第95話 巨大な質量

 炎司は目の前を見据える。そこには巨大な黒い塊が重圧感を放ちながら、悠然と存在していた。


 守護者といういままででも最大の強敵は倒した。だが、この事態を引き起こしている元凶はまだ倒していないのだ。あれを倒すまでは、こんなところで倒れてなどいられない。この街を破滅させないためにも、あの黒い塊だけはなんとしても破壊しなければならないのだ。


 しかし、あれにこのまま近づいても大丈夫なのだろうか? 先ほど近づこうとした時、何故か距離がなかなか縮まってくれなかった。それがただの偶然だとか、見間違えとかだとは思えない。それには、なんらかの原因があるはずだ。それを突き止めなければ。


 炎司は宙を蹴って加速する。


 巨大な黒い塊は、相変わらず大量の黒い水を垂れ流していた。黒い水はどんとんと街を満たしていく。巨大な黒い塊から垂れ流された黒い水の水位は、いつの間にかほとんどの建物を呑み込んでいた。果たして、いつまで保つのだろうか。この異常を認識できてしまう人が増えているのは明らかだ。早く、なんとかしなければ。それに、このまま水量が増えていけば、先ほど救出した人たちが再び黒い水に呑まれてしまう。その前に、なんとかしなければならない。


 巨大な黒い塊にさらに近づく。だが――


「どうなってる?」


 炎司は言葉を洩らす。


 やはり、距離が縮まっている気がしない。もう巨大な黒い塊は静止している。なのに、何故か距離が縮まらない。自分が錯覚しているとはどうしても思えなかった。一体、なにがどうなっているのだろう。なにか、知らないうちに干渉されているのだろうか?


 とはいっても、なにかしら干渉を受けているのであれば、自分には察知できるはずだ。こちらに察知されずに干渉できるとは思えない。一体、なにかこの現象を引き起こしているのだろう?


 その時――


 巨大な黒い塊からなにかが飛び出した。巨大な黒い塊の中に保存されていた『裏側の住人』だ。ルナティックは、一体どれほどのものを保存していたのだろう。その無限のように思えるその物量に炎司は恐れを感じた。


「なんだ?」


 巨大な黒い塊から出てきた『裏側の住人』はやけにその動きが遅かった。異様なほどのスローモーション。目の前で引き起こされている不可解な現象に、炎司は困惑した。


 やけにゆっくりと出現した『裏側の住人』はすぐに炎司を見定める。鳥のようにも人間のようにも見える形態の『裏側の住人』だった。やはり、その動きも遅い。どうしてあんなに動きが遅いのだろう? いままでそのような現象は見たことがない。


 異様なほどゆっくりとこちらを見定めた鳥人間は、翼をはためかせて炎司に向かって近づいてくる。それも同じくやけにスローモーション。『裏側の住人』が狙ってそんなことをやっているとは思えなかった。


 こちらに近づいてくる鳥人間は、だんだんとその速度が上がってくる。なにが、どうなっているのか。困惑に襲われたが、敵が現れた以上、そんなことなどしていられない。炎司は近づくのを中断し、こちらに飛んでくる鳥人間を待ち受ける。


「――――」


 鳥人間はこの世のものとは思えない叫び声を上げ、炎司に向かって無数の羽根を飛ばしてくる。炎司はそれを目の前に炎を放って一気に焼き払う。それから、宙を蹴り、鳥人間に一気に近づこうとする。


 だが――


 いつの間にか鳥人間の方が炎司に近づいており、度肝を抜かれた。なにが起こった? 炎を放つ前に、相手との位置関係は把握していたはずだ。なのに、どうして相手に先んじられている? 加速した鳥人間は、禍々しいかぎ爪を振るった。炎司は胸のあたりを深々と引き裂かれる。炎司は鳥人間を蹴りつけて後ろへと飛に距離を取った。


「――――」


 鳥人間は叫び声を上げ、羽根をはためかせてこちらに近づこうとした。何故か、その動きは遅い。『裏側の住人』である鳥人間が、わざとこんなことをするとは思えない。炎司はその隙だらけな鳥人間に向かって、炎を放つ。青く輝く炎は鳥人間に命中した。


 どういうことなのかわからないが、あれに近づくのは危険だと判断した炎司は、さらに後ろへと距離を取る。青い炎をかき分けて、鳥人間が現れた。その動きはやっぱり遅い。炎司は、炎の斬撃を無数に放つ。何故か動きの遅い鳥人間は、炎司の放った斬撃によって細切れにされ、溶けるように消滅する。


 どういうことなんだ? 炎司の中にさらなる疑問が湧く。あの『裏側の住人』が、なにか意図的に動きを遅くしていたわけではないのは明らかだ。敵対している自分を目の前にして、わざわざそのようなことをする理由がない。であるなら、この影響は自分にだけ発生しているわけではないということになる。


