第80話 彼の話

 一体わたしの目の前ではなにが起こっているのだろう? 金元文子はいま自分の目の前で起こったとても現実とは思えない出来事に困惑していた。


 目の前には、文子の親友を抱えた金髪の、紳士然とした男が立っている。そして――


 いきなり現れた黒い『なにか』によってどこかへ消えた炎司はどうなったのか。


 なにもかもわからない。なにか、自分の理解を超えたことが起こっているのはわかる。だが、それ以上のことはなにも――


「ふむ」


 文子を抱えた金髪の男が声を出した。その男の目をはじめて直視し、文子は恐怖を抱く。あの男は、自分を一切見ていない。恐らく、自分の興味のあることがらしか目に映っていないのだろう。あの男は、そういう目をしている。


「私が言うのもあれだが、きみは逃げないのかね?」


 金髪の男は文子に問いかける。


「…………」


 文子は、なにか言おうとして、なにか言わなければならない気がしたけれど、口からは空気が洩れるばかりで声は出てくれなかった。


 目の前にいる、尋常ならざるこの男から逃げなければ、とそう思った。この男が何者なのかはわからないけれど、危険な存在であることは間違いない。だけど、恐怖で足が動いてくれなかった。一瞬でも目を逸らしたら、殺されてしまいそうで――


「安心したまえ。私はきみを傷つけたりはせんよ」


 金髪の男は言う。先ほどまで、炎司と話していた時とは打って変わってとても落ち着いた口調だった。その落差がまた恐ろしいと文子は思う。


「きみの友達には少々無礼な真似をしてしまったが、本来であれば私はこういう強姦魔のような真似は苦手でね。焦りさえなければ、もっとエレガントにことを済ませるつもりだったのだが、彼に追われてるとなると、こっちも必死にならざるを得ないのだ。というわけで、恨むのなら彼を恨んでくれ」


 金髪の男が言う彼とは、間違いなくつい先ほどまで自分のそばにいた炎司のことだろう。彼と、目の前にいるこの男はなにか関係があるのはわかる。だが、どうして炎司がこのような危険な男と知り合いなのだろう。それが、より文子を困惑させた。


「……どうやら、きみはなにも知らないようだね。この場に連れてきたものだから、てっきり彼がなんなのか知っていると思ったのだが、予想が外れたようだ」


 人間の予測というやつは相変わらずアテにならないな、と金髪の男は声を漏らした。


「彼は、火村くんは何者なんですか?」


 やっと、言葉が出てくれた。たったそれだけの言葉を発するだけで、一日分の体力を使ったのではないかと思うほど消耗した。


「そうだね。もうすでに関わってしまったきみに隠しても仕方あるまい。彼は『守護者』と呼ばれる存在だ」


「守護、者……」


 耳慣れない言葉に文子は首を傾げる。


「簡単に説明してしまうと、この世界に対する脅威を排除する存在だ。要は私のようなのと戦っている」


「…………」


 文子はなにも言い返すことができない。


「先ほど彼はきみを庇って夜の闇に消えてしまったが、安心するといい。あの程度では彼は死なん。まあ、私にとっては忌々しい話ではあるのだが」


 難儀な話だ、と男は言う。


 彼は生きている。その言葉を聞いて、文子は少しだけ安心できた。


「大河を、どうするつもりですか?」


 文子は再び問いかける。この男は、何故かは知らないが、大河に関心を持っているようだった。一体、彼女になにをするつもりなのだろう。


「どう、というのはどう意味かな? きみのような普通の人が言う『どう』であったら、それはノーだな。いや、違うな。いまの私の目的は、『残骸』の一部を注入された彼女の経過観察だ。要するに、どうなるか見ているだけで、なにもしないということだ。少なくとも、いまのところはね」


 その言葉は、異様なほど不吉に聞こえた。目の前にいる男が恐ろしくて、異常なほど喉が渇く。しかし、目の前の状況をどうすることもできなくて――


「ふむ」


 金髪の男は文子のことを注視していた。先ほどまで、自分には一切興味なさそうだったのに、いまは若干の関心が現れているように見える。


「どうやらきみは、見えるようだな」


「…………」


 男がなにを言っているのかよくわからなくて、なにを言ったらいいのかよくわからなくて、文子は黙り込む。


「きみがなにか私の問いに答える必要はない。きみがなにを言ったところで、なにかできるわけではないのだから。大人しくしているといい。こちらの彼女ときみは友達同士らしいな。であるなら、友達がいるほうが彼女だって喜ぶだろう」


 大河を抱えたままの金髪の男が一歩近づいてくる。それだけで、文子の心臓は破れてしまいそうなほど心音が跳ね上がった。


「安心したまえ。私はきみにだってきみが考えるような真似はするつもりはない。とりあえずは、彼をおびき出すため利用させてもらうだけだ。痛い思いも、苦しい思いもさせるつもりはない。それくらいの矜持は私にもある」


 男はもう一歩近づく。逃げなければ、と文子の脳は最大級の警報を鳴らすが、それと反してまったく身体は動いてくれない。


「怖いのか? まあそうだろう。知らない男にこうやって迫ってこられれば、女性であれば誰だって恐怖を感じる。だが、そんなこと、私には関係がない」


 男は、文子に向かって手を伸ばす。その動きは、時間が間延びしたのではないかと思うほどゆっくりだった。


 金髪の男の手が自分に触れる直前になって、文子は目を瞑った。その時、首もとに軽い感触が感じられて――


 文子の意識は、暗黒に包まれた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます