第31話 闇に舞い降りた狂気

 全身を支配する倦怠感とともに文子は目を覚ました。


「ここは……」


 自分の知っている場所ではなかった。暗い、倉庫のような場所。とは言っても、いまの街の状況ではどこも自分の知っているものではないと思うが。


「そうだ……」


 大河はどこに行ったのだろう。

 そもそも、誰がここに自分を連れてきたのか?


 ここで目が覚める前、最後の会っていたのは大河だ。大河がこんなところに連れてきた? いやでも、どうしてこんなところに連れてくるのだろう。文子の頭の中に疑問符がいくつも浮かぶ。


 外からは、聞くに堪えない絶叫や唸り声が響いている。聞くまいと耳を塞いでも、その音は文子の中にどこからでも侵入してきた。まだ、街を襲っている混乱は続いているらしい。


「大河は……どこ?」


 そう思って身体を動かそうとしたけれど、四肢がまったく動かない。かろうじて動かせるのは首から上だけで、胴体は自分の身体でなくなってしまったかのように動いてくれない。なにか薬でも盛られたのだろうか。その事実に、まわりから聞こえてくる混乱と狂気から感じる恐怖とは別種の恐れを抱いた。


 自分は、どうすればいいのだろうか。


 身体は動かせない。

 街は得体のしれない怪物だらけ。

 ここで大人しくしていることしかできないのだろうか。


 嫌だ、と思った。そう強く思っても、弛緩しきった身体が動き出す気配はまるでない。


 でも――

 自分になにかできるのか?


 ――なにもできない。


 金元文子はただの大学生でしかない。そんなことは自分が一番理解している。

 だけど、このままなにもしないでいるのが正しいとも思えなかった。


 なんで――

 自分にはなにもないのだろう。


 自分になにか力があれば、狂気と混乱に包まれたこの街でも、できることがあったのに。


 悔しくて、なにかに当たろうとしても、四肢がまったく動かないのでものに当たることすらもできないのがいまの文子の現実である。


 なんて無様なのだろう。


 なにもできないのが悔しかった。

 無力な自分が苛立たしかった。


 いつか、自分を助けてくれた彼のように自分に力があれば、こんな悔しい思いをしなくて済んだのに――


 すると、こちらに近づいてくる足音が聞こえてきて、文子は身構える。


「や、文子。突然こんなことにつき合わせちゃって悪かったね」


 と、扉を開けて入ってきたのは友人の大河であった。


 だが――


「どうしたのそんな顔をして。私の顔になにかついている? 文子を怖がらせないように、変な姿にはなってないと思うんだけど――」


 目の前にいる彼女は、自分が知っている大河だとは思えなかった。


 文子は、なにも言葉を返すことができない。


 なんだあれは。いま自分の目の前にいるのはなんだ? 大河の姿をした『なにか』の姿を見れば見るほどその疑念は確認に変わっていった。


「あれーどうしたのさ文子。もしかして私のこと別人になったとか思ってる? そんなことないって。ちゃんと私だよ。別人が成りすましてるわけでも、イカレたわけでもないよ。もともとそうだったの。いままでは少し猫を被っていたけど――」


 そんなことを言う大河はとても陽気だった。その陽気さが、さらに異様さを感じさせる。


「ま、驚いたとは思うけど、そこは友達だし適当に流しておいてよ。お互いまだ知り合って一年ちょっとなんだし、知らないとこがあっても当然でしょ? もしかして文子、猫被ってる時の私の方がよかった?」


 大河はしゃがんだまま動けない文子の顔を覗き込んできた。その時――彼女から感じられたのは人ならざるものの匂い。この匂いをどこかで嗅いだ覚えがある。どこだろうかと、少し考えて、思い至ったのはあの日のこと。


 バイト帰りにクモのような怪物に襲われた日のこと。

 そして、青い炎を操る青年に助けられた日のこと。


 いま大河から感じられる匂いは、あのクモの怪物にとても似ている。

 もしかして、大河は――


「大河、どうしちゃったの?」


 文子は大河に問いかける。


 いまの大河はどうかしているとしか思えなかった。だから、文子はそう問いかけずにはいられなかったのだ。


「どうしちゃった、と言われてもねえ」


 どうしたもこうしたもないんだけど、と大河はつけ加える。


「そうね。あえて言うのなら、私はあなたと違って、あの怪物に食べられたってことかしら」


「た……」


 あまりにも驚いて、その先の言葉が出てこなかった。


「そんな心配そうな顔をしなくても大丈夫よ。私は食べられる前と後ではまったく変わってないからさ。そうじゃなきゃあなたとこうして話しているわけないでしょう。だから、安心していいわよ」


 そう言って大河は妖しく微笑んだ。いままでの付き合いで――そんな微笑みは一度も見たことがなかった。いまの彼女が身に纏っている、人ならざる空気に文子は心から恐れを抱く。


「ただ、あいつらと同化した私はいままで知らなかったものを知って、もっと自由になろうと思っただけ。正直、いまの世界は退屈で息苦しいの。私みたいな鼻つまみ者にはね。だから、ちょっとおかしくして遊んでみようと思ったわけ」


「じゃ、じゃあ、この街の混乱は――」


「そ、私がやった。どう。なかなか楽しいアトラクションでしょ?」


 自慢そうに言う大河。心から、この街が起こっている狂気と混乱を愉しんでいるように見えた。


「でもねー一人だけ邪魔者がいるの。そいつさえいなければ好き放題できるんだけど、なかなか物事ってうまくいかないわよね」


 実に残念、なんて仰々しく大河は言う。

 邪魔者。それは、あの青年のことだろうか。


「そのために友達のあなたに協力してもらおうと思って、ここに連れてきたってわけ。要は人質ね。怖いかもしれないけど、もう少し大人しくしてて。ここは安全だから。あともうちょっとしたら来る頃だろうし」


 と、どこか明後日の方向を向いて大河は言った。いまの彼女には一体なにが見えているのか文子には想像もつかない。


「それでね、その野暮用が終わったら私――友達が欲しいの」


「と、友達……」


 私たちはもう友達でしょ、と言うことはできなかった。


「彼の始末が終わったら、あなたには私と同じになってもらおうと思って。あいつらを見ることができたあなたなら、私と同じように大丈夫だと思うの。いままでは失敗しちゃったけど、今回はうまくいくと思うの。どう? この楽しい世界で楽しいことができるのよ。魅力的だと思わない? ふふ、怖がらなくてもいいわ。痛いことはしないから。だって友達だもの。そんなことさせたくないじゃない? どうしてそんな顔をしているの?」


 大河の問いに文子は答えることができなかった。狂気に満ちた笑みを浮かべる彼女のことが怖かったからかもしれない。


「ま、彼の始末が済んだら、あなたの意思に関係なく私と同じようになってもらうけど。友達だもんね。一緒の方がいいでしょう?


 でも、いまここまでにしておきましょう。彼がやってきたようだから」


 じゃあね、と言って、倉庫から出て行く大河。いまの彼女が身に纏っていた、人ならざる匂いだけがわずかに残される。


 わたしはなにもできない。倉庫に取り残された文子は、その敗北感に支配されるばかりであった。

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