第12話 疑念

 彼は一体どうしてしまったのだろう? いま金元文子の中に渦巻いているのは自分の彼氏に対する疑念であった。


 わたしはどうしたらいいのだろう? そんな思いばかりが文子の中に浮かび上がってくる。


 彼――正幸はどこかおかしい。


 いや、誰に目にでもわかるようにおかしくなったのではない。見た目も性格も変わっていないはずだ。


 なのに――


 いまの彼はつい最近まで自分が知っていた正幸とは思えないのだ。なんといえばいいのだろう、まるで中身だけ別人になってしまったかのような――


 そんなことを考えて、文子は自分で自分の考えを嘲った。


 そんなことあるわけがない。中身だけ別人になってしまうなんて、マンガじゃないんだから、と自分に言い聞かせる。


 しかし――


 そうやって自分に言い聞かせても、文子の疑念は消えてくれない。どうして、こんな風に思ってしまうのだろう? もしかして、どこかおかしくなってしまったのだろうか? 確か、自分の身近な人をとてもそっくりな別人だと思い込んでしまう病気があったはずだ。まさかそれになってしまったというのか?


 だが、そのような病気にかかる原因はまったく思い浮かばない。いまでも自分は健康に暮らしている、と思う。


 さっきも家を訪ねてみたけれど、彼に対するいまの印象は変わらなかった。


 やはり別人としか思えない。


 だけど、その違和感の正体がまったくつかめない。なにがどうなっているのだろう。彼の身に、なにか自分の想像もつかないことが起きているのだろうか――


 そんなわけない、と文子は首を振って湧いてできた考えを否定した。


 それに――

 こんなこと、誰かに相談できるわけがない。


 自分の彼氏が別人になってしまったなんて相談した日には、精神科を行けと勧められてしまうだろう。自分はおかしくなんてなってないはずだ。


 住み慣れた街を歩きながら文子は考える。あたりに広がっているのはごく普通の住宅街だ。けれど、何故か普通の住宅街に見えないのは何故だろう?


 今日はもう大学には行かなくてもいいか。別に一日くらい、休んだってどうってことない。あとで知り合いに今日の分のノートを写させてもらえばいい。


 それよりも大事なのは彼のことだ。


 彼がどうしてあんなことになってしまったのか、どうして自分が彼のことを別人だと思ってしまうのか、それについて調べなくては。調べたところで、なにかわかるとは思えないけれど、なにもしないよりはいいだろう。気休めにはなるかもしれない。文子は心の中で静かに決心をする。


 そのとき――

 ぞわり、と背中をぬめぬめしたもので撫でられるような視線が感じられた。


 それを察知して、文子は背後を振り返る。


 そこにはいつも通りの見慣れた街の風景が広がっているだけだ。おかしなものはなにもない。なにもないはずだ。


 なのに――


 いつも通りに見える街のどこかに、得体のしれない『なにか』がいるように思えてならなかった。これも、最近になって、感じるようになった違和感だ。


 特に夜になるとその視線が強く感じられる。まるで、『なにか』がそこにいるかのように。いまのところ、なにも起こってはいないけれど、あまりにも頻繁に感じるので、不気味で恐ろしいのは確かだ。


 やっぱり自分は、どこかおかしくなってしまったのだろうか? 再び文子は自問した。


 なにもないところに変な気配を感じたり、自分の彼氏を別人になったと思ったり――


 はあ、と文子はため息を吐いた。


 少し疲れているのかもしれない。一週間ぐらい、大学もバイトも休んだ方がいいだろうか? それぐらいなら休んでも進級には支障ないし――


 そんなことを考えながら歩いていると――


 不意に足もとから、水の中を歩いているような感覚が伝わってきた。


 ハッとして文子は足もとを見る。


 そこには黒い水が自分の膝上まで押し寄せていた。黒い水は、まるで川が氾濫して街中を浸水させたかのように視界のどこまでも続いている。


 そのうえ――


 あたりの住宅や自販機には、黒くて不気味な塊がいたるところに付着していた。それはまるで、世界を侵食しているかのよう。音も立てにかじりつきながら、至るところを蝕んでいるように見える。


「……っ」


 あまりにも異様な光景が突如として自分の目の前に広がって、文子はなにがどうなっているのかまるで理解が追いつかなかった。


 文子はまわりを見渡してみた。


 まわりにいる人間は、この明らかな異常に誰も気づいている様子はなかった。黒い水も、至るところに付着している黒い塊もまったく気にしていない。自分以外の誰もが、黒い水も、黒い塊も存在しないかのように振る舞っている。


 なんだ、これは?

 自分の前に広がる異様な光景に、文子は息が詰まる。


 いま文子の目の前で広がっている異様な光景があまりにも恐ろしくて、後ずさりをして、壁にぶつかる。そのとき、どろりと自分の肩に、近くに付着していた黒い塊が流れ落ちてきて――


「――――」


 声にならない悲鳴を上げると同時に、その異様な光景は綺麗さっぱり消えてなくなってしまった。いつも通りの街の風景。


 いまのは、なんだ?


 あんなもの、いままで見たことがないと確信を持って言える。

 やっぱり、この街でなにか起こっているのだろうか?


 それとも――

 自分がおかしくなってしまったのか?


 どちらなのかはわからない。わからないけれど、先ほど垣間見たあれがいいものだとはとても思えなかった。


 かちかちと歯が震えた。あまりにも恐ろしくて、両足で自分の身体を支えきれなくなって、壁に寄りかかったままずるずると落ちていく。


 自分の理解を超えた『なにか』を見てしまって、心の底から恐怖を覚えた。自分が持っていたものが根底から覆されたように感じられた。


 壁に寄りかかったまましゃがみ込んでいる文子に対し、通りかかる人が怪訝そうな視線を向けてきたけれど、そんなものまったく気にならなかった。さっき見た、あれに比べれば、他人から奇異の目で見られることなど取るに足らない些事でしかない。そのまましばらくしゃがみ込んでいると――


「どうしたの。文子。こんなところで」


「……大河」


 しゃがんだまま文子が見上げた先には、友人の大河が立っていた。


「そんなところでしゃがんでると、服が汚れるよ?」


「……うん。ちょっと立ち眩みしちゃって」


 文子は適当な言い訳をした。友人に、現実とは思えないものを見たなんてとても言えなかったからだ。


「大丈夫? 立てそうにないなら、手を貸すけど」


「ううん。大丈夫。立てるから」


 友人の顔を見たおかげか、先ほどまでまったく力が入らなかったはずの足でなんとか立つことができた。しゃがみ込んだときに付着した汚れを手で払う。


「そういえば、授業は?」


 大河はいつも通りの少し冷たい口調で文子に訊いてくる。


「ちょっと、行く気になれなくてさ」


「ふーん。ま、文子は真面目だから、一日くらい休んだところで大丈夫そうだけど。なんかあったの?」


「うん。あの、ちょっとおかしな話なんだけど、訊いてくれる? できれば、誰にも言わないで欲しいんだけど」


 彼女なら、この悩みを相談してもいいかもしれない。親友である大河なら、いま自分が悩んでいることを馬鹿にしたりしないはずだから――


「いいよ。なに?」


「あのね。笑わないで欲しいんだけど――」


 文子は、自分の彼氏に感じている疑念を話し始めた。

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