『そうか』


 そこで、ノヴァの声が響く。


「なにかわかったの?」


『ああ。自分たち以外の存在を認識して、はじめてわかった。我々がどうしてあれに近づけないのか。そして、どうして我々を前にした〈裏側の住人〉があのようなわけのわからない挙動をしたのか、すべて』


「どういう、こと?」


『結論から言おう。我々が近づけなかったのか、いやこう言うべきか。近づいていないように見えなかったのは。あの巨大な黒い塊が巨大な質量を持っているからだ』


「それはわかっているけど、さっきの『裏側の住人』のおかしな挙動と、こっちが近づけない理由がそれになんの関係が?」


『巨大な質量は時間と空間に影響を及ぼすのは知っているか?』


「詳しいことはよく知らないけど、それくらいなら」


 それは一般向けの科学本に書いてあることだ。物理学を専攻していない炎司であってもその程度のことくらいは知っていた。


『巨大な質量は空間を歪める。では、時間にはどのような影響を及ぼすかわかるか? 巨大な質量は時間の流れを遅くする。あれ近づけば近づくほど、我々の時間は遅くなっていく。だから、我々はあれに近づいているようには見えなかったんだ。


〈裏側の住人〉の動きがやけに遅かったのも同じだ。巨大な質量によって時間そのものを遅くしているのなら、出てきた〈裏側の住人〉も同じく影響を受ける。あれから離れれば離れるほど、時間の流れは通常に戻っていくはずだ。だから、離れた位置からあれに近い位置にあった〈裏側の住人〉の動きが遅く見えたのはそのためだ。


 きっと、他者から見れば、あれに近づいていく我々の速度はどんどんと遅くなっていたように見えたはずだろう。我々は一切遅くなどしていないはずなのにな』


「じゃあ、あれには近づけないってこと?」


『近づけないわけではないが、近づけば近づくほど巨大な質量の影響を受けてしまう以上、近づくのは危険だな。下手をすれば、脱出できなくなる可能性もありうる』


「じゃあ、どうやってあれを壊せば――」


『簡単だ。あれに大量のエネルギーをぶち込めばいい。物理学の理論で、あれが巨大な質量を保ったまま存在しているわけではないだろうが、保持できる質量には必ず限界が存在するはずだ。その限界を超えれば、あれは崩壊する。あれを操っていたルナティックがすでに存在しない以上な』


「でも、あれを壊すほどのエネルギーをぶち込んだりしたら、街がどうなるか――」


『崩壊が起こった直後、すべてのエネルギーを上に逃がせ。そうすれば街を破壊せずに済む。それに、あれはそもそもこちら側に存在するものではない。いまの段階では、あれを認識できるものだけに存在するものだ。だから、あれの崩壊の際に発生するのはお前が放ったエネルギーだけだ。いまのお前になら、必ずできる』


「……わかった」


 いつ、なにがあの巨大な黒い塊から出てくるかわからない。破壊するのならいまがチャンスだ。いま持てる限りの力を流し込んで、あれを崩壊させるのだ。


 炎司は、腕に力を溜める。再び弁を解放し、自分の身に流れ込んでくる圧倒的なエネルギーのすべてをあれに流し込むのだ――


 炎司は、腕から力を解き放つ。自分の手から放たれるそのエネルギーに焼かれてしまいそうだった。


 それでも、耐える。


 耐えて、耐えて、耐えて、そのエネルギーを放ち続ける。あの巨大な黒い塊が崩壊を起こすまで、力を放ち続けるのだ。


 巨大な黒い塊から、決して目を離さない。

 崩壊の瞬間を、逃さないために。


 その時――

 巨大な黒い塊に異変が生じるのが見えた。その瞬間を捉えて――


 解放されるエネルギーを上へと逃がす。


 どこまでも続くような青い光が天を衝いた。ほんの一瞬だけ、暗い夜を真昼のように輝かせる。それは、どこまでも上に伸びていき――


 この街を支配するように存在していた巨大な黒い塊は消滅した。


「はは……」


 思わず声が出た。こんな、途方もないことが自分にできるなんて、思いもしなかった。これで、この街にあった脅威は――


 巨大な黒い塊があった場所に、まだなにかがあった。崩壊した巨大な黒い塊の残骸に見えた。あれを壊せば、すべてが終わる。炎司は宙を蹴って、近づこうとした。


 崩壊後に残ったそれは、この街に垂れ流していた黒い水を一気に吸収して――

 人の形となって顕現する。


 どうやら、あれを倒さなければまだ終わらないらしい。

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