第55話 いまそこにある狂乱
トイレットペーパーが切れていることに気づいた田中弘道が外に出ると、街はどこか異様な空気に包まれていた。
「なんだ……」
思わず弘道は声を洩らす。
なにか叫び声のようなものが至るところから聞こえてくる。この街は東京にはどこにでもある住宅街だ。騒ぎになるような場所などどこにもないはずだが――
それでも、スーパーにはいかなくてならない。なんといってもこちらは独り暮らしなのだ。用を足しているときにトイレットペーパーがなかったとしても、誰も買ってきてくれないのである。それに、弘道は潔癖ではないが、トイレットペーパーなんて必要ないと思うほど不潔な人間ではない。
道を進み、大通りに出ると、家を出たときに感じられた異常が確かなものであることが理解できた。
「どうなってやがる……?」
多くの人間――歳も性別も背格好も違う人間たちが、ぞろぞろと並んで、覚束ない足取りで大通りを進んでいるのだ。彼ら彼女らは、なにかに取り憑かれたかのように、どこかを目指して進んでいる。どう考えても、これは普通の事態とは思えなかった。
その異常な光景を目の当たりにして、弘道は歩く足を止め、家に戻るべきだろうかと悩んだ。あの集団に紛れ込むのはやばい――そんな直感があったからに他ならなかった。だが、最寄のスーパーに行くには、この大通りを抜けなければならない。どうする? そう交差点で躊躇していると――
「ひっ」
覚束ない足取りで歩いている集団の中にいる一人が、弘道のことを見た。スーツを着た、中年の男だ。その目を見て、あの集団がやはり異常な状態であることが一瞬で理解できてしまった。
あれは――やばい。なにがどうなってあんな風になっているのかまったくわからないが、とにかくやばい。
弘道は反射的に踵を返してきた道を駆け戻っていた。弘道は走りながら後ろを覗き見る。そこには――
「ぎゃ……」
弘道と目が合った、通りの逆側にいたはずのスーツの男は自分のすぐそこまで迫っていた。弘道は叫び声を上げようとしたが、その声は響かなかった。男に飛びつかれ、地面に叩き倒されてしまったからだ。
スーツの男はでっぷりとしていて、とても筋力があるようには見えないのに、弘道の力ではどうにもできないほどの腕力で押し潰してくる。
「――――」
スーツの男は、なにかわけのわからないことを言った。それは、人間の言葉とは思えないものである。そのいみのわからなさに、弘道はますます恐怖を覚えた。
「だ、誰か……助けてくれっ!」
弘道はそう大声で叫んだが、近くに通りかかるものはいない。
「――――」
再び男がなにかを言う。やはり、なにを言っているのかわからない。スーツの男は、口を大きく開いて、自分の肩口にかみついて――
「ぎゃ……」
弘道の小さな悲鳴が街の中に響く。このまま、かみ殺されてしまうのか、と思った瞬間、男はかみつきをやめて弘道から身体をどかし、そのまま歩き去ってしまった。
「な、なんだったんだ……?」
なにが起こったのかまったく理解できないまま、弘道は身体を起こした。ほとぼりが冷めるまで家にいよう。そう思ったとき――
『――――』『――――』『――――』『――――』『――――』『――――』『――――『――――』『――――』『――――』『――――』『――――』『――――』『――――』『――――』『――――』『――――』
頭の中に、先ほどの男が喋っていたものと似た言語のようなものが聞こえてきた。
「あ、ああ、あああ」
その声に圧力によって、弘道の自我は押し潰されていく。
そうだ。俺も仲間になったのだ。仲間を増やさなければならない。彼らと一緒に。それが俺たちの使命なのだ。早く、仲間を増やさなければ――
弘道は、先ほど見た者たちの集団に向かっていった。
『――――』
うるさい。どうしてさっきからわけのわからない言葉が聞こえてくるのだろう、と谷口登美子はそんなことを考えていた。
せっかく、酒を飲んでほろ酔いになっていい気分になっていたというのに台なしだ。どうして、こんなことになったのか。自分がなにか悪いことでもしたとでもいうのか? 本当にイライラする。どうしてこんなわけのわからない声が頭の中に響かなくてはならないのだ。幻聴が聞こえるほど、飲んだ覚えはないぞ……。
『――――』
そう思っても、登美子の頭の中には絶え間なく変な声が響き続けている。
「ああっ、この!」
と、あまりにもイラついたので、近くにあった電信柱を思い切り蹴り飛ばした。
すると――
