第91話 救助

 坂本正親は黒い濁流に流されかけていた。


 一体、街ではなにが起こっているのか。普段通り、帰路についていたら、いきなり黒い水が流れ出してくるなんて異常だ。なのに、自分以外の人間はそれに気づいてもいないようだった。なにがどうなっているのだろう。まるでわけがわからない。


 坂本は、フェンスにつかまって必死に黒い濁流に流されまいと耐えていた。だが、いつまでそうしていられるだろう。自分を襲う濁流の強さは留まることを知らない。もう腕の力も限界に近づいている。なんとか、黒い水の中から上がりたい、のだが――


 この黒い水はどういうわけか身体が浮かばない。身体が浮かばないから、泳いで身体を浮上させるのも不可能だ。人間はずっと水中に潜っていられないのは当然の摂理である。だから、坂本はフェンスやブロック塀、住宅の壁などを利用してなんとか水面まで浮上したのだが――


 あともう少し頑張れば、この黒い水の名から脱出することができる、というところまできて、荒れ狂う濁流に押されてなかなか上がれずにいた。


「くそ……」


 坂本は弱々しい声で呟いた。


 こんな、わけのわからないものに巻き込まれて死にたくはない。やりたいことや、やってないことなんていくらでもあるのだ。なんとかして、この黒い水の中から出ないと。そう思うのだが、ここまで浮上するのに体力を使い切ってしまった。あともう少し、もう少しなのに、身体が動いてくれない。疲れ切ったこの身体でできるのは、この濁流に流されまいと耐えることだけだ。それだって、いつまでも続けていられない。


「嫌だ……」


 死にたくない。その気持ちがさらに強まった。なにかしがみついている自分の腕も足もプルプルと震えていた。ここにしがみついているのも限界だ。でも、これを放してしまったら、自分は間違いなく死ぬことになる。そんなの嫌だ。誰か、誰か俺のことを助けてくれ――


 しかし――


 プルプルと痙攣する坂本の腕は、坂本の思いに反してしがみついていたなにかを放してしまう。


 自分の手が離れると同時に、坂本は一気に黒い濁流に押し流された。そして、身体が沈んでいく。まるで、ゆっくりと落下しているような感じだった。息が苦しい。黒い水の中はまるで宇宙空間のように暗黒に包まれていた。視界が完全に閉ざされるのは恐ろしかった。だが、それ以上に恐ろしいのは、もう自分はここから脱出できないこと。自分は、このまま濁流に押し流され、溺死してしまうのだ――


 坂本の中は諦めに支配される。それなのに、死への恐怖は消えてくれなかった。こんな、理不尽なことに巻き込まれて死にたくなかった。疲れ切った手を伸ばす。濁流の中では腕を伸ばすだけでも精一杯だった。腕を伸ばせば、もしかしたら、誰かが手を差し伸べてくれるのではないかと思ったから――


 呼吸を止めているのが限界になった。身体の中に黒い水が入ってきて、さらに苦しくなる。ああ、自分はこのまま死んでしまうんだと坂本は思った。坂本は目を閉じた。そうすれば、少しでも苦しさから逃れられると思ったから。


 坂本が死を覚悟した、その時――


 急に身体が浮上した。当然、坂本が身体を動かしたわけではない。そもそも、この黒い水の中では身体は浮かばないのだ。気がつくと、自分の身体は宙に浮かんでいる。感じられたのは誰かの体温。坂本のことを何者かが支えている。坂本は思い切り咳きこんで水を吐いた。一体、なにが起こって――


 数秒、宙を舞ったあと、坂本の身体は近くのビルの屋上に降ろされた。一体、誰が自分を助けてくれたのだろう。坂本はあたりを見回した。しかし、誰の姿も見えない。


「助かった、のか……?」


 猛烈な疲労感に襲われる腕をなんとか動かして、自分の頬をつねってみた。軽い痛みを感じる。夢ではない、らしい。自分が助かったことが確認できて、坂本はそのままへたり込む。どうせ、この状態では家にも帰れないし、この状況がどうにかなるまでここで休憩していようと思った。



