第88話 混沌狂気都市再び
帰路につく恋塚ちひろはなにか大きな音を聞いた、ような気がして立ち止まった。背後を振り向く。しかし、そこに広がっているのは見慣れた夜の住宅街。なにか、目に見えて異常なものがあったわけではなかった。だが――
何故か、なにかがこの街で起こっているような気がしてならなかった。理由はわからない。どうしてかそう思えてならなかったのだ。
「……早く、帰ろう」
立ち止まっていたちひろは踵を返して歩き出した。卒論を完成させるために、明日も早起きして研究室に向かわなければならないのだ。こんなところで時間を食っている場合ではない。
しばらく歩くと――
また聞こえてきた大きな唸りのような音。ちひろは再び立ち止まった。背後を振り向く。やはり、そこにはなにもない。いつもの夜の住宅街。普通なら、なにもなければ安心するところだ。なのに――
明らかな異常があるように思えるのに、実際にはそこにはなにもないというのは、ちひろを不安にさせた。
どうしてこんなことを思っているのだろう。普段なら、こんなこと思ったりしないのに。少し疲れているのだろうか? 今日は風呂に入ってさっさと寝てしまった方がいいのかもしれない。再び、歩き出そうとした、その時――
聞こえてきたのはいままでよりも遥かに大きな音。そして地鳴り。それは、どんどんと近づいているような気がして――
音が聞こえる方に目を向ける。そこでちひろが目にしたのは、あらゆるものを飲み込みながらこちらに押し寄せてくる黒い津波だった。海も大きな河川も遠いはずの黒羽市でどうして津波が来るのだろうと疑問に思う前に、ちひろは自分がいる方向に向かってくる黒い津波から逃げるように走り出した。
走る。
背後を覗き見た。黒い津波は自分が走る速度よりも遥かに速かった。どんどんと自分を飲み込むべく押し寄せてくる。
走る走る。
どうしてこんなところで津波が押し寄せてくるのだろうと疑問に思った。だが、いまはそんなことを考える前にとにかくあれから逃げなくては――
走る走る走る。
音と地鳴りはさらに巨大なものになる。圧倒的な重量を持つなにかが自分の背後に迫ってくるのが感じられた。心から恐ろしいと思った。体力は限界になっているはずなのに、足は止まることはなかった。逃げなければ、という思いだけがある。
しかし――
押し寄せてくる黒い津波の足は人の足で逃げられる速度ではなかった。気がつくと黒い津波はちひろの足を一瞬で掬い取り、その身体を一気に呑み込んだ。
濁流によって押し流される。呼吸ができない。苦しい。圧倒的な勢いの流れによって押し潰されて身体がどんどんと沈んでいく。誰か助けてと、手を伸ばす。だが、その手を取ってくれるものは誰もいない。自分を呑み込んだ黒い水は遥か高い位置にまで達していた。ちひろはだんだんと暗黒に包まれていって――
黒い津波の中に溶けていった。
「はあ……はあ……」
マンションの屋上によじ登った横山雄介は荒い息を整えながら状況の確認をする。いま乗り越えてきたマンションの手すりから身体を覗かせてみると、そこには信じられない光景が広がっていた。
街が、黒い水によって水没していたのだ。そんな馬鹿な、と思ったものの、自分の目に前に広がっている光景は何度見直しても変わらない。見渡す限り、三階建てくらいの建物がすべて黒い水に沈んでいた。
「い、一体なにが……?」
そんな言葉が口から漏れたが、それに答えてくれる者は誰もいない。
というか、あの黒い水はなんだ? この街を満たしているあの黒い水がただの水とは思えなかった。いや、待て。そもそも――
どうして、これだけの事態が起こっているのに、混乱が起こっていないのだろう。街中が水没するなんて大災害のはずである。なのに、街はそんなことなどまるで起こっていないかのようだった。それ以前に、あれだけの水が押し寄せてきたというのに、建物がどれも倒壊したり流されたりしていないのはどういうことなのか? 様々な疑問が浮かんでくる。
「なんだ、あれ……」
この街で起こっている得体の知れない事態に途方に暮れながら、上を見上げてみると、そこには、黒い球体のようなものが浮かんでいるのが見えた。この世の暗黒をすべて押し込めたかのようなそれは、不気味に胎動しながら、黒い『なにか』を吐き出していた。あれが、街を呑み込んだ黒い水なのだろうか? なにがなんだかまったくわからなかったが、得体の知れない事態が起こっていることは理解できた。
「これから、どうしよう」
雄介は途方に暮れた。あの黒い水の中に入るのはまずいのは明らかだ。とはいっても、ここでずっと立っているわけにもいかない。どうすれば、いいのだろう。
その時――
宙に浮かぶ黒い球体から、なにかが出てくるのが見えた。黒い水ではない。なにか、塊ようなものだった。それは、宙を駆け、その瞬間を目撃した雄介を狙いすましたかのようにこちらに向かってくる。雄介は後ずさる。だが、黒い水によって水没しているこの街に、逃げる場所はどこにもない――
「ひっ」
黒い球体から飛び出した『なにか』は雄介がいる屋上へと着地した。そいつは、なにか唸り声のようなものを発しながら雄介に近づいてくる。目の前にいるのに、そいつがどのような姿をしているのか判然としなかった。
黒い球体から飛び出した『なにか』は、目にも止まらぬ速度で動き出し、雄介にのしかかった。雄介は必死に抵抗するが、黒い球体から飛び出した『なにか』は微動だにしない。
黒い球体から飛び出した『なにか』は、不気味な顎のようなものを広げて――
そこで、雄介の意識は断絶した。
町永達治は、どうやらこの街でなにかが起こっているらしいことを察した。
なにかが起こっていらしい、というのは、町永の目からはなにか起こっているようには見えなかったからである。町永の目に映っているのは、いつも通りの夜の街。なのに、何故かなにかから逃げるようにしている人をたまに見かけるのだ。その人たちは自分を騙すためにやっているようには見えない。本当にいま自分の身に危機が迫っているように感じられた。なにが起こっているのか話を訊こうとしても、その人たちは誰も答えてくれないのだ。まるで喋っていられる状況ではないみたいに。
「本当に、なにがどうなっているのやら……」
町永は一人ぼやく。
なにか起こっているらしいことはわかっても、自分の目にはそれが見えない以上、どうすることもできなかった。結局、人間というのは自分に見えなければどうすることもできないのだ。迫真の様子で苦しんでいる人を見捨てるのは痛ましいが、なにもできない以上、どうすることもできない。
もう少し飲み歩く予定だったが、今日のところは帰ろう。酒を飲むくらい、別にいつだってできる。そう思って歩き出した瞬間――
自分の視界が、暗黒に包まれた。それから、急に息ができなくなって――
と思ったら、暗黒に包まれていた視界が元に戻る。呼吸もできるようになった。なんだこれは、と町永は思った。
やっぱり、この街ではいまなにか起こっているらしい。だが、町永にはそれをどうすることはやっぱりできなくて――
仕方ない、と自分に言い聞かせて、夜の街を歩き出した。
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