第14話 這いよる混沌
最近、夜に出歩くのが怖い。文子は心からそう思っていた。
どうして、こんなにも恐ろしいと思うのだろう? ついこの前まで、そこまで恐怖を抱いていたわけではなかったはずなのに。東京の夜は、地元とは違って明かりがちゃんとあるのに、それにもかかわらずとても恐ろしい。
「やっぱり、今日くらいバイト休んだ方がよかったかな……」
人通りの少ない道で文子は一人呟いた。当然、その声に反応する者は誰もいない。鈍く響く自分の足音が聞こえるだけだ。転々と置かれている、街灯を頼りに、文子は自宅までの帰路を進んでいく。
やはり、自分を取り巻く環境が変わりつつあるからだろうか?
自分の彼氏が別の『誰か』に変わってしまったのではないかという疑念。
昼間見てしまった、この世のものとは思えない街の光景。
一体、なにが起こっているのだろう。何度自問してもなにもわからないのに、違和感は強まるばかりだ。
「――――」
なにか声が聞こえた気がして、文子は後ろを振り向いた。
しかし、そこには夜の闇が広がっているだけで、誰の姿もない。
なのに、『なにか』の気配が感じられる気がした。
文子は自宅へと向かう足を心持ち速める。いま、この夜の街を歩いているのは、限りなく危険に思えたからだ。
――怖い。
バイト先を出てからずっと思っていたその感情がさらに強くなった。
どうして夜というのはこんなに怖いのだろう。もうちょっと明かりを増やしてもいいんじゃないか? そんな苛立ちを覚えた。
「あれ――」
ふと上を見上げると、二十メートルほどの高さの場所に忽然と黒い球体が浮かび上がっていた。
「なにあれ……」
黒い球体は音もなく唸っているように感じられた。そして、時おり昼間見たものと似ている黒い水のようなものが流れ出ていた。とてもではないが、それがいいものとは思えない。邪悪を凝縮したような暗黒の液体だ。
だが、何故かそれから目を離すことができない。どうしてだろう。あれはよくないものなのに、見てはいけないものだとわかっているのに――視線を外せない。まるで、自分の目が縫いつけられてしまったかのようだ。
あれは、なんだ?
そわり、と冷たいものが文子の背筋を撫でていく気がした。
昼間といい、いまといい、どうしてこんなおかしなものを見てしまうのだろう? なにがどうなっている? なにもわからない。だけど昼間見た光景も、いま宙に浮かんでいる黒い球体もいいものではないのは明らかだ。
どうしたらいい?
警察や消防に言えばそれで済むとは思えない。
というか、空中にあんなものが浮いているのに、どうして他の人たちはそれに気づいていないのだろう。ここは夜でもそれなりに人が通る道のはずなのに。それに気づかないなんて、絶対におかしい。
「――――」
また背後からなにか声が聞こえた気がして、後ろを振り向いた。しかし、相変わらず誰の姿も見られない。涼しくて、恐ろしげな夜の闇が広がっているだけだ。
早く帰らないと。その気持ちがさらに強くなった。
もう一度、宙に浮かぶ黒い球体に視線を向けたのち、速足で歩き出そう、としたそのとき――
突然、強い力に押さえつけられて、前に進むことができなくなった。
「ひっ……」
見ると、自分の足に黒い紐のようなものが無数に巻きついていた。一本一本細くて、思い切り引っ張れば自分でも千切れそうなのに、まったく千切れる気配がない。全身の力を振り絞って前に逃げようとするも、ずるずる、ずるずる、と少しずつ背後に引きずられていく。引きずられていくたびに、恐ろしい気配は加速度的に強くなる。なにがあっても、絶対に後ろを振り向いてはならない。文子の直感はそう結論づけた。
嫌だ嫌だ嫌だ。どうしてわたしがこんな目に? 死にたくない死にたくない死にたくない。早くここから逃げないと。でもどうやって? あんな強い力で引っ張られているのに? 逃げれるわけがない。でも逃げないと。後ろを振り向いてなにがいるのか確かめてみるか? いや、それだけは駄目だ。絶対に後ろを振り向いてならない。いま自分を襲っているものを認識してしまったら、わたしは――
