第89話 時間はあまり残されていない

 一体自分はなにをしていたのだろう。ルナティックに剣を刺され、それを爆発させられてからの記憶がまったくない。いまここにこうしているということは、あの剣の爆発をまともに受けても復活できたということだし、それに――


 ルナティックを倒した……のだろうか?


 ルナティックの姿はどこにもなく、手にはルナティックを殺した時の手ごたえが残っている。


『ルナティックはお前が倒した』


 聞こえてきたノヴァの言葉によって、炎司は現実に舞い戻った。


『剣の爆発を受けてからの記憶がないことについては気にするな。なにしろ貴様は微粒子レベルまで分解された状態だったのだ。そのような状況では思い出せるものも思い出せないしな。それに、思い出さなくてもいいこともある』


 ……ノヴァがそう言うのなら、思い出さなくてもいいのかもしれない。さて、やるべきことは終わった。さっさと金元と木戸を回収して、ここを離れよう。自分のことについては、どうするべきだろうか? このような状況になってしまっては隠せない気がするが――


 その時、聞こえてきたのはなにかが唸る音。炎司はそれを聞いて背後を振り返る。


 そこは、異常なほど空間が歪んでいた。それは、ルナティックがなにかを取り出す時に発生させていたものと似ていたが、それよりも遥かに大きい。


 ルナティックは倒したはずなのに、何故こんなものが発生しているのだろう? 炎司は疑問に思った。


 破壊すべきだろうか? だが、放置しておくのも危険だろう。どうする――

 炎司が悩んでいると――


 大きな歪みは、突如形を変形させた。歪み、伸縮し、肥大し、ねじれていく。その挙動は明らかに危険なものに思えた。やはり、破壊すべきだったか。炎司が歪みを破壊すべく力を腕に溜めていると――


 歪みから、黒い水は溢れ出した。それは街中に濁流を生み出すほどの圧倒的な量。


「な、なにが……」


 予想しえなかった事態に炎司は困惑する。だが、歪みから溢れ出したものがなんなのかすぐに理解できた。


 これは、別の黒羽市にあった黒い水だ。あれが、どこからか溢れ出している。間違いない。だが何故、『扉』ができていないのに、あれが流れ出しているのだろう。


『あれは、ルナティックが集めていたエネルギーだ』


 ノヴァはこちらの考えを見透かしたかのように言った。


『奴が殺されたことで、奴が保存していたエネルギーが行き場を失くして溢れ出てきたのだ。このまま放置しておけば、この街は奴が残していったエネルギーによって〈裏返って〉しまうだろう』


「なら――」


 歪みは、黒い水を垂れ流す巨大な球体に変わっていた。あれを、壊せば――


 そこまで考えたところで、思い出す。


 下には、意識を失っていた金元と木戸がいるのだ。『裏側の住人』を認識できる彼女たちには、この水は間違いなく危険だ。早く、助け出さなければ。


 文子と大河のいると思われる場所はすでに黒い水によって水没していた。この位置からでは、どこにいたのかまったくわからない。もしかしたら、流されている可能性もある。だからといって、見捨てるわけにはいかない。彼女たちはただ巻き込まれただけなのだ。そんな人間を、見捨てていいはずがない。


 炎司は一度深く深呼吸し、宙を蹴って黒い水に突入する。黒い水の中では、なにも見えない。だが、なにかあるはずだ。炎司は黒い水をかき分けながら記憶を思い出していく。五秒とかからずに思い出すことができた。炎司は、黒い水の中を見渡していく。


 しばらく泳いだところで、彼女たちの姿が見えた。どうやら、まだ意識を失っているらしい。炎司は水を蹴って、倒れている彼女らのところへ向かう。二人の身体を両肩で抱え、水中を蹴り、そのまま水中を脱出し、宙へ飛び上がる。


