第42話 再開の合図
「お疲れさまでした」
炎司はまだ残っている主任にひと言挨拶をして、バイト先から出ていった。外に出ると、街はすっかり夜の闇に閉ざされている。しかし、そこにあるのはどこにでも見られる普通の夜の街だ。おかしな黒い水も塊もなにもない。当然、ちゃんと認識できない怪物も、宙に浮かぶ黒い球のようなものもない。
だけど――
この街も、別の世界で見たようになってしまう可能性がある。そう思うと炎司は恐ろしくなった。
いまでもあの世界で起こったことはすべて覚えている。
受けた痛みも、自分の失態のせいで街がどのように血と狂気と暴力に渦に襲われ、破壊され、そこにいたなんの事情も知らない人々が痛み、苦しみ、死んでいったのかも、ちゃんと。
確かに、自分は未曽有の脅威に襲われた、ここではない黒羽市を救ったのかもしれない。だが、多くの救えなかった人が、傷ついた人がいたこともまだ事実なのだ。彼ら、彼女らの犠牲は決して正当化していいものではない。あそこで起こった悲劇は、自分が手を鈍らせなければ、起きなかったかもしれないのだから。
自分が暮らしているこの黒羽市では――そんなこと起こしたくない。
いや、違う。
ここだからこそ起こしてならないのだ。
一度犯してしまった過ちを、繰り返すわけにはいかない。
誰が『裏側の住人』の残骸を手に入れたのかは知らないが――必ずその場所を突き止め、決定的な出来事が起こる前に処理しなければ。
――やっぱり、夜歩くのは不安だな。
ここではない黒羽市での記憶をはっきりと覚えている炎司にとって、夜の街を歩くのは不安だった。あちらでは、夜はこの世とは思えない世界に変貌していたからだ。わけのわからない黒い水と塊に満たされて、認識できない怪物が跋扈する異界都市。それが、自分が少し前までいた黒羽市だった。
ここは違うというのはわかっているのだが、それでも夜を出歩くのはまだ怖れがある。そこに暗い裏路地から、怪物が出てくるのではないかと思えてしまう。
『怖いか?』
炎司がそんなことを考えていると、ノヴァが語りかけてくる。姿は見えないけれど、近くにいることがしっかりと感じられる不思議な感覚。その冷徹な声を聞くと、夜を歩く不安に襲われる炎司もいくらか和らいでくれる。
「うん。別の黒羽市での記憶がはっきりと残ってるからさ。いつ怪物が出てくるんじゃないかと思って」
炎司は感じている不安を素直に打ち明けた。
『その気持ちは理解できる。たった数日とはいえ、劇的な日々だったのだ。そのときの記憶が焼きついてしまっても無理もなかろう。だが、起こってもいないことを必要以上に恐れるのはあまりよろしくない。用心は大事だ。しかし、必要以上の恐れは手と足を鈍らせる。それを忘れるなよ』
ノヴァは冷徹な声でそう述べる。
やっぱり――彼女の声を聞いていると安心する。炎司が窮地に陥ったとき、いつもぶっきらぼうな口調ながらも叱咤してくれたのはノヴァだけだったから。
ノヴァがいなかったら、炎司はきっと戦い抜くことはできなかっただろう。あらためて、心からそう思った。
『……どうした?』
「いや、なんか変わってないなって思って」
『それはそうだろう。お前と別れてからさして時間など経っていないのだ。なにぶん私の時間間隔は人間とはまったく違う。その程度で変化するほど――』
ノヴァの言葉がそこで急に途切れた。
と、思った直後――炎司の後頭部に強い衝撃が走る。背後から訪れた突然の衝撃に炎司はたたらを踏みバランスを崩してしまう。
「が……」
突然脳を揺さぶられた炎司はうめき声を上げる。
なにが起こった――背後を振り向こうとすると、今度は腹に思い切りなにかが突き刺さった。
「ぐ……」
鳩尾に突き刺さったそれで炎司は一瞬呼吸ができなくなる。それでもなんとかバランスを立て直し、炎司は攻撃を仕掛けられた方向を振り向いた。
そこには――
自分と同じくらいの年代の男がいた。手には、武器らしいものはなにも持っていない。ということは、背後から殴られ、そのあと蹴りを入れられたのだろう。
しかし――その目は明らかに常軌を逸している。ぎょろぎょろと眼球が独立した器官のように不気味に蠢き、炎司を見据えているように見えるが、その目にはなにも映っていないことは明らかだった。
