第38話 残り火

 怪我も治り、退院した炎司はすぐに元の日常に慣れていった。


 あれだけ劇的な数日間を過ごしていたのに、と思ったが、人間とは慣れる生き物だと聞いているし、たぶんそういうものなのだろう。


 ただ、以前と世界は違って見えるようになった。


 いや、正確に言えば変わったのは世界ではなく自分だ。世界はどこも変わっていないのだろう。そう易々と、『世界』なんて大きなものが変化するはずもない。世界を認識する自分の主観が変わったのだ。


 ノヴァと一緒にいて、命をかけて戦ったのは数日間だ。その数日間は、認識する世界が変わってしまうほど、炎司に変化を与えたのだろう。もしかしたら、たった数日間の間に、越えてはいけない『なにか』を越えてしまったのかもしれない、なんてことも思った。


 別の世界で戦っていた頃の力はいまでもわずかに残っている。早く退院できたのもその名残なのだろう。そのおかげか、身体能力も高くなった。悪くなり始めていた目も、一気に改善された。来年の身体測定の時は少し気をつけたほうがいいかもしれない、なんてことも思う。


 季節はすっかり冬に近づいていた。大学の構内になる針葉樹もその葉を散らし始めている。歩く学生もすっかり冬の装いだ。


 ――なにも起こらない。


 夜、外に出ても、街の風景がおかしくなっていることもなかったし、モザイクの塊みたいな怪物も出てこなかった。暮らしている街だって半壊していない。


 別にあいつらと戦いたいと思っているわけではない。平和なのが一番だ。それがいい、というのはわかっているはずなのに――


 何故か炎司は空虚な日々を過ごしている。


 どこか鬱屈した退屈な日々。満ち足りているはずなのに飢餓感を覚える毎日。


 どうしてこんな感情を抱いているのか、炎司にはまったくわからなかった。別の世界にいた頃の自分は、そこまで戦闘に耽溺していたわけではなかったのに――


 ふと、目が合った。目が合ったのは二人組の女の子の片割れ。木戸大河だ。


 こちらの世界の彼女はどうなのだろう、なんてことを思った。


 数日間、炎司がいた世界では、彼女は、『裏側の住人』と、『裏側の世界』と繋がる『扉』と同化して、この街を半壊させた。


『裏側の住人』と同化して彼女があんな風になってしまったのか、もともとどこか狂っていたのかいまとなってはわからない。その世界にいた大河を炎司は殺してしまったから。


 結局なにも言うことができなくて、炎司はそのまま彼女たちの横を過ぎ去った。言うべきでもないのだろう。


 炎司は、いまでも自問する。


 自分のやったことは正しかったのか、と。

 大河を殺したことは正しかったのか、と。


 いくら考えても――

 あの時、大河を殺す以外の他に道があったとは思えず――

 他の答えはで、出てこなかった。


 身体のどこかにあるスイッチを入れて、手に力を込めてみる。手からは青い炎が小さな音を立てて出てきた。これが自分の数日間の出来事が嘘ではないことの証明だ。その炎を見ていると、どこか心が安らいでいく。


「こんなところでなにやってんだ?」


 と、不意に話しかけてられて、炎司は手の炎を慌てて消した。話しかけてきたのは同じゼミを履修している男だ。


「お前、いま火を出してなかった?」


「マジックだよ。この間、古本屋で目に入ってさ。ちょっと練習してるんだ」


 炎司は適当な嘘を言う。


「ふーん。マジックねえ。お前そんなことするんだ。なんか手慣れてるっぽかったし、年末の飲み会でやってみせてくれよ」


「ま、気が向いたらな」


「そう言うなって」


 彼は炎司の肩を叩いてそう言った。


「お前、このあと授業ある?」


「ああ。一コマ空いて、四限」


「む。そうか。こっちの事情でサボらせるわけにもいかないし、また今度な」


 そう言って、彼は炎司のもとから離れていった。彼の姿が見えなくなったのを見計らって、炎司は歩き出す。


 暇な時間があるのはつらかった。どうしてもノヴァのことを考えてしまうから。


 図書館か、近くの喫茶店にでも行って時間を潰そう。なにかしてないと、平和に押し潰されてしまいそうだったから。


「戻ってきて、よかったと思ってるはずなのにな」


 と、炎司は一人呟いた。やはり、その問いに答えてくれる相手は誰もいない。こちらの世界は、ちゃんと自分のことを知っているはずなのに――どうしようもないほどの孤独だ。


 いや、人間はそもそも孤独なのだろう。ただ、それを普段は感じないだけで。


「火村くん」


 そんな声が聞こえて、炎司は後ろを振り向いた。そこにいたのは先ほど通り過ぎていったはずの金元文子だ。


 どうしたのだろうと炎司は思う。こちらの世界では、自分と文子はただ同じゼミを履修しているだけの間柄に過ぎないのに――


「ちょっと時間ある? 話したいことが、あるんだけど」


「いいけど、なに?」


 炎司がそう言うと、文子は躊躇するような素振りを見せた。沈黙の時間が続く。それが十秒ほど続いたところで――


「おかしな話をしていると思うんだけど、火村くんに言わなきゃいけない気がしてさ」


 と、文子は喋り始めた。その言葉にはどこか固さが感じられた。


「最近、変な夢を見たの。わたしたちが暮らしている街に見たこともない怪物が数えきれないくらい現れて、火村くんがそれと戦ってる夢、なんだけど」


 こちらの様子を窺いながら文子は続ける。


「それで、街は災害が起こったみたいに壊されちゃって、怪物を生み出していた大河を火村くんが殺していつも終わるんだけど――ごめん。変なこと話しちゃって」


「いや、別にいいよ。特に気にしてない」


 炎司がそう言うと、文子は少しだけ安心したようだった。


「でも、それは夢だよ。実際に起こることはないと思うから必要以上に気にしない方がいい」


 炎司がそう言うと、文子は「そうかな」と言った。炎司はなんと言っていいかわからず、「それじゃ」と言って文子のもとを離れる。


「夢――か」


 どうして文子はそんな夢を見たのかはわからない。だけど、それはこの世界ではきっと起こらないことなどだと自分に言い聞かせることしか炎司にはできない。それは、炎司にとって過ぎ去ったものでしかないのだから――


 炎司は大学の敷地外に出た。


 近くの喫茶店にでも行って、時間を潰そう。あそこには漫画がたくさんあって、いくらでも時間を潰せるから――


 炎司はゆっくりと歩いていく。あと一つ角を曲がれば喫茶店につくというところで――


「随分と陰気なツラをしているな」


 そんな声が聞こえて、そちらに目を向ける。

 そこには――


「貴様がいる世界でどうにも不穏なものが観測された。いまはまだその影響は小さいが、早めに処理しておいて損はない。それで、新しい人間を調達してくるのも面倒だ。そんなに退屈なら――もう一度私に手を貸してくれないか?」



(第1部完)

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