「は?」
倒れるはずのない電信柱が、登美子が蹴りつけた部分からぽっきりと折れてしまった。電信柱は近くの電線を巻き込んで倒れ、あたりにバチバチという音が流れてくる。
「いや……幻聴といい、いまのこれといい、あたしちょっと飲み過ぎじゃね?」
そうだ。そうに違いない。そうでもなければ、イラついて蹴りつけた電信柱が折れるわけがない。きっと自分は夢を見ているのだ。それなら納得がいく。そうでもなければ、頭の中に変な声が絶え間なく響くはずもない。
「はは」
今度はブロック塀に頭突きをしてみた。現実なら割れるはずのないブロック塀が粉々になる。まるで、ビスケットを殴りつけたような感覚だった。
『――――』
また声がなにか言っている。うるさい。夢の中で変な風に出しゃばってくるな。ここは私の夢なんだから、私以外のやつが騒ぐなんて許されないぞ。
高い音を立て、いい気分で登美子は街を進んでいく。
正面から、ちゃらちゃらした風体の男が二人近づいてきた。それを見ると、頭の中に響く声が一段と大きくなる。この声に従うのは癪だが、いま無性にイライラしている。なにかあいつらにやってやろう。馬鹿そうだし。
「あれ、おねーさんなにやってんの? 大丈夫?」
アホな顔つきをした男が話しかけてきた。
「――――」
「え? おねーさんなに言ってんの? ちょっと酔っ払いすぎじゃあないっすか?」
もう一人の馬鹿面が茶化すような口調で言う。
「――――」
登美子は言葉を返した。自分でもなにを言っているのかよくわからなかったが、わかる必要などない。何故なら、こいつらはここで――
登美子はアホ面の首をつかんだ。
「どうしたのおねーさん。もしかして俺に気でもあるの? ちょっと困ったな……」
「――――」
登美子はアホ面の首に、自分の爪を食いこませた。
「ぎゃあああああああああ!」
アホ面の絶叫があたりに木霊する。その叫び声は、なんとも心地よかった。しかし、この程度で叫び声を上げるなどだらしない。男にくせに。
登美子はアホ面の首から指を引き抜く。手にはべっとりと血が付着していた。血のついた指を口に突っ込んで舐め回してみる。鉄臭いが、悪くない味だった。
「ちょっと、おねーさん。なにやってるんすか……」
馬鹿面が顔に恐怖を浮かべて後ずさる。
「――――」
「ひいい」
馬鹿面が逃げ出そうとする。登美子は、自分に背を向けて逃げ出そうとした馬鹿面にタックルをして押し倒す。
「――――」
「ひ、ひいい」
登美子に背後から抑え込まれた馬鹿面は芋虫みたいにのたうっていた。登美子は、芋虫みたいにのたうつ馬鹿面の首を目がけて、爪を突き立てる。
「ぎゃ……」
馬鹿面は小さな悲鳴を上げて、動かなくなった。登美子は馬鹿面を一度蹴り上げてから再び歩き出した。
これでいい。
これでまた、仲間が増えた。
もっともっと、仲間を増やしていかなければ。
阿部太郎は、いままで五十年近い人生の中で最高の充実感を味わっていた。
いつも通り馴染みの店で飲み歩いていた最中、気がつくと変な声が聞こえるようになっていた。
どこの言葉とも判断できないものだったが、太郎には何故かなにを言っているのかよく理解できたのだ。
そして――
五十近い、すっかり衰えた身体にみなぎる力が感じられたのだ。まるで、十代のときに戻ったかのように。
いや、十代の頃どころではない。いま太郎にある力は、明らかに人間のそれを超えていた。試しに、近くの街灯を蹴りつけてみたら、本来であればびくともしない街灯がお菓子の用意ように蹴り折ることができたのだから。
「なんだかよくわからんが……これはいいぞ」
絶え間なく聞こえる声がうるさいのがやっかいだが、それさえなければ悪くない。ここまで身体が元気になったのはここ十数年なかったことだ。
「なにやら街も混乱しているようだし、少し自由に生きてみるか」
太郎は街を進んでいく。街を歩く者たちは、太郎と違って完全に正気を失っているらしい。どうなっているのかは不明だが、太郎は他の有象無象とは違うようだ。自分は違う場所いる――その優越感はなかなかに悪くない。
『――――』
頭の中に声が響いた。どこの言葉が見当もつかないが、やはりなにを言っているのか理解できる。
「ふーん。邪魔者がいるのか。じゃあ腕試しがてらにそいつをぶっ殺しにいくか」
太郎は、優越感と万能感に包まれたまま、夜の街を進んでいく。
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