第4話 戦え炎司くん

 炎司が目を覚ますと、そこは暗黒に包まれていた。どこだろう、と少しのあいだ考え、すぐにそこが下宿先の部屋であることに気づく。東京に出てきてから一年半ほど暮らしている自分の部屋――見慣れた天井、家具、その他もろもろ。


 そういえば――


 先ほど見たあの目が痛くなるほど明るくて白い部屋はなんだったのだろう。自分の部屋で目覚めたいまも、そのときの記憶がはっきりと残っている。場所も、話していた内容も現実離れしていたけれど、夢というにはいま炎司の中に残っている記憶は、夢というにはあまりにも明瞭過ぎた。


 それに――

 炎司はあの場所で死んだと言われたのだ。


 バイト帰りに立ち寄った最寄りのコンビニで、そのときたまたま店にいた変質者に何度もぶっ刺されて。あの白い部屋は非現実的だったせいで現実感がなかったけれど、いまは殺された記憶が自分のものであることがはっきりと実感できてしまう。その、刺された痛みすらも、思い出せるほどに。


 それを思い出してしまって、胃の奥から吐き気がこみ上げてくる。炎司はトイレに駆け込んで胃の中のものをすべて戻してしまった。昼からバイトが終わるまでなにも食べていなかったので、出てきたのは胃液だけだ。落ち着くまでひとしきり吐いたところで、炎司がトイレを出た。


 駄目だ、と自分に言い聞かす。


 自分が殺されたことなんて、思い出してはいけない。そんなことを思い出していたらすぐに壊れてしまう。人間が普段まともに生きていけるのは、必ず訪れる『死』というものを忘れているからなのだから。


 そこまで考えたところで――


「あれ?」


 どこか自分の部屋に違和感が感じられた。


 なんだ? この部屋はなにかが違う。間違いなく自分の部屋のはずなのに、どういうわけか自分の部屋とは違うように思えてくるのは何故だろう。どこだ。どこが違う?


 しかし――

 目に見えてわかる以上は、部屋を見渡した限りではわからない。


 なにか得体の知れない恐怖に襲われながらも、暗いままだった部屋の明かりをつける。違うように見えるのは部屋が暗いままだからかもしれない。部屋というものは明るさが変わるだけでも大きく変化してしまうものだ。


 だが――


 明るくなった部屋でも同じように違和感が――いや、明るくなったことで違和感がさらに強いものになる。なにがどうなっているのだ。慣れ親しんだ自分の部屋で、何故そんな違和感を感じているのだろう。


 なにがどうなっているのか。いくら部屋を見ながら考えを巡らせてみても、その違和感の正体を突き止めることができない。


 なにかが奥歯に挟まったような違和感を覚えながらも、どうすることもできずに炎司は普段自分が寝ているベッドに腰を下ろした。


 少し、気持ちを落ち着けよう。そこまで考えたところで――


 あの白い部屋で言われた言葉を思い出す。あの神を自称する、青い目をした美少女の言葉だ。


「戦え」


 そう言われた。彼女の話ではそいつによって地球は危機に瀕していて、死んだ炎司は生き返って二度目の生を与えられる代わりに、そいつらを戦えと言われたのだ。あの、モザイクの塊のような、ひと目見ただけで邪悪だとわかる存在と。確か『裏側の住人』とノヴァは言っていた。


 一度見ただけで記憶に焼きついてしまったモザイクのことを思い出すと、言いようのない不安が激しく押し寄せてくる。


 あれがどのくらいの脅威なのか、炎司にはまったくつかめない。なにしろあんな名状しがたい神話生物みたいな存在が実在するとはまったく思えなかったからだ。


 そんなものと、戦うだって?


 戦うどころかろくに喧嘩すらしたことない自分が、あんなヤバそうなものと戦うなんて――


『安心しろ。サポートもしてやるし、力も与えていると言っただろう。忘れたのか』


 突如、どこからともなく響いたその声に驚いて、炎司がベッドの上を転がってしまい、そのまま壁に頭を強打した。


 いまの声は――

 間違いない。あの白い部屋にいた女の子――ノヴァのものだ。


 どこから聞こえている、と思って部屋を見回すと、彼女の姿はすぐに目に入った。部屋の真ん中で、人ならざる空気を纏わせながら、悠然とそこに立っていた。目に入ったその姿があまりにも綺麗すぎて、炎司がごくりと唾を飲み込んだ。


