第30話 混沌の夜宴

 涌井洋一わくいよういちはサメ映画というものを一度だけ見たことがあった。確か、サメが竜巻と一緒に飛んでくる映画である。ツッコミどころこそ多いものの、なかなか楽しめる映画だった。


 しかし、その内容は馬鹿馬鹿しいもので、恐怖を感じるものではまったくなかった。


 だが――

 洋一は空を見上げる。


 そこには宙を飛び交うサメのような生物がいる。そして、自分たち人間はなす術もなくそいつらに食われていく。


 まるで冗談みたいな光景が現実として広がっている。なにがどうなっているのかまったくわからなかった。いつも通り、仕事終わりに行きつけの店で一杯引っかけて店を出たら、街はこんな状態になっていたのだ。一体、なにがどうなっているのか――


 もしかして、自分は夢を見ているのではないか? そんなことを思ったけれど――


「ぎゃああああ!」


 そこかしこに響き渡る絶叫を耳にすると、どうしてもこれが夢だなんて思えなかったのだ。夢だとするなら、あまりにもリアルすぎる。これが夢だったのなら、世界はきっととっくの昔にマトリックスみたいになっているだろう。


 悲鳴や絶叫を聞くたびに、どうにかしたい、とは思うものの、ただのサラリーマンでしかない洋一にできることなどなにもなかった。ただ無為に、サメみたいな生物に食われるのを見ていることしかできない。他にできることと言えば、自分の足で走って逃げることだけだ。


 洋一は走る。

 街を埋め尽くしている混沌から逃げるために。


 この混乱はどこまで続いているのだろう? と疑問に思った。


 もしかして、いま自分がいるここではないどこかも、ここと同じようになっているのではないか? いつか見たサメ映画みたく、世界中でサメを飛ばしてくる竜巻に襲われていて――


 いや、そんなことあるわけがない。洋一は首を振って、浮かんできた考えを否定する。


 だが――


「ぎゃああああ!」


 またしても響いてくる誰かの悲鳴。洋一は思わず足を止めてしまった。見える範囲に、サメに襲われている人はいない。でも、悲鳴の聞こえ方からして、それほど離れていないだろう。洋一は少しだけ逡巡して――


 やっぱり、逃げることにした。


 自分にはなにもできない。自分はセガールでもなければシュワルツェネッガーでもない。空を飛んで襲いかかってくるサメをどうにかできるはずもないのだ。逃げろ。余計なことを考えるな。まずは自分の命を護れ。話はそれからだ。


 店を出た時はほろ酔いでいい気分だったのに、すっかり酔いも醒めてしまった。とは言っても、こんな状況で飲み直すことなんてできるはずもない。飲み直すにしても、早く無事なところに逃げなければ――


 その時――

 背後から嫌な気配が感じられて、そっと後ろを振り向くと――


「ひっ」


 洋一の十メートルほど後ろに、サメのように見える『なにか』が道路を這いずってこちらに向かってくるのが目に入った。ソイツの歯は真っ赤な液体を滴らせている。いま近くで、誰かを食い殺したのだろうか。


「くそっ」


 洋一は駆け出した。もうすでにかなりの距離を走っているはずなのに、疲れはまったくない。火事場の馬鹿力というヤツなのかもしれなかった。


 しかし――


 無情にも道路を這いずってくるサメの速度は洋一の全速力よりも遥かに素早かった。次に後ろを覗き見たときにはサメの牙が手を伸ばせば届く距離まで接近していて――


「い」


 嫌だ、と言おうとしたところで――


 なにが起こったのか、サメの牙はいつまでも自分に襲いかかってこなかった。


 どういうことだ? そう思ってもう一度後ろを見ると――


 そこに立っていたのは青い炎をその身に纏っている青年の姿。その青年は洋一に襲いかかろうとしたサメをつかんで受け止めていた。


 そして、青年はそのままサメの喉もとあたりに蹴りを放ってその半身をいともたやすく吹き飛ばした。半身を吹き飛ばされたサメはすぐに動きが止まり、どろどろとした黒い泥のようなものに変化して消えていく。


