第27話 立ち上がれ我が相棒、と女神は言った

 なにかがねじくれる音が聞こえる。

 なにかが折れる音が聞こえる。

 なにかが潰される音が聞こえる。


 あたりを満たすのは血と暴力と狂気に彩られた夜宴。それはここにいるすべてのものを呪うかのよう。


 街の至るところで常識では考えられない事態が起こっている。身体能力が格段に向上したいまの炎司にはそれらの音を聞き分けられてしまう。


 街を襲うこの事態を起こしたのは自分なのだ。


 あのとき、余計なことを考えていなければ――

 手を鈍らせて、覚悟を決めていたのならば――


 こんな事態にはならなかったかもしれないのだ。どうしようもないその事実は、炎司えんじをどこまでも追い詰めていく。


 助けられると思っていたのに――

 力があったからできると思っていたのに――


 そんなものはすべて間違っていた。

 結局自分は、ただ流されていただけで覚悟なんてできていなかったのだ。


 殺す覚悟。

 知っている人間を殺す覚悟。

 それができていなかった。


 その覚悟ができていなかったから、街は血と暴力と狂気に支配されてしまった。こんなことを考えているいまもなお、大河によって実体を得て解き放たれた『裏側の住人』によって多くの人が殺されている。


 どうにかしなければならない。頭ではわかっているはずなのに、身体が動いてくれなかった。もう怪我は完全に治っているというのに。


 くそ、と炎司は心の中で吐き捨てた。なんでこんなことをしている。いまからでも構わない。誰か一人でも助けに行かなければならないのに。


『なにをやっている』


 響くノヴァの声。その声はいつも通り冷静なものだったけれど、緊迫感に包まれている。彼女もきっとなにが起こっているのかを把握しているのだろう。


『さっさと動け。これ以上放っておくと取り返しのつかないことになる。早く行くぞ』


「だ、だけど」


『なにか問題でもあるのか? もう戦いたくないのか?』


「違う……けど」


『ならなんだ。言ってみろ。遠慮はするな。私たちは一蓮托生だろう?』


 響くノヴァの声は、いつもより優しげなものに感じられた。


「俺のせいでこんなことになって……俺は、どうしたら……」


『…………』


 ノヴァはなにも返さない。その代わり、彼女は姿を現して――


 なにをするのだろう、と思ったところで、彼女は思い切り足を振りかぶって炎司の頬に踵を叩き込んだ。


「なっ……」


 いきなり放たれた一撃で炎司は後ろによろめいた。


『アホのくせにごちゃごちゃと余計なことばかり考えおって』


 ふん、とノヴァは明らかにいらついていた。


『確かにいま街がこんなことになったのは、お前がヘマをやらかしたからだ。それはどうしようもない事実だ。そして、過ぎてしまった事実でもある。過ぎてしまったことをどうにかできるほど、お前も私も万能ではない。


 なら、そのやらかしたヘマを帳消しにできるくらいのことはやってみせろ。お前にできるのは、しなければならないのはそれだけだ。


 この街の住人に石を投げられたくないと思うのなら、それをやってみせろ。


 確かにいまの状況は深刻だ。だが同時に、取り返しのつかない事態には至っていない。


 であるならば、やってみせろ。お前にはそれだけの力がある。覚悟を決めろ。先ほどできなかった覚悟を決めてみせろ』


 力強くそう言ったノヴァは、ぽんと炎司の胸を叩く。


 その言葉は、炎司の心を強く貫いた。


 そうだ。こんなところで心を折られている場合ではない。いまならばまだ間に合うのだ。


 間に合うのなら、やるべきことは一つ。


 大河を止める。

 いや違う。炎司は首を振る。


 大河を殺す。

 それしかない。


 あの娘は、裏側と接続されている『扉』を取り込んだのだ。殺す以外にこの事態をどうにかする手段などあるはずもない。


 ごくり、と炎司は唾を飲み込んだ。


 彼女の友人である文子からどう思われようと構わない。憎まれてもいい。殺されてもいい。それをやったとき、彼女が持つであろう自分に対する激情を受け止めるのが、義務といえる。


 正直、近しい人間に憎まれるのは嫌だ。


 だけど、嫌だ嫌だと言ったところで、この街を襲う事態は悪化していくだけだ。


 自分にできることをやろう。


 自分にできることをやって、誰か一人でも多く救えるのならそれでいいじゃないか――


『心は決まったか?』


「うん。ごめん。心配かけた」


『そうか。顔を見る限り強がりでそう言ってるわけではなさそうだ』


「なに言ってんだ。こんなの強がりに決まってるじゃないか。強がりでもしなきゃこんなことやっていられない」


『そんな口を叩けるのなら問題ないな。いくぞ。時間はあまり残されていない』


 ノヴァはそう言って姿を消した。もう少し姿を見ていたいと思ったけれど、それはただのわがままでしかないので心の中に留めておく。


「……木戸の居場所は?」


『そう急かすな。〈扉〉と融合したくらいだ。その場所はすぐにわかる』


 と、そのとき――


 大河から大量に流れ出した黒い汚濁の中から、不気味な形をした鳥のような『裏側の住人』が現れた。『裏側の住人』はこちらに目をつけて、どこの言語とも似つかない鳴き声をあげて飛びかかってくる。


 炎司は一瞬で自分の身体を戦闘のためのものへと作り変えた。飛びかかりを横に飛んで避けたのち、考える。敵は宙を浮いている。浮いている敵にはそうするべきか記憶を検索し、思い出していく。


 どん、と思い切り地面を蹴りこみ飛び上がる。二メートルほどの高さを飛んでいる『裏側の住人』に落下エネルギーを加えた手刀を叩き込んだ。鳥型の『裏側の住人』は呆気なく両断され、鼻に衝く異臭をわずかに残したまま消滅していく。飛び上がっていた炎司は地面へと降り立った。


「お取込み中のところに申し訳ないんだけど」


『……なんだ?』


「空を走ったりってできないのかな? そうすれば色々と短縮できそうなんだけど」


『恐らくできると思うぞ。過去にやった奴がいるからな。できた奴がいたのならば、お前にだってできる』


「そうか」


 短くそれだけ言って、炎司は自分のものではない記憶を思い出していく。


『なっ……』


 炎司の思索を打ち切ったのは、驚きに満ちたノヴァの声だった。


「どうしたの?」


 ただならぬ気配が感じられたので、炎司はすかさず質問する。


「あいつ……文子といったか、あの娘をさらっていきおった」

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