第98話 常識が壊れた世界
夜空を照らす青い光が見えた。
眼球が歪むほどの衝撃を感じた。
黒くて巨大な禍々しいものが見えた。
黒い水が、街を呑み込んでいる。
わたしは、遠くで行われているであろう、彼の戦いを見届けようと思った。
だけど、それはわたしには見えなかった。
彼が繰り広げていた戦いは、ただの人間でしかないわたしの目に追えるものではなかったからだ。
それでも、音と衝撃と光は感じられた。
どうして、これほど苛烈な戦いを行っても大丈夫なのだろう、と思ったけど、きっとなにかわたしにはわからない方法でうまく偽装しているのだろう。そうでなければ、あんな激しいことを、街中でできるはずもない。
ふと、そこで気になった。
もし、不思議な力によって偽装されているのなら、どうしてわたしにはそれが効いていないのだろう? 彼の正体を、知ってしまったから、だろうか?
考えてみても、よくわからない。
大河があの男にさらわれてから、まだ二時間も経っていないのに、色々なことが多く起こりすぎた。わたしの理解を超えた出来事が、あまりにも多く起こった。
きっとわたしは、今日のこの出来事を一生忘れることはないだろう。いや、もしかしたらこれほどまで鮮烈に刻まれてしまったら、死んだあとも覚えているかもしれない。これほど理解を超えたことが現実にあるのなら、死後の世界だってどこかにあるのかとも思える。
わたしは横を見た。
大河はまだ目を覚まさない。あの男に、なにか薬でも盛られたのだろうか? 外傷はとくにないけれど、わたしの理解を超えたことをあの男がやっていたとしても、不思議ではない。それを思うと、恐ろしくなった。何故か、いつか夢で見たように、大河がまったく違う人間になってしまうのではないかと思えたからだ。そんなこと、起こるわけがない、そう思うけれど――
今日起こった出来事を考えれば、なにが起こっても不思議ではない。わたしはもう、常識の世界を一歩踏み越えてしまったのだ。それは、限りなく遠くまで行ってしまう一歩。踏みだしたら、二度と戻ることのできない事象の境界面を超えてしまったのだと思う。
それを考えると、恐ろしくなった。
いままでフィクションの世界にしかないはずの絵空事が現実に存在することに。
わたしが知っている現実が、とても薄い紙のようなものでしか仕切られていない事実に。
わたしは、どうすればいいのだろう。
こんなことを知ってしまって。
常識を完全に破壊されてしまって。
わたしは、これまで通り生きていけるのだろうか?
生きていける自信はまったくなかった。あれほどまで鮮烈に、記憶に刻まれてしまったら、わたしのようなどこにでもいる人間に太刀打ちできるはずもない。
そんなわたしを、彼は守ってくれるだろうか? そう思って、わたしは再び空を見上げた。
壮絶な光も音も衝撃も、聞こえなくなっていた。戦いが、終わったのだろうか? じゃあ、彼はどうなったのだろう?
嫌な予感がわたしの中に過ぎった。
もしかしたら、彼が負けてしまったのではないかという予感。
これだけわけのわからないことが起こったのだ。彼が力及ばず敗北してしまうことだって、あり得ないことではないだろう。
嫌だ。その考えを振り切るために、わたしは首を振る。
彼が、負けるはずがない。この街を襲った常識の外側の出来事から救うために立ち上がった彼が負けるなんて――
でも、いくらそう思っても――
負けてしまったのではないか、という不安を拭い去ることはできない。
「どうしたら……いいんだろ」
わたしは、情けなく呟いた。そうすることしか、できなかったから。
もう一度、大河を見る。大河はまだ、目を覚まさない。もしかして、このままずっと目を覚まさないんじゃないかと思った。あの男なら、それくらいのことをやってもおかしくない。
けれど、わたしにはなにもできない。大河の目を覚まさせることも、この街を襲った常識外の出来事から救うことも、あのイカレた男を倒すことも、なにも。
わたしは本当に無力だ。ただ、このおかしな状況を見ていることしかできない。恐れることしかできない。なんて、無様なのだろう。
どうしてこんなことになってしまったのだろう。あの時、彼についていくことをしなければ、私はこの事実を知ることはなかったのだろうか?
