ているだけでは判断がつけられない。


 僕はそれに触れてみた。


 不気味に蠢くそれからは、熱は感じられない。死体を触っているみたいだった。それなのに、何故か生物と同じような脈動が感じられて――


 どっ、どっ、どっ。


 それから感じられる脈動はかなり不愉快なペースだった。このままずっと触っていると、どこかおかしくなってしまうかもしれない。それくらい気味が悪い。


 それなのに――

 どうしても僕はその塊から手を放すことはできなかった。

 脈動しているそれは――


「うわ……!」


 あり得ないほど質量を増大させ、僕のことを一気に呑み込んだ。



 声が聞こえる。


 聞こえている声が人間のものだ。だけど知っている声ではない。狂気に満ちた女の声。この塊の持ち主だろうか。狂気の声を上げ、自分がよく知っている街を蹂躙している。


 黒い渦が。

 黒い波が。

 黒い怪物が。


 それらが容赦なく街に押し寄せ、蹂躙の限りを尽くしている。よく知っている街はなすすべなく破壊されていく。


 これは――なんだ?


 こんなもの、見たことがない。


 この街で、こんな破滅的な出来事など起こったことなどないはずだ。


 どうして、そんなものを僕は見ているのだろう。


 黒い波と渦と怪物に流されていく。そうしていると――女の姿が見えた。どういうわけなのか、彼女が先ほどの狂気に満ちた声をあげているのだと理解できた。彼女は先ほどと同じくとても楽しそうに、狂気の笑みを浮かべている。その声は、とても楽しそうだ。彼女が――街をこんな風にしてしまったのか。


 すると――もう一人、男が現れた。こちらも知らない男だった。彼は、狂気の笑みを見せる女に立ち向かっていく。その戦闘は――僕にはなにが行われているのかまったく見えなかった。それほどまでにすさまじい。


 気が付くと――女は消えていた。後から現れた男に――影も形もなく消されてしまったのだ。


 男は、僕には一瞥もくれずにどこかに飛び去ってしまった。


 一人、取り残された僕は――



「…………」


 気がつくと、僕はもとの世界に戻っていた。平和で何事もない、いつも通りの退屈な世界。


「なんだったんだ……」


 そこで、自分の目の前にあったはずの謎の塊が消えていることに気づく。


「ぐ……」


 急に頭の中からなにかが広がっていくような感覚が伝わってきた。頭が破裂しそうなのに、不思議と痛みはない。


『――――』


 頭の中では聞いたこともない言葉が反響を続けていた。人間の言語とは思えない言葉だった。先ほど見た映像に出てきた、怪物の言語なのだろうか。それは、いつまで経っても止まる様子もなく、反響を続けていく。それどころか、どんどんと大きくなっている。


 そのうえ、聞こえてくる怪物たちの言語は何故か理解できてしまうのだ。聞いたこともない言葉のはずなのに。


 僕は――壊れてしまったのだろうか?


 そうかもしれない。


 あんなわけのわからないものに触れてしまったせいで。


 だが、不思議と悲しくはなかった。

 何故なら、いま僕に聞こえているこれはとてもワンダフルだからだ。


 わけのわからない声が聞こえる。しかもその声が何故か理解できる。これをワンダフルと言わずしてなんという。


 世界には、まだ人間の知らないことがたくさんあるらしい。


 僕はまだ未熟だ。これほどワンダフルなものをいままで知らなかったのだから。これを知らずに、退屈など言っていたことが恥ずかしくなるくらいに。


 そこではたと思う。


 この力は――閉塞しつつある人類社会をさらに発展させるものではないのか。


「くくく」


 思わず笑い声が洩れていた。

 自分が素晴らしい発見をしたからではない。


 いま自分にあるこれを多くの人に適用できれば、人類社会はより素晴らしいものになってくれると思ったからだ。


 退屈な日常はもう終わった。

 これから自分にあるのは驚異に満ちた輝かしい未来だ。

 これを使えば――ヒトという生物さらなる高みに到達できる。


 自分だけで使うのはもったいない。これは多くの人に使われてしかるべきものだ。


 なんとかして――自分が手に入れたこれを多くの人たちにも分け与えられるようにしなければ。


「これをどう使うのか――それを考えないといけないな」


 僕は、笑い声をかみ殺しながら帰路についた。

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