「なんなのよ、これ……」


 黒田雅代はいま自分の目の前で起こっている状況に困惑するしかなかった。街が、黒い水に覆われている。そして、空中に見えるのは、巨大な黒い球状のもの。なにか、この街でとんでもないことが起こっていることは理解できた。


 雅代は自分のマンションに着き、鍵を開けて自宅へ帰ろうとしたその時、大きな音を耳にして、黒い濁流が迫ってくるのが見えて、一目散に屋上にまで逃げてきたのだ。その判断は間違っていなかったと思う。もし、あれに気づかずそのまま部屋に入っていたとしたら、自分は間違いなく流されていただろう。まさに間一髪だったと言える。


 安堵したのもつかの間、今度はこれからどうすればいいのかと思った。街がこんな状態になっていては、部屋にも戻れない。というか、こんな事態が起こっているのに、どうして街が騒がしくなっていないのだろう。これほどのことが起こっているのに、誰も気づかないなんてあり得ないはずだ。フェンスから下を覗き込んでみる。黒い水に覆われた下は、なにも見えない。暗黒の世界だった。


 そこで雅代はふと気づく。


 これだけの濁流に襲われているにもかかわらず、どの建物も流されていないことに。


 やっぱり、これはただの災害ではないのだ。雅代はそんな疑念を持った。しかし、ただのOLでしかない自分はこの事態をどうすることもできない。雅代だって子供ではないから、自分が無力であることくらいは理解しているが、こうやって現実を突きつけられるとやるせない気持ちになった。


 雅代がやるせない気持ちになっていると、背後からぬちゃぬちゃという湿っぽい音が聞こえた。雅代は背後を振り向く。そこには、タコのように見える『なにか』がいた。それは、自分よりも大きかった。雅代は悲鳴を洩らす。


 なんだあれはと雅代は思った。自分の目の前にいるタコのような『なにか』はどう考えても怪物としか思えなかった。そして、そいつが自分に狙いをつけているのは明らかだった。ぬちゃぬちゃと音を立てながら、ゆっくりと、こちらをあざ笑うかのように近づいてくる。雅代は、タコのような『なにか』から視線を離さずに、後ろへ後ずさる。だが、すぐフェンスへとぶつかって逃げられなくなった。


 あの怪物から逃げるために、この黒い濁流の中に飛び込むべきだろうか? いや、駄目だ。あんな速い流れの中に飛び込んだら、十秒と経たずに流されてしまうだろう。いくらなんでも危険すぎる。だけど、いま自分の目の前にいる怪物も同じくらい危険に思えた。八方塞がり。マンションの屋上はだだっぴろい空間だ。逃げられそうな場所など、どこにもない。


 タコの怪物は湿っぽい音を立ててさらに近づいてくる。この世のものとは思えない、複雑な異臭が香ってきた。駄目だ。私は、なにもできないまま、あの怪物に食べられて死んでしまうんだ――


 タコの怪物が触手を伸ばしてきた。ぬるりとした不快な感触が腕に伝う。再び、悲鳴が洩れる。嫌、やめて、という言葉が出てきた。当然のことながら、タコの怪物はそれに気を止めることはない。どんどんと触手を伸ばしてくる。身体の色々なところがぬるぬるとした不快な感触に包まれていた。


 濁流の中に飛び込んで逃げればよかったと後悔した。雅代は身体を精一杯動かしてタコの怪物から逃れようとする。だが、タコの怪物の力は圧倒的で、女の自分では太刀打ちなどできるはずもない。雅代の全身が触手に包まれようとしたその時――


 タコの怪物になにかが衝突した。響く轟音。そして、眼球が歪むような衝撃。自分を襲っていた触手が引いていく。なにが、起こったのだろうと、雅代は正面を見据えた。そこには、青い光に包まれた男が見えた。自分よりも若い青年のように見えたが、それ以上のことはわからない。だが、彼が自分を助けてくれたのは間違いなかった。突然、現れた青年は、タコの怪物に立ち向かっていって――


