第16話 違和感・疑問
「はぁ……はぁ……」
一心不乱に前に向かって走り続けた文子はようやく体力の限界を迎えて立ち止まった。全速力で走ったのなんて久しぶりなので、足がプルプルと震えている。ふらついて転びそうになるが、それにはなんとか耐えた。
息を整え、それから考える。
先ほど見たあり得ない光景のことを。
あれは一体なんだったのだろう?
巨大なクモのような怪物。そして、あれと戦っていた青年。
どう考えたって現実とは思えない。
しかし、文子の目の前で起こったあの光景を夢と断じるにはあまりにもリアルすぎた。
ここから、あの青年がいまも戦っているであろう場所はそれほど遠くないはずだ。だけど、その音は一切聞こえてこない。あれだけの轟音と閃光をまき散らして戦っていたはずなのに、少し離れただけでいつも通り静寂に包まれた夜の街が広がっていた。
文子は街を見渡した。
街はいつもの様相を取り戻している。静謐に覆われ、頼りない街灯が転々と連なるどこにでもありそうな夜の住宅街。あそこにあった黒い水や至るところに付着していた黒い塊も、上空に浮かぶ黒い球体もなにもない。やはり、あの場だけがおかしかったのだろうか?
ぞわり、と背中を撫でられるような気配がした。ハッとして文子は背後を振り向く。
だが、そこにはなにもない。空虚な夜の街が広がっているだけである。なにかいるようには思えなかった。
あの怪物と戦っていた彼は大丈夫なのだろうか?
なにが起こったのがわからなかったせいか、彼がどんな顔をしていたのかまったく思い出せないけれど、自分と同年代の男子だったのは確かである。
彼を置いて逃げてしまって本当によかったのだろうか? あそこにいたところで自分になにかできたわけではないのだけど、それでも気がかりなのは事実だ。だって、彼が戦っていたのは――
あのクモみたいな怪物のことを思い出して、いままで忘れていた恐怖心が湧き上がってきた。
あれは一体なんだ? 生物のように見えたけど、どういうわけなのか生物とはまったく思えなかった。
いや、そもそも本当にクモみたいな形だったのかどうかさえあやふやだ。
これは、なにか知ってはいけないことなのではないだろうか? 文子の本能はそれを察知するが、記憶に焼きついてしまったあの怪物の映像は頭から離れてくれない。いけないとわかっているのに、ついあれのことを考えてしまう。
そんなことを考えていると、なんでもない夜の街からあれと似た怪物が出てくるような気がして――
「早く……帰ろう」
文子はそっと一人で呟く。
だけど――
家に入ったら本当に大丈夫なのか? あれは変質者ですらない怪物だ。そんなものが、襲う相手が家に逃げたからといって見逃してくれるだろうか?
見逃してくれるはずがない。
扉を破壊し、家に侵入して――
――駄目だ。そんなこと考えてはいけない。
しかし、一度湧き上がってしまった考えを消すことはできなかった。
自宅に帰っても大丈夫でないのなら一体どうすればいいのだろう?
警察は駄目だ。文子は襲われたのは変質者ではない。生物とすら思えない怪物である。そんなものに襲われました、なんて警察に言ったところでまともに相手してくれないのは明らかだ。
どうしよう。
家に帰っても自分一人だ。あんなものに襲われたあとでは、一人でこの夜をやり過ごすことなんてできない。怖い。誰か、そばにいてほしい。いままで独り暮らしをしていて、そんなことなんて思ったこと一度もなかったのに――
「文子?」
背後からよく知っている声が聞こえて、文子は安堵とともに振り向く。そこにいたのは親友の大河であった。
拭いきれないほど大きくなった恐怖が崩れていく。
「なにしてるのこんなところで?」
「大河!」
気がつくと文子は大河に抱きついていた。大河は少し驚いたような素振りを見せて――
「どうしたの?」
と、いつも通りの調子でいきなり抱きついた文子に問い返してくる。
大河の体温と匂いで心がいくばくか落ち着いたところで――
「あの……えっと」
と、先ほど自分が見たものを彼女の言っていいものか疑問になって躊躇してしまった。
なんといっても、自分が先ほど見たものはとても現実とは思えないものだ。そんなものを見たなんて言ったら、笑われるかもしれない。
でも、この身に沁み込んでしまった恐怖を拭うには、黙っているわけにはいかなかった。
「あのね、笑わないでほしいんだけど、聞いてくれる?」
「いいけど。どうしたのさっきから。私に遠慮することなんてないでしょ?」
「そ、そうだけど」
「じゃ、言ってみ。どんなおかしなこと言ったって笑ったりしないからさ」
「うん。それじゃあ――」
文子はそれから、バイト先を出たあとに自分が見たものを大河に話した。
変貌した夜の街のこと。
あのクモみたいな怪物のこと。
そいつと戦っていた青年のこと。
それらを、たどたどしくも話せるだけ話した。
聞き終えて、大河は――
「ああ、そっちに行ってたのか」
「大河?」
「ああ。別になんでもない。気にしないで。街が黒い水に覆われたり、空中に黒い球体が浮かんでいたり、クモみたいな怪物に襲われた、ねえ」
大河は、自分の言葉をかみしめるように頷いていた。
彼女のその様子は、いままで一年半近くになる付き合いでは一度も見たことのないもののように思えて――
「わたし、どこかおかしくなっちゃったのかな?」
「そんなことはないんじゃない。私もあなたが見たものとは違うけれど――似たものを見たことあるもの」
「ほ、ホント?」
思いがけない言葉を聞いて、文子は声を荒らげてしまった。
「うん。私が見たのはクモじゃなくて、犬とか狼みたいな感じだったけど」
「ど、どこで?」
「こことは逆の、大学がある方向かしら。あんたと同じく夜にそれを見たことあるわ。明らかにおかしいものが歩いているのに、誰も気にしていないから、おかしいなとは思ったんだけど。それにしても文子もそれを見たとは思わなかった」
大河は薄い笑みを見せてそう言った。その笑みが、異様なほど妖艶に見えて――
「ねえ、一つ訊きたいんだけど」
「な、なに?」
「その怪物と戦っていた彼、あなたになにかしなかった?」
「なにかって、なにもされてない、と思うけど」
文子がそう言うと、「そ、ならいいわ」と軽く流した。その様子を――少し不審に思ったけれど、文子はそれを口に出すことはなかった。
「あの、それでちょっとお願いがあるんだけど」
「なに? 私のうちに泊まりたいの? それともそっちの家に泊っていけってこと?」
大河はすぐにこちらが言いたかったことを把握する。心から、ありがたいと思った。
「ここからだと、大河の家の方が近いから泊まらせて。一人じゃその、怖くて」
「ま、そりゃそうよね。そんなものを見ちゃあ」
「ありがと」
「でもあたし、あしたは一限からだから、そのときに一緒に出てもらうけど」
「夜を過ごせればいいから、それで大丈夫」
「そ。じゃ行こっか。また変なの出てくると困るし」
と大河は言って、文子の手を取った。
そのまま、文子は大河に手を引かれたまま、夜の街を歩いていった。
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