「二人は大丈夫かな?」


『ああ。大丈夫だ。黒い水による浸食は受けていない。が、見てみろ』


 ノヴァの言葉を聞いて、炎司は街を見下ろす。あの黒い球体から流れ出した黒い水はいつの間にか街中を水没させていた。


『この娘たち以外にも、〈裏側〉を認識できる者はいるだろう。すでにもう呑まれている人間がいるのは確実だな』


 その言葉を聞いて、炎司はぞっとした。こんなわけのわからないものに呑まれてしまうなんて、炎司のように力のない人たちにしてみれば恐ろしいことこのうえないだろう。


「助けられないかな?」


『その気持ちはわかるが、まずはその抱えているのをなんとかしよう』


 ノヴァにそう言われて、炎司は自分が二人を抱えていることを思い出した。確かに、彼女らを抱えたままでは戦えるものも戦えない。炎司は、黒い水に没していない高さにあるマンションの屋上に着地した。それから、抱えていた二人をゆっくりと下ろす。


「そうだ」


 そこまでやったところで、大河に『残骸』の残滓を注入されたことを思い出した。その除去を行うためにいままでずっと戦ってきたのだ。大河の身体に触れ、浄化を行う。一瞬だけ、大河の身体が光に包まれて――


「これで、大丈夫だろうか?」


『さあな。もともと本人の一部だからな。他と同じように除去できるかどうかは微妙なところだ。だが、なにもやらないよりはいいだろう』


「……そっか」


 この先は祈るしかない、というのは、力を持ったいまだからこそ歯がゆかった。


「ん、ん……」


 すると、横で横たわっていた文子が声を出した。炎司はそちらに身体を向ける。


「金元」


「ひ、火村くん? あの、ここは……」


 文子は身体を起こし、きょろきょろとまわりを見回した。


「というか、これは一体? なにが、どうなってるの?」


 現実離れした光景を目の前にして困惑する文子。街が黒い水で水没しているなど普通に考えたらあり得ない光景なのだから。


「俺も、なにが起こったのかはちゃんと把握できていないんだけど、まあ、あの男がこんな風にしたって感じかな」


「それじゃあ、あいつはどうなったの?」


「……俺が、倒した」


 炎司は一瞬だけ躊躇し、強く言う。


「けど、戦いはまだ終わってない。いまのこの状況をなんとかしなければ、俺の戦いは終わらないんだ。だから、行ってくる」


「火村くんは……何者なの?」


 少しだけ震えた声で言う文子。自分に対して恐怖を抱かれているのだと思うと、少し嫌な気持ちになった。


「ごめん。それを説明している時間はないんだ。でも、これが終わったらちゃんと説明する。それでも、いいかな?」


「うん……わかった。それで、いい」


 自分の正体を明かしていいものか悩むところだけれど、ここまで来てしまったら隠すわけにもいかないだろう。


「ノヴァ、俺が離れている間、彼女らを守ることってできないのかな?」


『できるぞ。どの程度の広さにする? できるだけ狭い方が確実だが』


「それじゃあ、この屋上はどうだ?」


『その程度なら問題ない。では、少しだけ待ってろ』


 ノヴァはそう言って、炎司から離れていく。


「あ、あの……」


 不思議そうな顔をして、文子はこちらを見ていた。どうやら、いまの炎司とノヴァの会話のせいなのは明らかだった。


「誰と話をしていたのかって? それについてもあとで説明するよ」


「……うん」


 文子は少しだけ悲しそうな顔をしていた。


『よし、終わった。これでしばらくの間はこの屋上は安全だ』


「終わったみたいだから行くね。あと、俺がここに戻ってくるまではここにいてくれ。そのほうが安全だから」


 炎司はそう言って、一度文子の顔を見たあと、宙に飛び上がった。そして、黒い塊を見据える。巨大な黒い塊は、いまもなお黒い水を垂れ流し続けながら移動していた。


「時間はどれくらいかな?」


『そうだな。かなり大目に見て、夜が明けるまでというところだろう。早ければ、あと数時間というところか』


「あの黒い水って、別世界の黒羽市にあったものと同じなの?」


『ああ。だから、〈裏側の住人〉を認識できる人間にしか、あの黒い水は認識できない。だから、多くの人間にとって無害だ。だが、このまま時間が経過すれば、普通なら認識できない人であっても、この黒い水を認識できるようになるだろうな』


「じゃ、早くあれを倒したほうがいいってことだな」


『そうだ』


「よし」


 自分を奮い立たせるように炎司は言い、ゆっくりと息を吐いて――

 宙を蹴って、黒い塊に向かって飛んでいった。

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