「え?」


 なにが起こったのか、洋一にはまったく理解できなかった。


 しかし、いまそこにいる彼が自分をぎりぎりのところで助けてくれたことだけは理解できる。


「あ」


 ありがとうと言おうとして、とっさに言葉が出てこなくて、お礼を言う前に青年はものすごい勢いで走り出して洋一の前から消えてしまった。


「た、助かった――のか?」


 安心したせいか、いままで感じられなかった疲れが一気に回ってきて、洋一はそのまま腰を抜かしてしまった。



 街中が混乱に陥っている、それがわかった玉田武夫たまだたけおは明日を生き抜くために必要な金を稼ぐことにした。要するに火事場泥棒というやつである。


 悪いことをしているという自覚はまったくない。どうせわけのわからないものに襲われて死んでしまった奴の家から持って行ってるのだから、これは資源の有効活用と言えるだろう。死んだ人間には金も宝石も意味がない。それなら自分が使ったほうがいいではないか? そう思うのだ。


 武夫が盗みに入った家はすでに十軒。稼ぎとして現金だけで百万ほどになった。仕事もなく、また仕事をする気もない武夫にとってかなりの大金である。どこの家も、もぬけの殻だった。きっと街に溢れている怪物に食われてしまったのだろう。


「ふふふ」


 かき集めた札を見て、武夫はうっとりとした。火事場泥棒というのはなかなかぼろい商売だ。みんな自分の命が恋しくて逃げ回るから簡単に盗みができる。普段から盗みで生計を立てている武夫にとってはありがたい限りだ。


「もう一軒くらい入っていくか……」


 もう充分かもしれない、と思う自分がいると同時に、まだもっと盗めるだろう、盗める時に盗んでおけ、と叫ぶ強欲な自分がいた。


 だが、そろそろ逃げないと自分の身も危ない、というのも事実。いま街には、どこにいっても怪物が溢れている。何度も盗みを働いては警察に捕まるのを繰り返していた武夫は危機察知に優れるようになった。もう限界だ、と自分の本能はそう叫んでいる。


「とはいっても、こういう時でもなけりゃ安心して盗みに入ることはできないしな……」


 泥棒で生計を立てている武夫はいつも金欠だった。それに、最近は防犯を強化している家も多くなって、なかなか盗みにも入れないのだ。今日のように、大きな混乱が起こって大金を稼げる日が次に来るのはいつかもわからない。


「あと一軒だけ……入っていくか」


 それでさっさと逃げてしまおう。この混乱がどこまで広がっているのかは不明だが、二つ先の市まで行けば大丈夫だろう。それに、そろそろ稼ぎ場も変えなければと思っていたところだ。ちょうどいい機会だ。足がつく前にさっさと消えてしまおう。


