第6話 Re:ゼロから始める自分生活

 自分が自分ではない別の誰かとして認識されているという事実は、想像以上に炎司のことを打ちのめした。


 自分でない名で呼ばれていると、アイデンティティが揺らいでくるのだ。果たして自分は誰なのか、自分は、『火村炎司ひむらえんじ』としての記憶を持つ自分は本当にそこにいるのかとさえ思えてくる。


 二十年と少し生きてきた炎司のアイデンティティが常に揺らいでいる――それはある意味では自分が殺されたときを思い出してしまったときよりもきつい。


 炎司は大学の中を一人で歩いていた。今日はちょうど授業が休講になったので、昼休みが終わるまで時間に空きができたのだ。


 歩きながら、自分はどうしたらいいのだと自問していた。


 自分は、本来ここにいるはずだった自分と限りなく似た存在である吉田何某を踏みにじってここにいる。昨日から何度もそれについて考えてみたけれど、やっぱりそれが正しいこととは思えない。


 でも――

 死にたくないという思いがあるのもまた事実だった。

 なんて自分勝手なんだろう――そう思う。


 人は生きるのには少なからず誰かのことを踏みにじるものであることは炎司にだってわかっている。


『悩む必要もあるまい。お前がちゃんとやることをやれば吉田何某は元通りだ』


 頭の中に響くのは昨日から同居することになったノヴァの声。


 昨日の夜、姿を消したあとは、姿を現さずにこうやって話しかけてくる。なにがどうなってこんなことが起こっているのかまるでわからないが、『そういうもの』と理解するのにはそれほど時間はかからなかった。やはり人間は慣れる生き物であるらしい。


 炎司はまわりを流し見る。まわりに学生の姿がないのを確認してからノヴァの声に応えた。


「でもさ、そんなこと言ったって……俺が吉田さんを殺したことに変わりないじゃないか。俺がいる間、吉田さんはどうなっているんだよ?」


『上書きされたんだから消えてるに決まってるだろ。まあ、その記憶を掘り起こして思い出すこともできるが、別人の記憶を必要もないのに思い出すのはあまりおすすめできんな。そもそも、この吉田はお前と限りなく似た経歴と容姿を持つ人間だぞ。お前が持っている記憶とたいして変わらん。思い出すメリットがない』


 炎司の言葉をノヴァは容赦なく切って捨てる。ノヴァにとって、吉田何某に炎司を上書きしたことなど気に留めていないのだろう。


 それでもやっぱり炎司は気になってしまうのだ。

 別世界に生きていた自分とも言える吉田何某のことが――


 ふと気がつくと、二人の学生がこちらに向かって歩いてきたのが見えて、そそくさと炎司は居住まいを正した。ノヴァの姿は自分以外には見えないので、彼女と話しているときは他の誰かから見れば不審なこのこのうえないからだ。しかし、炎司が話していることになど気づいていないのか、二人の学生はこちらのことを気に留めている様子はない。それに少しだけ安心して、炎司は彼らの横を通り過ぎていく。


 そのとき――

 耳に入った彼らの話――


 最近ニュースでも取り上げられている、炎司が暮らす黒羽市で発生している急死事件についてだった。


 それが起こり始めたのは一ヶ月ほど前のことらしい。らしい、というのは、自分が生きていた世界ではそのような事件など起こっていなかったからだ。なんの持病もない人がいきなり苦しみ出して――そのまま急死するという話だ。原因は不明。名前を書かれたら死ぬノートにでも名前を書かれたのかと思うくらいである。炎司の身に起こったことを考えれば、名前が書かれたら死ぬノートだってあってもおかしくないだろう。


 こちらの世界に来てからまだ半日ほどしか経過していないが、この街ではなにかおかしなことが起こっていることはなんとなく理解できた。その怪死事件と、自分がやらねばならないことと関係があるのかどうかはわからないけれど。


 そして――


 この吉田何某は自分と限りなく似た経歴と容姿を持っているが、自分とはいくつか違う点がある。


 まず一つ。吉田何某はアルバイトをしていない。これについてはあまり気にする必要はないだろう。ノヴァの話では『裏側の住人』と戦わなければならないのは夜だと言っていたから、アルバイトをしていたら色々と不都合がある。


 それにもう一つ、吉田何某には彼女がいる。はっきりいって、これには頭を抱えざるを得ない。


 なにしろ、相手は自分のことを吉田何某だと思っている。そのうえ炎司は、吉田何某ではない。別世界に生きている限りなく似た人物であったとしても、炎司には吉田何某としての記憶は一切なく、知らない他人を演じる技術を持っているわけではないのだ。


