第9話 災厄の扉

『いつまで寝っ転がっているつもりだ。さっさと起きろ』


 目を覚ますと同時に聞こえてきたのは炎司を咎めるようなノヴァの声。


 それから目に入ったのは青白い色をしているもの。健康的で綺麗な太ももと彼女の下着だった。青みがかったパンツ。しばらくそれをボーっと眺めたところで、自分がなにをしているのか自覚した炎司は驚いて身体を起こして立ち上がる。


「ご、ごめん」


『立ち上がったのならいい。というか、なんでそんな顔しているのだ?』


「…………」


 どうやら、不可抗力だったとはいえ、炎司がノヴァの下着を覗いてしまったことに彼女は気づいていないらしい。まあ、気づいていないのなら、言わなくてもいいか……そんな風に炎司は結論づけた。


『さっさと行くぞ、と言いたいところだが、身体のほうは大丈夫か?』


 ノヴァはそう言って、ところどころ服が破けてボロボロになっている炎司の身体を触診でもするかのようにぺたぺたと触っていく。確かな感触が感じられるのに、体温が一切伝わってこず、「本当に人間とは違う存在なんだな」ということを改めて実感した。


『ふむ。私の方からは特に異常はなさそうだが、なにかあったら遠慮なく言え。戦う以上、身体は資本だ。いくら並外れた再生力を持っていたとしても、相手が相手だ。油断はするなよ。下手を打てば死ぬ』


「……あのさ」


『どうした?』


「あいつは、倒したの?」


 炎司が気を失うまで戦っていた『裏側の住人』の姿はどこにも見られない。意識が途切れる寸前、確かな手ごたえはあったけれど。


『ああ。取るに足らんザコではあるが、はじめてにしてはよくやったほうだ。クソも小便も漏らさなかったしな。合格点だ』


 ぶっきらぼうな口調ではあったけれど、褒められているようで、なんだか気恥ずかしくなる。


 というか、漏らしたりするんだ……。そうならなくてよかった……なんて思ったが、腹を刺されたり、手首をちょん切られたりしていたし、そんなことが起こっていてもおかしくないよな、なんてことを思った。


『だが、まだ終わりではない。この街に現れている〈扉〉を破壊しなければ、あの程度のザコはすぐに現れる。勝利の余韻に浸るのはそれからにしろ。一番近い〈扉〉はここからそれほど遠くない』


「……うん」


 炎司はノヴァの言葉に強く頷いた。

『裏側の住人』を目の前にし、戦った炎司には確信をもってこう言える。


 ――あれは、人が知ってはならないものだ。


 世の中には知らない方がいいことがある、なんてよく言われる。先ほど相対した『裏側の住人』は間違いなくその一つだ。普通の人には見えも触れもしないとはいえ、あんなものが自分のすぐ近くにいるなんてこと、知るべきじゃない。


 あれと戦うのは怖い。その気持ちを炎司は否定するつもりはない。


 だが、『裏側の住人』と戦うその恐怖よりも『なにか起こる前になんとかしなければならない』とい気持ちが強くなっていた。


 いま膝ほどの高さにあるこの黒い水が、炎司の身長ほどの高さになると影響が出てくるという。


 そうなったら、普通なら見えも触れもしないはずの『裏側の住人』を認識できるようになる人が出てきて――


 いまの自分と同じように、襲われてしまうのだ。


 それを思うと、心の底からゾッとする。


 しかも、普通の人は炎司と違って、あれと戦うことなど不可能だ。仮に銃を持っていたとしても、人間の武器が通用するとは思えない。


 自分がやるしかないのだ。炎司はそのために二度目の生を与えられたのだから。


 それに――


 このまま事態が進行すれば、こちらに来てから知り合った大学の友人たちに被害が出るかもしれない。自分が知っている間柄の人たちだけでも、守りたいと思う。自分のことを別人だと認識していても――炎司は彼ら彼女らのことをよく知っているのだから。


「一つ、訊きたいんだけど」


『なんだ?』


「俺以外の人が、あいつらに襲われるようなことが起こったら、どうなる?」


『なす術なく〈食われる〉だろうな』


「く、食われるって……」


 ノヴァが言ったその言葉に心の底から恐怖が湧き上がった。


「く、食われたら……どうなるの?」


『量や質にもよるが、人間を十人ほど食えば大抵、ヤツらはこちらの世界での実体を得る。そうなったら、普通の人間にも認識できる存在になってしまう。そうなったら、言わんでもわかるな』


 あんなものが誰にでも認識できるようになったらのなら、とんでもない悲劇を生み出すのは間違いない。蹂躙された挙げ句、食われて、最終的に――


 そこから先は、想像したくなかった。するべきでもないのだろう。


『わかったか、なら行くぞ。もたもたしているとまたヤツらが現れるからな』


「……あ、うん」


 炎司は答えたのちすぐに歩き出した。異界と化した街を、再び出現したホログラムのような3Dマップを見つつ、黒い水を掻き分けながら進んでいく。マーカーがある位置は、ここからもう歩いて五分とかからない場所だ。


「そういえば、色々と派手なことをやってたけど、大丈夫なの?」


 いくら夜とはいえ、あんな大立ち回りをしてしまったのだ。誰かに見られたリ、していないのだろうか?


『安心しろ。そのあたりには抜かりはない。私が偽装をやっている。誰にも見られていないし、仮に誰かに見られたりしても、お前がその主であることはわからん』


 なにがどうなってそうなるのかまるでわからないけれど、これもそういうことなのだと納得しておこう。たぶん、ノヴァは嘘を言っているわけではないだろうから。


 自分は心置きなく戦えるわけだ。細かいことは、ノヴァに任せておけばいいのかもしれない。


『ついたぞ。あれだ』


 ノヴァの言葉を聞いて、炎司は上を見上げた。


 そこには、この世の暗闇をすべて濃縮したかのような球体が忽然と空に浮かんでいた。音を一切立てずに、その球体から黒い水を垂れ流している。それは、どこからどう見ても、邪悪なものとしか思えなかった。


 あれが……『裏側の世界』と繋がっている場所。あれを壊せば、この街で起こるかもしれない悲劇を防ぐことができる。


 と、思ったものの――


「どうやって壊せばいいの?」


 そう、あの暗黒の球体は二十メートルほどの上空に浮かんでいる。あれでは、殴って壊そうにも壊せない。


『手に力を込めて、それを思い切り投げつければいい。お前の力なら、あの距離まで飛び上がってぶん殴ることもできるが、あれに近づくのは少々危険かもしれん。離れたまま処理するのが無難だろう』


 ノヴァの言葉を聞いて、炎司は自分の右腕に力を込める。先ほど、『裏側の住人』を倒したときのようにすべての力を右腕に集約し、上空に浮かぶ暗黒の球体に狙いをつけて、思い切り投げつけた。


 サッカーボールほどの大きさの青白く輝く球体と、上空に浮かぶ暗黒の球体が衝突し、わずかな時間だけ真昼のように明るくなった。その光が消えたときには、邪悪なものを垂れ流していた暗黒の球体は影も形もなく消滅していた。


『この街にはあれと同じものがあと二つある。だが、今日のところはここまでにしておこう。お前も疲れて――』


 ノヴァが言葉を途切れさせる。そして別の方向に視線を傾けた。

 なにかと思って、炎司もそちらに目を傾けてみると――


『どうやら、アンコールらしいぞ』


 そこには、先ほどとはまた別の形状をしたモザイクの塊が現れていた。


 二度目の戦闘だ。

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