第5話 自分を知らない物語

 炎司はダンボール箱に貼られた宛名をもう一度確認する。


 そこに書かれているのは、吉田正幸という明らかに違う名前。


 そして、『火村炎司』という名の人間はいないというノヴァの言葉――


 これは一体どういうことだ? もしかして自分はまったく別人になってしまったのだろうか? いやしかし、それならどうしてこの吉田なる人物が暮らしている部屋が自分の部屋とここまで酷似しているのだろう。


 そもそも、いまは夜だから、もし自分が別人になっていたのなら、ガラスに映った顔を見ればすぐに気づくはずだ。自分の容姿がまったくの別人になっていたのに、それに気づけないなんて、馬鹿にもほどがある。


 ガラスに視線を向けて自分の顔を確認してみる。


 そこにあるのは見慣れた自分の顔だ。別人になっているとはどうしても思えない。


 自分が死んだときの記憶を思い出してしまったときとは別種の恐怖が湧き上がってきた。自分の常識を、知っていた世界を否定されてしまうかのような恐怖。痛みも苦しみもなく、その身を腐らせていくような――


「どういう……こと、なの?」


 炎司はなんとか言葉を絞り出して正面に座っているノヴァに問いかける。


 ノヴァは先ほど、火村炎司という人間は存在しない、と言った。


 それなのに――自分は確かにここにいる。確固たる意志を持ち、いままでの記憶をすべて持ち合わせた『火村炎司』は確かにここにいるはずだ。


 しかし――


 自分の部屋で暮らしているのはまったく知らない『吉田正幸』という男。この男は一体何者なのか?


『……随分と青い顔をしている。そんなに自分がいなかったことが意外か?』


「そ、そりゃあ……」


 そうだよ、と喉になにかつかえたような声で炎司は言葉をつけ足す。


『お前が転生したこの世界は、お前が生きていた世界と限りなく似ている。文化も文明レベルも、なにもかも。


 しかし、この世界には火村炎司という人間はいない。その代わりいるのはお前に限りなく似た経歴と容姿を持つ別の人間だ。二度目の生を与えられたお前は契約が続いている間はそいつとして生きなければならない』


「ど、どうして……」


『ここはお前が暮らしていた世界のいわば平行世界だ。そこで、お前と限りなく似た経歴と容姿を持つ人間を蘇らせたらどうなると思う?』


「もしかして……」


 炎司に思い浮かんだのは誰もが知っている『ドッペルゲンガー』の話。


『まあ、反物質とぶつかったように消えてしまうわけではない。同じ存在が二つあれば大きな矛盾が生じる。なにかまかり間違って、それが起こってしまった場合、地球の意志はその矛盾を修正する。その結果、消滅してしまうわけだが――まあ、この話はあまり詳しく説明する必要はないだろう。


 とにかく、お前に二度目の生を与えるにあたり、それが起こってはまずいというわけだな。それを防ぐために、二度目の生が与えられる先で、限りなく似た経歴と容姿を持つ存在に、お前の記憶と人格をすべて転写している、というわけだ』


「……はあ」


 なんだか途方もない話だ。いや、殺されて二度目の生が与えられている時点ですでに途方もない話な気もするが――


「じゃ、じゃあ、もともと俺と似た誰かである吉田さんはどうなったの?」


『お前の人格と記憶が転写された結果、消滅したけど』


「な……」


 さも当たり前のように言ったノヴァの言葉に炎司はとてつもない衝撃を受けた。

 自分の人格と記憶が転写された結果消滅したのなら、自分は――


 ――吉田何某を殺したも同然じゃないか。


『随分と動揺しているが、それがそんなに問題か?』


「あ、当たり前だろ。俺がこの人のことを乗っ取ったってことじゃないか!」


『乗っ取った……確かにそうとも言えるが、もともとお前とほぼ同じような容姿と経歴を持っている人間だぞ? 別世界に生きていたお前が上書きされたところでたいして変わるまい』


「で、でも……」


『なら、ここで元通り死ぬか? お前がやらないというのであれば、契約を反故するのであれば、私はすぐにその魂は回収できる。まあ、死の記憶があるままもう一度死ぬのができればの話だが』


「……っ」


 もう一度死ぬ。そう言われて、熱くなりかけていた炎司の頭は一気に冷めていった。


 あれをもう一度味わうだって?