ただの変質者でも、物盗りでもない。
『気をつけろ』
そこでノヴァの声が脳内に響く。
『お前を襲ってきたあいつは――〈残骸〉に侵食されている』
「な……」
炎司は驚きの声を上げた。
「裏側の住人に侵食されてるってどういうこと? もしかしてあいつが『残骸』を――」
『違う。そこにいるそいつは『残骸』を持っているわけではない。その影響を受けているようだ。恐らく、持っている奴になにかされて、ああなったのだろう』
ノヴァの声が聞こえると同時に、男が道路を思い切り蹴りこんで炎司に向かって突撃してくる。その速度は明らかに人間の範疇を超えていた。
しかし――その程度ではいくつもの戦いを生き抜いた炎司は驚かない。さっと、半身を逸らして、その攻撃を回避する。男は思い切り、電柱に激突した。
『お前に襲いかかっているのは――自分を強く認識できるものに近づくという〈裏側の住人〉の性質のせいだ。あれをただの人間だと思うな』
電柱に激突した男は何事もなかったかのように立ち上がった。真正面から電柱に激突したせいで鼻はひしゃげて、大量の血を流している。だが、まったくそれを気に留めている様子はない。
「――――」
男は人間の言語とは思えない叫び声を発して再び炎司に向かって突撃してくる。その様子はもうすでに人間ではなく、色に興奮して襲いかかってくる猛牛のようだった。
人間の限界を超えたスピードで突撃してくる男を、今度は真正面から受け止める。クロスさせた自分の手に向かってかみついてくる男。口から見える歯は、そのすべてが鋭い乱杭歯となっていた。炎司の腕がぎちぎちと音を立てて血を流していく。その姿はとても理性ある人間とは思えなかった。
「この……」
炎司はかみつかれた腕を思い切り押し込んで男を弾き飛ばす。男は二、三歩後ろによろめくが、すぐにこちらに向かってくる。口と鼻から、血を滴らせながら。
「なんとか助けられないの?」
こちらのことなど一切気に留めず手や足や口を振り回してくる男をなんとかいなしながら、炎司はノヴァに向かってそう叫ぶ。
『できるが、なんとかしてそいつを動けないようにしなくてどうにもできん。殺してしまった方が早いが――』
殺す――その言葉を聞いて炎司はどきりとした。
「殺すって、この人はただ『残骸』を持ってる奴になんかされてこうなってるんだろ? 殺すなんて――」
あれだけ憎かった大河を殺したときですら、かなりの自己嫌悪に襲われたのだ。なんの罪もない人を殺すなど――できるほど、炎司は割り切れていなかった。
殺すわけにはいかない。
だけど――向こうはこちらを殺すつもりで襲いかかってくる。
どうする?
いや、なにをやるべきなのかわかっている。
――思い出すのだ。
自分に刻まれた誰かの記憶を思い出し、『裏側の住人』に侵された男を救う方法を見つけるのだ。
それしか――ない。
炎司は臨戦態勢のまま、自分の記憶を掘り返していく。
どんどんと思い出される自分のものではない『誰か』に記憶。自分の脳を最大限に回転させながら、自分ではない記憶を思い出していく。
「――――」
男が絶叫し、こちらに突撃してくる。やはり、その姿には理性が一切感じられない。ものすごいスピードで突撃し、振り回してくる手足をかわし、炎司はカウンターを入れる。動きこそ早いが、大振りなのでカウンターを入れるのは簡単だった。
カウンターを食らった男は三歩ほど後ずさりする。動きが止まったその一瞬の隙をついて、炎司は彼の後ろに回り込んだ。
彼の背中に手をあて、彼に向かって、力を解き放つ。
傷つけるためではなく、彼の身体を侵している、『裏側の住人』の力を浄化するために放ったその力で、あたりは閃光に包まれて――
その光が消えると同時に、男は糸が切れた人形のように、炎司の腕の中に崩れ落ちた。
「大丈夫……かな」
腕の中で崩れ落ちた男に視線を向けてみる。動き出す気配はなかった。
「救急車……呼んだ方がいいかな?」
『うむ。結構な重傷を負っているからな。呼んだ方がいいだろう』
ノヴァのその言葉を聞いて、炎司は生まれて初めて一一九番を押した。
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