だけど、どうすることもできない。無力な私には、過去に戻ることなんてできないのだから。
その時――
背後で音が聞こえた。わたしは、背後を振り向く。そこには――
彼の姿があった。彼の姿を見て、わたしは安堵する。彼は、あのイカレた男に、この街を襲った常識外の出来事に勝ったのだ。
でも、その安堵はすぐに消えた。
彼は、明らかに異常だったからだ。傷らしきものは見えなかったけれど、満身創痍なのは誰が見ても明らかで――
着地した彼は、ゆっくりとこちらに近づいてくる。
「だ、大丈夫?」
うん、と彼は弱々しく答えると、がっくりと膝が折れた。わたしは手を伸ばして、彼の手に触れると――
「……っ」
熱した石を触った時のような熱が感じられて、伸ばした手を引っ込めてしまった。
「ごめん、ちょっと身体に熱がこもってるみたいで」
肩で息をしながら、彼はなんとか言葉を紡いだ。きっと、彼はこれほどまで消耗するほど激しく戦ったのだろう。なんとかしてあげたい、と思ったけれど、わたしにできることはなにもなかった。
「きみに、俺のことを説明しないと……」
よろよろとよろめきながら彼は立ち上がる。覚束ない足取りだった。そもそも、立っていることもできないくらい消耗しているのだろう。
「いいよ、そんなの!」
わたしは叫んだ。彼の、痛々しい姿を見ていることがつらすぎて。
「いま、そんなことしなくてもいい。話なんてあとでもできるじゃない! お願いだから、いまは休んでよ、火村くん……」
「……そうだね。わるかった」
彼は少しだけ悲しそうな顔をして、よろめきながら歩を進め、大河のもとへと向かった。
「木戸は、まだ目を覚まさないの?」
「うん。でも、どうしたらいいのかわからなくて……」
「じゃあ」
彼はそう言って、大河に手を伸ばす。手の甲に触れると、大河が光に包まれた。それは、先ほどみた光とは違う、優しいものだった。
「奴がなにをやったのかはわからないけれど、木戸の身体を浄化したから、そのうち目を覚ますと思うけど――」
そう言って、彼は大河に視線を向けて考える。なにか、あるのだろうかと思ったけれど、聞くことはできなかった。
「それじゃあ、家まで送るよ。このビルに入るわけにはいかないし」
彼はそう言い、倒れている大河を抱きかかえた。よろよろと歩いてわたしに近づいてくる。
「いや、下におろしてくれるだけでいいよ。そんな無理はさせられない。もう限界でしょ、火村くん」
「……そうだね。じゃあ、そうしよう。俺の肩に捕まって」
わたしは、彼の肩にしがみついた。すると、彼の身体が浮上する。そして、そのままゆっくり地面へと着地する。アメコミヒーローみたいに空を飛ぶのは、やっぱり恐ろしかった。
「大河を背負わせて。わたしが家まで連れていくから」
わたしがそう言うと、彼はわたしに大河を背負わせてくれた。大河の体温が感じられて少しだけ安心できた。
「……それじゃあ、また」
彼はそう言うと、夜空に飛び立った。異常が過ぎ去った夜空は暗く、その姿はすぐに見えなくなった。
わたしは、大河を背負って道を歩いていく。
「ん……」
大河の声が聞こえた。どうやら、目を覚ましたらしい。
「大河、大丈夫?」
「大丈夫だけど……どうして私はこんなところに――」
自分の身になにが起こったのか、彼女はわかっていないようだった。
「驚かないで欲しいんだけど、家に押し入り強盗がやってきて、さらわれて、それで色んな人に協力してもらって助けてくれたの」
知らないのであれば本当のことを言うべきではないと思い、嘘をまじえて事実をぼかして言った。騙しているような気がして、心が痛かった。
「そんなことがあったから、今日は家にはちょっと帰れないだろうから、わたしの家に泊まっていってほしいな」
「……なにがなんなのかよくわからないけれど、文子はそう言うのなら、まあ」
大河と言葉を交わして、彼女は彼女のままであることが確認できてさらに安心する。
「ねえ、もう歩けるから下ろしてよ。人がいなくても、ちょっと恥ずかしいし」
そう言われて、わたしは大河を下ろした。それからわたしは、大河の手を握る。彼女の手は少しだけ冷たかった。
「……どうしたの?」
「ちょっと怖いことがあって、不安だから手を握っててもいい?」
「うん」
そう言って、わたしたちは夜の道を進んでいった。
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