第26話 暴れ出す混沌

 佐藤環さとうたまきはなにか大きな音が聞こえた気がして目を覚ました。


「どうした?」


 と、まだ寝ていなかったのか、彼氏が気だるげな声で訊いてくる。


「なにか、音が聞こえた気がして」


「音? 音なんてよく車が通るじゃないか」


 環が住むマンションは大通りに近い場所にある。なので、深夜の遅い時間でもない限り車の音は絶え間なく聞こえている環境だ。


 しかし――


「ううん。車の音じゃなくて、なんだろ、なにかうなるような声が――」


「ははは。なに言ってんだよ。ここは東京だぜ。気のせいだろ。野良犬すらいないんだしよ」


 環が心配そうな声を出したせいか、彼氏は軽く笑って冗談を言う。


「うん……それは、わかってるんだけど――」


 先ほど聞こえたあれは、野良犬だったとは思えない。


 環の実家はかなりの田舎にあるので、野生動物の鳴き声がよく聞こえる環境にあった。だが、先ほど聞こえたあれは、どう考えても犬だとか狐だとかとは思えない。なんといえばいいのかわからないけれど、もっと異質な存在のような――


「なあ、起きたんならもう一回やろうぜ」


 と、彼氏はこちらのことなどまったく気にも留めず、そんなことを言ってきた。


「さっきしたばっかりじゃない。またシャワー浴びるの面倒よ」


 環は少しだけ嫌そうな顔をする。


 彼のことは嫌いではない。だけど、少しばかり性欲を持て余しているところがあってたまについていけないときがあったりする。とはいっても、彼はそれなりに女慣れしているので、こちらとしてもいい気持ちにさせてくれるのであるが。


「なんだよそんなつれないこと言うなよ。起きたってやることくらいそれしかないじゃん。夜なんだし」


「それしかって……他にあるでしょさすがに」


 そんなことを言ったところで、唸る声がさらに近づいてきたような気がして、環そっと背中に力が入った。


「なんだ……」


 いまのは彼にも聞こえたらしい。そして、それが野良犬のものではないことを理解したことも読みとれた。


 環と彼氏は少しだけお互いの顔を見つめ合う。そこには、濡れ場のときに満たされるようなものはなにもなく、ただ緊張と少しの恐怖があった。


「ちょっと外見てみるわ」


 彼はベッドから下りて、服も着ないまま窓に近づいて外を眺める。


「な……」


 窓を覗き込んだ彼の声には驚愕に満ちていた。


「どうしたの? なにかいた?」


「なにかっていうか、その……やべえ」


「え?」


 環も窓に近づいていく。それから下を覗き込むと――


 そこに広がっていたのは理解できない光景だった。


 街は暗黒の濁流に呑まれつつあり、そこから――


 サメのように見える『なにか』がこちらに向かって飛び出してきて――


 それはいともたやすく窓ガラスを突き破り、環と彼氏をひと呑みにして、彼女らの人生は呆気なくそこで絶たれた。



「めんどくせえなあ」


 夜の街を歩いている藤田聡ふじたさとしはそんなことをぼやく。


 彼はこれからバイトの夜勤であった。今日は休みであったのだが、本来入っていた別の人間が風邪を引いてしまったので急遽出ることになったのだ。せっかくあと少しで最高キル数の更新ができるとところだったのに、急にかかってきた電話でそれもおじゃんになってしまった。実に腹立たしい。


 とはいっても、今日風邪で欠勤した彼は、以前別のときに代わりに入ってもらったことがある。それも一回ではない。もし、休んだのが彼ではなかったのなら、適当な理由を言って聡はピンチヒッターを断っていただろう。


「ま、いいか。たいしたことしねえし、弁当もらって帰れば明日の飯は一食分浮くしな」


 それに深夜なので時給もいいし、終電が過ぎればほとんど客なんて来なくなる。バックルームで適当にスマホをいじっていても文句も言われない。


 そのとき――

 ぞわり、と背中を冷たいもので撫でられるような感触が走った。


 ハッとして足を止めて振り向く。

 しかし、そこにはなにもない。いつも見ている、夜の街だ。


「なんだ……」


 誰かにつけられているのか? いやまさか。アイドルでもなんでもない、どこにでもいる学生である自分にストーカーをするやつなどいるわけがない。そもそもここ一年、前の彼女と別れてから女とは縁がないのだ。つけられるようなトラブルも起こしたことも当然だがない。


 なのに――

 自分の背後に『なにか』がいる。そう思えてならなかった。


「いやまさか。そんなことあるわけ……」


 気のせいだ、と首を振って自分に言い聞かせて――聡は再び歩き出した。

 五メートルほど歩いたところで――


 ひたひたひた。


 と、水っぽい音が聞こえてきた。


 雨も降っていないのにそんな音が聞こえて、聞いてしまって、聡の足は無意識的に止まってしまった。


 背後になにかいる。先ほど気のせいだと断じたはずの嫌な感触は確信に変わっていた。


 どうする? 聡は自分に問いかける。

 後ろを見てはいけない気がする。そんな予感があった。


 聡は少しだけ逡巡して、後ろを見ずにそのまま駆け出した。早く逃げよう。とりあえずバイト先へ。そこまで逃げられれば――


 聡が走り出して三メートルにもならない位置で、彼は前に進めなくなった。四肢に感じられるのは異質な『なにか』の感触。聡の四肢には――自分の乏しい語彙では表現できない不気味なものが巻きついている。


