第35話 宴の始末
狂乱に襲われていた街が静かになっていく、それが感じられた。
相変わらず、文子の身体は動かないままだ。まだ薬が残っているのだろう。だから、街がいまどのようになっているのかは見ることはできない。窓は自分の身長よりもずっと高い場所にある。たとえ薬が残っていなかったとしても見えなかっただろうが。
自分は結局なにもできなかった。
街でなにか起こっているときも、こうして動けなくなっているだけだった。
悔しいと思う。
しかし、なにもできなくて当たり前だ、とも思う。
だって、この街で起こっていたことは、自分のようなただの大学生にどうにかできることではないのは確かだったから――
大河はどうしたのだろう。
それに、この街で戦っていただろうあの青年は――
そこで、文子は大河が言っていたことを思い出した。
彼は自分の恋人である吉田正幸である、と。
そして、その正幸は別の人間になっている、なんてことも。
あれはどういう意味だったのだろう。
よく、わからない。
大河がそんなことを言った意味も、彼女がどうして街をこんな風にしてしまったのかも、なにもわからない。
でも、この街で起こっていたことも、自分の前に突きつけられたことも、すべて現実であることは理解できた。
狂気に満ちた笑いを見せていた大河のことを思い出す。
どうして彼女は、あんな風になってしまったのだろう。
あの娘のことはよく知っていると、思っていたのに。
結局、自分は親友であるはずの相手のことすらなにもわかっていなかったのだ。
本当に無様だ。
だけど、人間なんてそんなものなんだろう。
誰もが知りもしないのに、知った気になっているだけ。それに気づかずに生きていく。それが人間という生き物なのだ。
それは嫌な現実だけれど、現実なのだから仕方がない。現実をどうにかできるほど、強くもないし能力があるわけでもないのだ。それは嫌でも飲み下していくしかないのだろう。
なんとか四肢に力を入れて立ち上がろうとする。
生まれたての小鹿みたいに手足が震えて、壁に寄りかかって立ち上がるのが精いっぱいだった。
それでも前に進まなくてはならない。
大河がどうなったのか、知らなくてはならないから。
なんとか壁を伝って進んでいくと扉に差しかかった。鍵をかけられていると思ったけれど、その予想に反して扉は簡単に開いた。大河は薬を盛っているから鍵なんてかけなくてもいいと思ったのかもしれない。
文子は外に出る。
そこには、東京とは思えない光景が広がっていた。どこに目を向けても痛ましい光景が広がっている。歴史の本で見た、戦後の東京のような光景。人々は傷つき混乱し、建物はその多くが破壊されている。かつての日本と違うのは、それがわけのわからない怪物どもによって引き起こされたことだろう。
この街でこれに遭遇した人たちは一体なにを思うのだろうか。怪物どもが現れて街が破壊されたなんて、この街の住人以外誰も信じてくれなさそうだ。
文子は覚束ない足取りで街を進んでいく。街にはまだあの怪物どもが残していった悪臭が残っていた。でも、怪物の姿はどこにもない。いつか見た、黒い水や黒い塊もなくなっている。
両親に連絡した方がいいだろうかと思ったけれど、大河にさらわれた自分はスマートフォンを持っていなかった。
これからこの街はどうなるのだろう、と思ったけれど、それは自分が考えることではないのだろう。どうせ、自分にできることなんて、たかが知れているから。
「金元」
後ろから、自分を呼ぶ声が聞こえた。どこかで聞いたことのある声だ。文子は後ろを振り向いた。
そこには以前自分を助けてくれた青年の姿があった。しっかを顔は見えているはずなのに、何故かその顔は認識できなかった。本当に彼は正幸なのだろうか。どうにも確信が持てない。
「あ……」
がくり、とまだ動いてくれない足がもつれて転びそうになる。しかし、文子は転ばなかった。彼が自分の身体を支えてくれていたからだ。
「大丈夫?」
彼の声はどこか緊張しているように思えた。どうしてだろう、と思っていると、不意に自分の身体が温かくなって――
身体を支配していた倦怠感が消えていることに気づく。
「これで、歩けるようになったと思うんだけど」
青年はどこか恥ずかしそうに言う。それにはまだどこか固さが感じられて、少しだけおかしく聞こえた。
それから青年は、文子と相対して――
「俺は、きみの友達を殺した」
と、厳かな口調で言った。
それを聞いて文子は、ああ、やっぱりと納得した。
「彼女がこの街をこんな風にしたのは間違いない。だからといって、彼女がきみの友達であったこともまた事実だ。その相手を俺は殺してしまった。多くの人を助けたいからといって、それが許されることだとは思えない」
青年は、少しだけ悲しそうな口調になって告げる。
「それに俺は、きみの知っている吉田正幸じゃないんだ。それは説明しづらいことだから、詳しくは言えない。きみの大切な彼氏を奪ったことも事実だ」
文子はなにも返せなかった。なんと返せばいいのかわからなかったからだ。
「だから、俺のことは恨んでくれて構わない。きみが持つであろうその感情を受け止めるつもりだ。だから――」
すまない、とだけで青年は言って、まだ暗闇に包まれた街に飛び上がってすぐにその姿は見えなくなってしまった。
残されたのは、文子ただ一人。
恨んでくれてもいい、そんなことを言われても、文子にはどうしたらいいのかわからなかった。
だけど――
大河は、この街に混沌に陥れた大河は死んでしまったのだ。それが現実だとわかると、とても悲しくて――
自分の目から、涙が流れていると気づいたのは少し経ってからのことだった。
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