そこまで考えたところで、ふと自分を引きずっていた力が消えた。思い切り前に進もうとしていたので、文子はそのまま転がってしまう。思い切り転んだというのに、痛みは一切感じなかった。
なにが起こったのだろう。そう思って後ろを振り向くと――
そこにいたのはクモのように見えるなにかと――
青い炎を身体に纏わせている青年の姿だった。
「……な、なに」
一度青年はこちらに視線を向けて、何故か驚いたような顔をしていた。何故だろう、そう思っているうちに――
クモのようななにかが青年に向かっていく。この世の言葉とは思えない唸り声をあげながら、アスファルトをものすごい速度で蹴り進み、飛びかかった。
だが、青年はそれを素早く回避して、彼が先ほどいた場所に飛びかかろうとしていたクモに向かって蹴りを叩き込む。入った、と思ったが、クモは空中を踏み込んで姿勢を変え、その蹴りを回避する。そして刃物のごとく鋭い爪のような前肢で青年に切りかかった。蹴りを放って体勢が崩れたところの一撃だったので、クモの青龍刀のごとき巨大な爪で青年の身体が両断されると思った文子は思わす目を閉じてしまった。
しかし、切り裂かれる音が一向に聞こえてこず、そっと目を開けると――
青年は、クモの前肢に比べたら貧弱すぎる両腕に青い炎を纏わせて、青龍刀のごとき爪を防いでいた。よかった、と文子は安堵する。
青年は、両腕でクモの爪を防ぎつつ、前蹴りを繰り出した。文子の目から見ても確かな手ごたえがある一撃のように見えたが、あのクモのようななにかには堅い外殻があるのか、空中を二メートルほど吹き飛んだところで、先ほどと同じく空中で体勢を整えて八本の肢で着地した。
「――――」
クモは聞くに堪えない醜悪な唸り声をあげる。喜んでいるようにも、怒っているようにも聞こえないその唸り声はあまりにも恐ろしい。
だけど、文子はクモと青年が繰り広げる現実とは思えない光景に目を離すことができなかった。
クモは八本の肢で地面を蹴って青年に向かって突進する。その速度は、青年も予想外だったのか回避することはできず、真正面からぶつかり合った。青年は見た目からは想像もつかないほどの力で耐えるが、少なくとも彼の数倍はあるだろうクモの重量の前ではあまりにも分が悪かった。じりじりと後ろに押されていく。やばい、と文子は思った。せっかく助けてくれたのに、このままじゃ――
すると、爆発音が聞こえ、あたりが一瞬真昼のように明るくなったかと思うと、クモは思い切り吹き飛ばされていた。その爆音と衝撃は、文子の視界がぐわりと歪むほど強力なものだった。そして同時に耳鳴りがして、あたりの音が聞こえづらくなる。
クモを吹き飛ばした青年は追い打ちをかけるべく体勢を崩しているクモに向かって突撃する。その速度は文子の目に映らないほど速かった。
接近した青年は手刀を放ち、クモの頭部らしき場所を叩き潰した。そのグロテスクは光景に文子は思わず視線を逸らして目を瞑る。耳鳴りがしていて、その音が聞こえにくくなっているのが幸いした。そのまま目を瞑っていると――
「――ぶ?」
なにか声が聞こえた。文子はそっと目を開く。耳鳴りがまだしていて、彼がなにを言ったのか聞き取れなかった。一度青年は躊躇するような素振りを見せて――
「大丈夫?」
もう一度、文子に問いかける。今度はちゃんと聞き取ることができた。
「……あ、はい。大丈夫、です」
しどろもどろになりつつも、文子は青年の言葉に応じる。
どういうわけか、青年は困ったような表情を見せていた。何故だろう――そんなことを思っていると――
「う、後ろ!」
文子は大声を上げた。
青年はその声を聞いて背後を振り向く。
黒い球体から、なにか巨大なものが落ちてきた。なにか潰れるような音が聞こえたと思ったら、それはすぐに形を成して――
そこには下半身がクモ、上半身ができの悪い人形のような形状の『なにか』が佇んでいた。
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