 とは言っても、自分勝手な理由で「別れてくれ」と言えるほど炎司は無神経ではなかった。


 どうにかして距離を遠ざけたいと思うのだが、彼氏彼女の関係となると、それも難しい。


 本当にどうしたものだろう、と思いながら歩いていると――


「あ」


 と思わず声が出てしまった。


 炎司の前から歩いてきたのは二人の女子学生。一人は黒髪ロングで眼鏡をかけた娘。もう一人は髪を短くカットしている、小柄な娘だ。彼女たちのことは当然知っている。こちらに来る前の世界でも関係があったからだ。


 金元文子と木戸大河。


 前の世界と同じく炎司は彼女たちを同じゼミを履修している。ただ、違うのは―― 


 金元文子と吉田何某が彼氏彼女の関係にあることだ。


「こんなところでなにしてるの? 授業は?」


「……いや、その、授業が休講になってさ。暇を持て余してて」


「ふうん。サボってるわけじゃないんだね」


「そっちこそ遅刻じゃないの? もう授業始まってる時間だし」


「わたしたちは早めにきて別の授業の課題をやりに来たの。ね、大河」


 文子はそう隣を歩く大河に言うと、小柄な彼女は小さく頷いた。


 この二人の関係も元の世界とそれほど変わりはない。いまのような光景は何度も見てきたはずなのに、何故か、自分が文子と付き合っていた、というだけでなにをどうしたらいいのかわからなくなってくる。


「どうしたの?」


 文子はこちらの様子を察知したのか、少し心配そうな顔をして首を傾げる。


「あの、ちょっと最近ばたばたしててさ、夜とか遊びに行ったりできなさそうなんだけど、いいかな?」


「……まあ別にいいけど。忙しいのなら無理につき合わせるの悪いし。でもどうしていきなり?」


「め、免許を取りに行こうと思って、バイトを始めたんだ。短期の、や、やつだからすぐに収まると、思うんだけど……」


 炎司はしどろもどろになりながらもいまさっき口から出てきた嘘を述べる。必要とはいえ、よく知っている相手に嘘をつくのは心が痛かった。


「……ホント?」


 怪訝そうな目を向けて問い返してくる文子。それを見て、ますます炎司の焦りは強くなっていく。


「ほ、本当だよ。だからその、ごめん……」


「……ま、いいよ。マサくんなら変なことしないだろうし。それじゃ、バイトが忙しくなくなったらどこかに出かけようよ」


「ああ、うん。そうだね」


 マサくん――そんな風に呼ばれると、自分は火村炎司として認識されていないのだという現実が突きつけられて、つらい気持ちになる。


「……それじゃ、わたしたちは課題をやりにいくから。じゃあね」


 そう言って、文子と大河は離れていく。


 しばらくその場に立ったまま、彼女たちの姿が角を折れて見えなくなったのを確認してから炎司は彼女らが歩いて行った方向とは逆方向に歩き出した。


 本当にどうしたらいいんだろう。歩きながら、吉田何某が付き合っている相手――金元文子のことを考えると、憂鬱になって自然とため息が出た。


『気をつけた方がいい』


 十メートルほど進んだところで突如として聞こえてくるノヴァの声。


「なにが?」


『あの娘だ。お前、あんな奴と同級生なのか?』


「そうだけど、なにかおかしなことでもあった?」


『気づかなかったのかお前――まあいい。なにか起こりそうならあとで説明してやる。あの娘のことは忘れるなよ』


「忘れないよ。だって知り合いだし」


『そういうことではない』


「?」


 ノヴァがなにを言っているのかよくわからなくて、炎司は一人で首を傾げた。


『……わかっていると思うが、今日の夜から動くぞ』


 ノヴァの緊迫した調子の言葉を聞いて、炎司の心音は爆音を立てて跳ね上がった。

 戦う。あの名状しがたいモザイクのような、生物とは思えない『なにか』と自分は戦う運命にあるのだ。


 本当に、そんなこと自分にできるのだろうか。やっぱりできるとは思えなくて――


『不安なのはわかる。だが、必要以上に恐れることはない。お前には適性がある。なにしろ私に認められたのだ。信じろ』


 強い確信をもって言われてしまって、炎司は「うん」と頷いたけれど、やはり、自分にそんなことができるなんてまったく思えなかった。

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