 雅代が、理解する間もなく、それを倒してしまった。

 それから、青年は雅代のことを何秒か見つめたあと、宙に飛び去っていって――

 夜の闇の中に消えてしまった。


 雅代は、いま自分の目の前で行われた出来事に呆然とするしかなかった。

 でも、あの青年によって自分の命は助かったのだ。それに――


 この異常な事態に立ち向かっている人がいる。そう思うと、なんだか救われたような気持ちになった。



 いきつけの居酒屋で一杯飲んでいた林田博光はいきなり息苦しさに襲われた。だが、それも一瞬の出来事だった。息苦しさを感じたと思った時には、その息苦しさはどこかに消えてなくなっていたのだ。林田の目の前に広がっているのは見慣れた光景。自分と似たような人間が楽しそうに酒を飲みながら、食べ物をつまんでいる。異常なところはどこにもない。


「どうかしたか?」


 林田にフレンドリーに話しかけてきたのは、居酒屋のマスターだった。林田は自分でもなにが起こっているのかよくわからなくて、マスターに「いや、なんでもない」と返す。


 なんだか酒を飲む気になれなくなって、林田は会計を済ませて店を出た。


 なにか起こっているような気がしたけれど、街は普通だった。なんでもない夜の街。見慣れた光景。なのに、なにか起こっているように思えてならなかった。


「なんなんだ……ホント」


 林田はぼやいた。当然、近くには誰の姿もなかったから、答える者は誰もいない。自分の歩く音だけが聞こえた。林田は夜の街を進んでいく。


 これから、どうしようか。明日は休みだから、まだ帰るのには速い時間だ。別の店にいくか、それとも――


 そんなことを考えていると、身体が急に重くなった。それから、すぐに先ほどと同じく呼吸ができなくなる。そして、視界は暗黒に包まれた。まるで、墨汁の中に押し込められたみたいだった。林田は困惑する。すると今度は、理解できないほど大きな力によって身体が押された。すぐにバランスが取れなくなった。身体が、なにかに大きな力によって流されていることに気づいたのは、それから数秒経ってからのことだった。


 なんだ。なにが起こっている? 理解できない状況に、林田はパニックに襲われた。身体はどんどんと流され、息は苦しくなるばかりだ。しかし、圧倒的な力に襲われているせいで、林田はなにもできなかった。ただ、ひたすらに身体を流されていく。


 林田の頭の中に「死」という文字が浮かんだ。まさか、とは思う。だけど、こんなものに襲われてしまったら――


 そこまで考えたところで――


 身体がいきなり宙に浮かんだ。林田は上を見る。自分よりひと回りは若いと思われる青年が自分のことを抱えていた。これほど近い距離にいるのに、どういうわけ顔がわからなかった。


「大丈夫ですか?」


 青年に話しかけられ、林田は「ああ、助かったよ」と返す。


 そんなことを言ったところで、林田は自分が空を飛んでいることに気づいた。林田はもう一度上を見る。青年は、ヘリコプターかなにかでつるされているわけではなかった。単体で空を飛んでいる。林田は安堵と同時に困惑に襲われた。


 青年は林田を抱えたまま十秒ほど宙を駆けて、近場の建物の屋上に着地する。降ろされた林田は青年を見た。やはり、顔はわからない。


「あ、あんたは……」


「すみませんが、それに答えている時間はありません」


 青年は少し残念そうにそう言って、再び宙へ飛び立った。一人取り残された林田は、茫然と彼の姿を見送っていた。


 一体、なにが起こったのだろう。わけがわからないことだらけだったが、自分が助かったことだけは理解できた。


「まあいいか。なんだかわからんが、面白そうなネタができた」


 林田はそう呟き、上空を見上げた。青年はもうどこかに飛び去ってしまったらしく、その姿は見えなかった。

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