第28話 蹂躙都市黒羽

 街が騒がしい。確かにそれが感じられて、うたた寝をしていた文子は目を覚ました。


 外から聞こえてくるのは尋常ではない様子の怒号や悲鳴。それに、なんだかわからないが、耳が腐りそうな不気味な音も聞こえてくる。


「なに……」


 自分一人しかいない部屋で文子はそう呟いた。当然、この問いに答えてくれる者はいない。


 ベランダから覗いて思ってカーテンに手をかけたところで、逡巡する。何故だかわからないけど、いま起こっているものを見てはいけないような気がしたのだ。


 しかし――


 耳を背けようと、目を逸らそうと、街の異常は文子に伝わってくる。それが伝わって来れば、当然なにが起こっているのか気になってしまう。


 少しだけと思って、文子はそっとカーテンを開けて、ベランダに続くガラス戸から外を覗いてみた。


 そこには――


 以前、幻視した異様な街の風景よりも遥かに異常となった街が目に入った。それを見てしまった文子は、反射的にカーテンを閉めて目を背けた。


 なんだ、あれは。なにがどうなっている?


 あれを見た文子を支配するのは恐怖と困惑が入り交じった混沌とした感情。真っ黒な汚濁が、濁流のように街に押し寄せて呑み込みつつある。これは、本当に現実なのだろうか?


 だが――


 おかしなものを現実として見たことがある文子には、いまこの街で起こっている異常事態が現実のものであることは嫌というほど理解できてしまった。


 どどど、と心臓の鼓動が加速する。


 どうする? 逃げた方がいいのか? 自分の家だからって安全ってわけじゃないのは明らかだ。だけど、あんな風になった街を出歩いて大丈夫だとも思えない。しっかりと見えなかったけど、あの濁流に呑み込まれている人もいた。下手に動かない方が――


 そこまで考えたところで――


「そうだ、大河」


 今日の夜、大河がウチにやってくることを思い出した。文子はハッとしてスマートフォンを取り出して画面を見る。トークアプリの通知は来ていなかった。それが、そこはかとなく嫌な予感を感じさせる。考えたくないけれど、もしかしたら――


 駄目だ。そんなことを考えてはいけない。そんなことあるわけないじゃないか。不気味に蠢きながら湧き上がってきた嫌な考えを文子は否定する。


「メッセージを送ってみよう……なにかわかるかもしれないし」


 文子はトークアプリを起動して、大河のアカウントにメッセージを送る。


 すると――


 大河からすぐにメッセージが返ってきた。それを見て、文子はよかった、と安心する。


 やっと安心できたところで、もう一件メッセージが来る。その内容は、これからそっちに行くね、というもの。


 行くって、大丈夫なの? とメッセージを返す。先ほど窓越しから見た異常な光景のことについては言わなかった。まだ、以前のように自分にしか見えていないかもしれなかったからだ。


 再びメッセージはすぐに返ってくる。もうすぐそこからだから大丈夫。そっちこそ大丈夫? いま街が変なことになってるでしょ?


 それを見て、文子はやっといま見ているこれは自分以外にも見えているものだというのを理解した。


 やっぱり、街はおかしくなっている。なにがどうなって、こんなことになったのか全然わからないけれど、先ほど窓越しに見た異常な光景は間違いなく現実のものであるようだ。


 そこまで考えたところで――


 どうして、こんな異常になっているのに、大河はやってくるのだろう? そこに少しだけ疑問を覚える。確かに昼間、行くと言ったのは事実だけど――


 そのとき――


 聞こえてきたのは扉を叩く音。それは明らかに力強く叩いていて、ノックとは言えない激しいものだ。それを聞いて、文子は身体を強張らせた。


 いま扉を叩いているのはあの怪物なのだろうか? いつかの夜に襲われた、この世の生物とはとても似つかないモノ――


 激しく叩く音は、なにかを引き千切る音に変わる。なにかが家に侵入してきたようだ。しかし、文子の身体は恐怖で固まって動いてくれない。いま侵入してきたのがあの怪物だったのなら、どうすることも――


 侵入者は文子の部屋に続く扉も引き千切って侵入してくる。いつか聞いた、けれど確かに覚えている、どの言語とも似つかない呻き声がほんの五メートル先から発せられる。侵入してきたのは、ロボットアニメに出てくるような多脚生物で、どこか機械的に見えた。


 がちゃがちゃと音を立て、こちらをあざ笑うかのように徐々に距離を詰めてくるそいつからは、この世のものとは思えない複雑な異臭が感じられた。しかし、その異臭が気にならない。それくらい文子は恐怖していた。


 どうする――


 後ろをそっと見る。背後にはベランダがある。そこから逃げたらいいだろうか?


 いや、駄目だ。一階や二階ならいいが、ここは五階だ。そんなところから飛び降りるなんてとてもじゃないかできない。


 それに――

 外にも目の前にいるコイツのようなのがいるのなら、ここから逃げたとしても――


「――――」


 唸り声を上げて、多脚生物が近づいてくる。その距離はすでに一メートルを切っていた。駄目だ。もう、どうすることもできない、そう思って目を瞑ったところで――


「どこにでもいるザコのくせに、私の友達に手を出すなんていい度胸じゃない」


 そんな声が聞こえて、前を見てみると――


 先ほどまで確かにそこにいたはずの多脚生物は消えていて、その代わり――


 親友の大河が立っていた。


「た、大河……」


「大丈夫? 文子」


 その声を聞いて、恐怖と困惑で強張り切っていた文子の心が解きほぐれていく。そのせいか身体の力が抜けてしまって、せっかく彼女が来てくれたというのに、立ち上がって抱きつくこともできなかった。


「よかったわ。街がこんなことになっているから無事かどうか心配していたんだけど、間に合ったようね」


 大河はいつも通りの口調でそう言って、こちらに近づいてきた。


「立てる?」


「ごめん、ちょっと無理。力が抜けちゃって……」


「そっか。ならそのままでもいいわ」


「あの、大河。さっきまでいたあいつはどうしたの?」


 目を瞑っていたせいで、大河がどうやってあの多脚生物を消したのか見ていなかったので訊いてみた。


「大丈夫よ。もういなくなったから。ここにはいるかもしれないけどね」


「え?」


 その言葉に、不穏なものが感じられた。

 彼女は一体なにを言っているのだろう。


「それで、なにか用?」


「ああ。ちょっと協力して欲しいことがあるの」


「協力?」


「そ」


「でも、協力っていっても、わたしにできることなんて――」


「いいのいいの。なにもできなくても。ただそこにいるだけでいいから」


「へ?」


 その言葉の意図がわからずにいると、大河は手を伸ばして、その手からなにか不気味な怪生物の顎が出現して――


「ひっ」


 文子は短い悲鳴を上げた。その怪生物は文子の首のあたりにかみついたところで、文子の意識はすぐに暗黒の彼方へと落ちていった。

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