第37話 見知らぬ天井

 気がつくと、見知らぬ天井が目に入った。


 ここはどこだろう? そう思って身体を起こそうとすると、腹のあたりに激痛が走って、動きが止まる。その腹の痛みで、自分は戻ってきたのだと確信した。確か刺されて殺されたはずだから。


 ということは、ここは病院か。あたりに満ちる匂いからして、そう確信した。刺されたあの日からどれくらい時間が経っているのだろう。


 そこまで考えて、いままで自分が見てきたものは長い夢だったのではないかと思い始めた。


 しかし――


 とても生物とは思えない怪物と戦ったこと、痛い思いをしたこと、そして、街が半壊したこともすべてはっきりと思い出せる。間違いなく、自分はあれを体感してきたはずだ。


 それに――


 身体のどこかにはまだスイッチのようなものがあった。それを入れて、手に力を込めてみると――


 ぼっ、と小さな音を立てて、青い炎が浮かび上がった。明るいけれど、怪物と戦うにはあまりにも頼りない炎。これが、使えるということは――


 やっぱりあれは夢なんかじゃない。とても短い間だったけど、自分が体感したことは事実なのだと確信を持った。青い炎は掌を握りこむと簡単に消え、少しだけ明るくなった部屋は再び暗くなる。


 病室には誰の姿も見えなかったので、意識を取り戻したことを伝えようと思い、ナースコールを押した。これですぐに誰か来てくれるだろう。


 それからすぐに、女性看護師が部屋に入ってきた。起き上がりことができなかったので、そちらに身体を向けると「意識が戻られたんですね」と女性看護師は優しげな声で言う。


「あ、あの……」


 炎司は――腹の痛みに堪えながら声を出す。


「どうかしましたか?」


「今日は……何日ですか?」


 炎司の問いに、看護師はすぐに答えた。言われた日付は別の世界で目が覚めた日より一週間後。となると、自分は一週間も意識を失っていたのか。


「それと……俺の名前は、火村炎司ですか?」


 それだけは、なにがあっても訊かずにはいられなかった。別の世界では火村炎司という人間はおらず、別の人間として生きていたのだから。この問いが、真に自分がもとの世界に戻ってきたのか確かめられる問いだ。


「……なにを言ってるんですか。そうですよ。火村さん。部屋の外にもあなたの名前が載ってますよ。動けるようになってからにしてもらいたいところですが。もしかして、なにか記憶の混乱とかしていますか?」


「いえ、そういう……ことでは、ないんですけど」


 別の世界にいた時に、違う名前の人間になっていたもので……なんぞ言えるはずもない。言ったら確実に頭がおかしくなったと思われる。


「……そうですか。どうやら大丈夫そうなので、火村さんが意識を取り戻したことを、先生とご両親に連絡させていただきます。なにかあったら、まだナースコールをお使いください」


 それでは、と礼儀正しく言って、女性看護師は病室を出て行った。炎司は、再び病室で一人になる。


「あの時みたいに、すごい勢いで傷が再生したりしないのかな」


 そう独りで呟いたが、当然それに対しなにか返ってくることはなかった。



 意識を取り戻してから数日してから、両親が駆けつけてきた。両親は、炎司が意識を取り戻したことを泣いて喜んでくれた。


 炎司も久しぶりに自分の名前を呼ばれて、とても嬉しかった。それがたまらなく嬉しくて両親の前で泣いてしまったほどだ。自分が思っている以上に、自分とはまったく違う名で呼ばれるのは負担だったのだろう。


 それから警察の人もやってきた。三十代半ばくらいの細い男と、四十代くらいの筋骨隆々とした男の二人組だ。


 彼らの話によると、炎司を刺したあの暴漢は、炎司を刺したあと、すぐに怖くなって自首してきたらしい。


 それに、この世界では炎司は滅多刺しにされなかったようだ。そこが自分の記憶とは違っていた。滅多刺しにされなかったおかげで、炎司は一命を取り留めたのだと納得する。


 炎司を刺した男は全面的に自分が悪かったと言っているようで、裁判もスムーズに進むだろう、と話していた。


 腹の傷もどんどんと回復していって、担当の医師が「見たことない回復力だ」と言って驚いていた。でも、炎司は不思議には思わなかった。だって、自分にはほんの少し前まで、腕を切り落とされてもすぐに再生できるくらいの回復力があったのだ。それに比べれば、刺された傷が早く治るくらいなんてことはない。なにしろ、炎司にはその頃の力の残滓があるのだから。そんなの当たり前だろう。


 だけど――


 別の世界で唯一炎司の名を知り、その名で呼んでくれた彼女はどこにもいない。一人でいるところで呼びかけても、その呼びかけに返ってこないのは、どこかにぽっかりと穴が空いてしまったような気がして、炎司の語彙では表現できないほど、悲しいものだった。


 こんな悲しい思いをするのなら、去っていった時に、その頃の記憶と力を完全に奪ってくれよ、と思うより他にない。その方がずっと楽だったはずだから。


 でも、そんなこと言っていられない。


 せっかく戦い抜いて、色んなものを犠牲して、間違いをして、戻ってきたのだ。

 ちゃんと、日常に戻らないと、駄目だ。

 たぶん、彼女もそう思っているような気がするから。

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