 そんなの、嫌だ。


 ノヴァの言った魂を回収するというのが、刺されて殺されるのとどう違うのかなんてまったくわからないけれど、それが心地いいものだとはまったく思えなかった。


『それに、お前が使命を果たせば、吉田何某は元通りになる。そして、お前ももとの世界で蘇る。いまのお前にできる最前は、契約通り戦うことだ』


「戦うって……あのモザイク?」


 あのなんとも言えない邪悪さを持つ、生物とはとても思えない形状の『なにか』のことを思い出した。


 あんなものと自分は戦えるのだろうか、と不安になる。


『そうだ』


「あれを……全滅させるまで戦うの?」


『違う。我々が問題にしているのは、表側に流れてくるやつらだ。そもそも全滅させられるようなものではないしな。お前にやってもらうのはこの街――黒羽市に現れた表側の世界と裏側の世界を繋ぐ〈扉〉の破壊だ』


「そこから……あのモザイクが出てくるの?」


『そうだ。表側の世界を侵食せんとする『裏側の住人』はそこから流れ出してくる。いまこの街は、裏側の世界に侵食されつつある状態だ。なんとかここで止められなければ、まずいことになる』


 ノヴァの口調から危機感が滲みだしているのが感じ取れた。ごくり、と唾を飲んで、炎司はノヴァの話に聞き入った。


『さっきも軽く話したが、表が裏に飲み込まれると、表裏がなくなった結果消えてしまう。そして、一部にそんな穴が開いてしまえば、遠からずそこにすべてが飲み込まれることになる。すべてを飲み込まれれば、地球自体が裏側に消えてなくなってしまうというのはわかるな? 我々の目的はこれを防ぐことにある』


 我々というと、ノヴァ以外にも同じようなことをやっている人がいるのだろうか? 気になったけれど、自分たち以外のことを気にしても仕方ないような気がして、その質問は出さずに心の中に留めた。


 それにしても――


 そんなヤバいものが一年半も暮らしていた街に出現しているなんて――いや、まだノヴァの話を全部信じたわけではないけれど――なんかもう、自分の理解が追いつかない話ばかりだ。


「それでどうするの? これからその〈扉〉とやらを壊しに行くの?」


『いや、今日はやめておこう。まだお前の気持ちも整理できていまい。残されている時間は長くはないが、休息も整理も必要だ。動くのなら明日の夜からにしよう。それまでに自分の中で整理しろ』


 うん、と頷いたものの、そんなこと自分にできるかどうかまるでわからなかった。


 だけど――

 気持ちの整理はつけなければなるまい。

 だって自分は、自分と似た存在を殺してここにいるんだから。

 戦えるとは思えないけれど、やるしかない。


『なにかあれば私を呼べ。すぐに出てきてやる。一つ言っておくがいま外に出るなよ』


「なんで?」


『この街はいま〈扉〉が出現して表と裏の境界が曖昧になっている。いまの段階では普通の人間に危害は出ないが、私の力を得たお前は違う。間違いなく後悔するだろうから、なにもわからないまま無駄死にたくないのなら今日は外に出るな』


 その口調には凄味が感じられて、思わず「はい」と言ってしまった。炎司が答えたのを確認すると、ノヴァの姿はパッと消える。すごいことが目の前で起こった気がしたけれど、今日は驚くことが起こり過ぎて驚きの声を上げることもできなかった。


 外に出るな――か。炎司は窓から外を眺めてみる。しかし、窓からは別段変わった様子は見られない。ごく普通の、夜の街だ。


 一体夜の街はどうなっているのだろう。少し気になったものの、腹が減っていたので、すぐにその考えるのをやめてしまった。


 遅いけど、夕飯の準備をしよう。炎司は台所へと向かった。

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