「ひっ……」


 自分にまきついているそれはイカのように見えるが、明らかに違っていた。なにしろ、吸盤ではなく、ムカデみたいに細かい足がたくさんついていたからだ。それを見てしまった聡は、声にならない絶叫を上げる。


 四肢をがっちりと押さえつけられた聡はどんどんと背後に引きずられていく。全身の力を振り絞って前に逃げようとしても、聡を押さえつけている『なにか』は圧倒的な力で蹂躙する。後ろに引きずられて『なにか』に近づくたびに異臭が強くなった。その異臭はなんとも複雑で、どう表現したらいいのかわからない。だが、これを嗅いで快感だと思う奴はいないのは明らかだ。


「た、助けて……」


 やっと絞り出した声は、誰かに助けを求めるにはあまりにも小さすぎた。


 どうしてこんなことに? 俺はなにも悪いことなんてしてないのに。嫌だ死にたくない。助けて。痛い。臭い。苦しい。こんなわけのわからないことになって死ぬのなんて――


 その思いも空しく響くだけで、彼の背後にいる『なにか』は無慈悲に聡の身体を引きずっていく。


 もはや抵抗を諦めた聡は後ろを見た。


 そこには、あらゆるものを融かして形を成したかのような聡の常識では理解できない塊があって――


 聡は、「ああ、こんなものに襲われたら助かるわけないじゃないか」と絶望して、それに呑み込まれていった。



 街が騒がしい。電車を降りて駅を出た池尻次郎いけじりじろうはそんなことを思った。


 黒羽市は東京にはどこにでもあるような普通の街だ。平均的な街と違うところは、市内に大学があるから学生が多いことくらいだが、それ以外になにかあるわけではない。大学生の頃からここに住んでいるからそろそろ十年になる。いままで、こんな騒がしい空気になったことは一度もなかった。


 なんとなく空を見上げてみる。そこに広がっているのは、東京ならどこでも見れる星の光が乏しい空だ。なにかあるわけではない、と思っていたら――


 流れ星のようなものがはっきりと目に映った。


「なんだ……?」


 流れ星にしては距離が近すぎる。いや、そもそも流れ星なんて東京では滅多に見ることはできないはずだ。


 しかし、自分と同じように家路につく、あるいはどこかで飲み歩いている者たちも先ほどの流れ星のようなものが見えたらしく、次郎と同じように空を見上げていた。


 一体、なにが起こっているのだろう。朝、ここを経ったときにはなんの異常もなかったはずだが――


 すぐ近くで、なにかが潰れる音が聞こえて、次郎は斜め後ろを見た。


 そこにあったのは一メートルほどもある巨大な黒い塊。それは生き物のように音も立てずに蠢いていて、異様なくらい不気味に見えた。


 これはなんだ? そんなことを思っていると――


 あたりに響くのはなにかが潰れる音の連鎖。音程もなにもなく、ただ無秩序に不愉快な音があたりを満たしていく。気がつくと、至るところに黒い塊が落ちていた。数えるのも面倒になるくらいの数だ。


「た、助けてくれえ!」


 そんな声が聞こえて、次郎はそちらを見る。


 そこには、落ちてきた黒い塊の下敷きになっている若い男がいた。次郎は「大丈夫ですか」と言って近づいていく。


「うっ……」


 その黒い塊に近づくと、嗅いだこともない異臭が鼻を衝いた。複雑すぎて形容できない異臭である。次郎は思わず半歩後ろにすり下がった。


 だが、あれに下敷きになっている人を見捨てるわけにはいかない、そう思って、できるだけあの異臭を嗅がないようにして黒い塊の下敷きになっている男に近づいた。


「大丈夫ですか?」


「あ、ああ。だけど、自分じゃどうやっても抜けないんです。引っ張ってくれ」


「わかりました」


 と、次郎は言って、若い男の手をつかんで思い切り後ろに引っ張る。彼の身体は意外にもあっさりと抜くことができた。


「あ、ありがとう」


「いえ、大丈夫ですよ。ところで一体ここではなにが――」


 と、男に訊こうとしたそのとき――


「ぎゃああああああ!」


 誰かの絶叫が聞こえた。そちらに視線を向けると、そこには――


 先ほど落ちてきた黒い塊から、芋虫のような『なにか』が大量に出現していて、あたりにいる人に襲いかかり、丸のみにし、かみ潰していた。


 気がつくと、その光景は黒い塊が落ちてきたこの場所に至るところに広がっている。


「逃げましょう!」


 次郎が男に向かってそう言うと、男からはなにも反応が返ってこず――


「……どうしました?」


「あ……あ、あああ」


 と、彼は呻くような声を出して――


 彼の身体を突き破ってあたりを蹂躙している芋虫の小さいものが現れて――


「ぎゃ……」


 次郎は、痛みも恐怖も感じることなく、一滴の血液すらも残らずにこの世から完全に消失したのであった。

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