 いつここに入ってきた? さっきトイレから戻ってきたときは誰もいなかったはずだ。扉を開けて入ってきたのなら、気づかないわけが――


「な、な……」


 なんで、ここにいるの? と、ノヴァに訊こうとしたのだが、驚きすぎて、口が回ってくれない。


『なんでここに私がいるのかって訊きたそうな顔をしているな。アホなお前にも理解できるように親切な私はしっかりと教えてやる。私はお前がここに戻ってきた瞬間からいたぞ。なにしろあの場所から一緒に来たんだからな。なかなか気づかんから姿を現したというわけだ』


 呆れた顔をしてノヴァは言う。


「いっ……一緒にって……な、な、なんで?」


 今回はなんとか口は動いてくれた。でも、ろくに呂律が回っていなくて、少し恥ずかしかった。


『そりゃ一緒に戦うからだろう。私はお前の武器でもありサポート役でもあるんだからな。それともなんだ? ここまで来て戦うのが嫌になったのか? じゃあ死ね』


「そういう、わけでは、ないというか……」


 ただ、状況がまったくつかめないだけなのだ。いま自分がどうなっているのかをまず知りたい。それができなければ、戦うもクソもあったものではない、と思う。


『……なんだか歯切れの悪い言いかただな――まあいい。じゃあもう一度説明してやる。お前、二度目の生を与えられてここにいるということはわかっているか?』


「うん、まあ……」


 よくよく考えてみればそれもわけがわからないことではあるのだが、もうそれは『そういうもの』として自分に言い聞かせるしかないだろう。はっきりと自分が殺されたときの記憶を思い出せるいまとなってはそう考える以外に道は残されていない。


『ならいい。では、二度目の生を与えられたのは何故かも覚えているな?』


「あの……モザイクみたいなやつ、『裏側の住人』と戦うとか、なんとか」


『その通りだ。ちゃんと覚えているじゃないか。なら、何故そんなに戸惑っている?』


「いやだって、あんなわけのわからないやつと戦うなんて――」


『できる』


 炎司の言葉を遮って、ノヴァは断言する。


『二度目の生を与えられたいまのお前には初めから〈戦うための記憶〉が焼きつけられている。だから、できるはずなんだ。自分が殺されたときを思い出したときのように、その記憶を思い出せ。そうすればすぐに戦えるようになる』


「…………」


 ノヴァの口調には誤魔化しも迷いも一切感じられなかった。嘘を言っているようには思えない。


 だけど――

 ノヴァが言っていることは、自分の知らない記憶を思い出せということだ。


 自分の知らない記憶を思い出すなんて、果たしてできるのだろうか?


『不安そうだな。まあ仕方あるまい。なにしろお前は平和な国で暮らしていた学生だからな。そうやすやすとことが運んでくれない、か。誰か来たようだぞ』


 ノヴァの言葉が遮られるようにインターホンが鳴った。


 こんなときに誰だろう? 実家からの仕送りはまだ来る時期じゃないし、ネット通販も今日届けられる覚えもない。そうなると、なにかの勧誘か? だがしかし、こんな時間に――


 なにか言いようのない不安を覚えながらも、炎司は玄関に向かい、扉を開ける前に覗き口から誰がやってきたのかを確かめてみる。


 そこにいたのは――


 もう顔なじみになった宅配業者のお兄さんだ。ネット通販なんて頼んだ記憶はないのに、どうしてここに来ているのだろう? そんな底知れない不安を感じながらも炎司は扉を開けた。


「はい、どーも。お届け物です。ハンコよろしくお願いします」


 宅配のお兄さんは元気のいい声でそう言った。


 頼んでないんですけど、そう言おうとしたけれど、言葉が出てこなくて、玄関に置いてあるハンコを手にとって押すと――


 そこには――



 吉田。



 明らかに自分の名前ではないハンコが押されていた。


 なにがなんだかわからない。足もとがぐにゃりと歪んでいるような気がする。宅配のお兄さんからダンボール箱を受け取り、


「ども。ありがとうございましたー」


 と、お兄さんは愛想よく一度帽子を取って会釈し、扉を閉めて離れていく。


 炎司は、玄関先でダンボール箱を持ったまま硬直していた。しばらくそのままでいると――


『どうした?』


 と、ノヴァが近寄ってきて、炎司に声をかけた。


「あのさ、いまハンコ押したら自分の名前じゃなかったんだけど――どういうことなの?」


 炎司は振り向き、ノヴァに問いかける。ノヴァは「ああ、そうか」と、頷くような顔をしていた。


『それについて話してやる。こっちに来い』


 言われるがまま炎司とノヴァは部屋に戻る。いま受け取ったダンボールを部屋に置き、炎司は適当な床に腰を下ろした。


『単刀直入に言おう。いまお前がいる場所には〈火村炎司〉という人間は存在しない』


 その言葉は、自分が殺されたときに使われた刃物よりも鋭いように思えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る