 ふと目についた住宅に向かい、扉を開ける。鍵はかかっていなかった。不用心だな、と心の中でほくそ笑みながら扉を開けると――


「ぎゃっ」


 扉を開けると同時に、家の奥にいた『なにか』によって思い切り引き寄せられた。とっさに逃げようしたが間に合わない。家の奥へと、どんどんの引きずられていく。


「い、嫌だ……」


 武夫は住宅の縁に腕を引っかけて、背後に引っ張ろうとする『なにか』に精一杯抵抗する。


 しかし、武夫を後ろに引っ張るその力はすさまじく、縁ごと身体を背後に引き寄せられて――


 すさまじい異臭がした。

 なにかはわからないが、とてもこの世のものとは思えない異臭だった。

 その異臭が、どんどんに近づいていく。


 どうして、と武夫は思った。


 ただちょっと盗みに入っただけじゃないか。どうしてこんな目に遭わなきゃいけなんだ。バチが当たったとでも言うのかよ……。


 極限まで背後から感じられる異臭が強まったところで――


「へ」


 自分から十センチほどの高さの位置に青いレーザーのようなものが飛んできて――


 自分を後ろに引いていた力が弱くなった一瞬の隙をついて、ほとんど反射的に武夫は逃げ出した。


 盗みに入ろうとした住宅の外に出たところで――


「な、なんだ……?」


 なにが起こったのかなにもわからない。だけど、自分が助かったのは間違いないらしい。


「は、早く逃げよう……」


 いくら盗みをしやすいからと言って、こんな危険な場所にいるのは間違っている。気が変わらないうちにさっさと逃げよう、と武夫は思った。



 叶香苗かのうかなえは生まれて初めて夜の街を走っていた。


 突然、巨大な芋虫が家の中に入ってきて家にあったものをすべて食らいつくされてしまった。


 あの芋虫がなんだったのかはわからない。

 だけど、あれがとてもよくないものということだけは理解できた。


 お父さんとお母さんはどうなったのだろう。先に逃げろって言ってたけど……大丈夫なのだろうか?


 いや、と香苗は首を振って嫌な考えを否定する。


 大丈夫に決まってる。お父さんもお母さんも馬鹿じゃないんだ。ちゃんと逃げられたに決まっているじゃないか――


 香苗は夜の街を一人で駆けていく。

 初めて歩く夜の街は、明らかにおかしくなっていた。


 あたりを彩るのは悲鳴、絶叫、断末魔。それから、見るのも嫌なくらい気持ち悪い見た目の人を食らう怪物。まだ家から逃げ出して五分となっていないのに、人を襲う怪物の姿を幾度となく見てしまった。これが、香苗の知らない夜の街の正体なのだろうか?


 いいや、そんなわけない。夜に出歩いたことがない香苗であっても、こんなことが毎日起こってるはずがないということは理解できた。


「痛っ」


 なにか硬いものを踏んでしまった。そういえば、わけがわからないまま逃げ出してきたから裸足だったんだといまさらになって気づく。


「――――」


 どこかから怪物の唸り声が聞こえてくる。それを聞いて香苗は身体を硬直させた。家に落ちてきたものと同じような声。それがいま、自分の近くにいる。


 早く逃げないとまずい。だけど、どこに逃げればいい? 学校? それとも――


 すると、目の前に落ちてきたのは黒い塊。それを見て、香苗は足を止めて後ろにずり下がる。黒い塊は、不気味な胎動をしていた。生きている、のだろうか?


 逃げなきゃ、と思ったけれど、目の前に落ちてきた黒い塊から目を離すのはもっと危ないのではないか。そんなことを考えた。黒い塊を見据えたまま、香苗は後ろにずり下がっていく。


 どうしよう。激しく胎動するそれは、いまにも中からなにかが生まれだそうとしているように見えた。気持ち悪いのに、目が離せない。


 黒い塊が突如として大きく歪んで、中からなにかが飛び出してくる。家に降ってきた巨大な芋虫だ。自分目がけて飛んできたそれから逃げることもできず、香苗はしゃがみ込んでしまった。


 だが――

 いつまで経っても、かみつかれることはなかった。


 閉じていた目を恐る恐る開くと――


 香苗を庇うように立っていたのは自分よりも十歳くらい年上のお兄さん。香苗に襲いかかるはずだった十数匹の芋虫に全身かみつかれていた。


「だ――」


 大丈夫、と言おうとした瞬間、お兄さんは全身が青い炎のようなものに包まれて、彼の身体にかみついていた芋虫をすべて弾き飛ばした。


 それから、まだ胎動を続けている黒い塊に突撃する。目にも止まらない速度だった。胎動する黒い塊に向かって思い切り拳を突き出すと――黒い塊は青い炎を上げて燃え出した。


「…………」


 なにが起こったのか、香苗にはまったくわからなかった。


 だけど、突然現れたお兄さんによって、自分の命が助かったことだけは理解できる。


 お兄さんは香苗に一瞥をして、またものすごい速度で駆けて出していってどこかに消えてしまった。


 香苗は、少しだけ呆然として――


「早く逃げないと」


 裸足のまま、混沌が支配する街をあてもなく逃げ出し始めた。

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