46・愛してる
政府に宛がわれた殺風景な部屋は、何年経っても生活感がなかった。そこで暮らしているというわけではなく、ただ寝泊まりに帰るだけの場所。
研究が終盤にさしかかると、政府ビルから数キロ離れたマンションの一室にいる時間が少しずつ増えていった。だが、それはエマードにとって特に喜ぶべきことではなかった。むしろ、心の中にぽっかりと空いた穴が徐々に広がっていくような虚無感に襲われる。気がつけばベッドの上で寝転がり、無意識に浮かぶ彼女の顔。何を考えているのかと頭を振り、目頭を押さえた。
彼は自分の中に生まれた初めての感情に苛んでいた。それは彼にとって、決して許されぬ感情だったのだ。
眠れず、明かりも消さずにベッドの上でぼうっと過ごしていたその日、夜中にもかかわらず誰かがドアをノックした。不審に思いながらもドアへ近付いたエマードを待っていたのは、女の声。
「私よ、エマード博士。エレノア」
ドアの向こうに、彼女が立っていた。
眠れなくてどうしても会いたくてと言う彼女を、彼は部屋に入れる。
「眠れないのは俺も一緒だ」
疲れたように微笑むエマードの顔を見て、エレノアも小さく笑った。
殆ど使われたことのないキッチンからコーヒーの良い香りが漂うと、彼女は普段人に気を遣うことのない彼の意外な一面を見たような、驚いた顔を見せた。こんな部屋でも一応それなりに生活はしているのだと言わんばかりの態度は、研究室では見られない不器用な彼の本質そのものなのだろう。
小さなテーブルを挟み、出されたコーヒーを無言で啜っていた彼女だったが、気がつくとエマードの顔をまじまじと見つめていた。
「いつものオーリン女史らしくない」
彼女の自宅はマンション群の別棟にあったはずだ。わざわざ訪れるには、それ相応の理由があるに違いなかった。
「私があなたのことをどう想っているか知っていて、でもあなたには私の入る隙はない。それって、どれくらい苦しいことかわかる?」
思いがけないセリフに、エマードは彼女からそっと視線をずらした。
「あなたのことを知りたくて、私はあなたのことをたくさん調べたわ。NCC――No Code Childrenは私も知ってる。遺伝子操作、実験体、キメラ。兵器の扱いに開発、それから特殊部隊。それが何だって言うの。あなたはあなたに過ぎない。違うの」
とても彼女と向かい合えるような気持ちではなかった。
エマードは席を立ち、頭を抑えて壁にもたれかかった。
彼女の口から出て欲しくなかった様々な言葉が、痛いくらい胸に突き刺さっていた。
「過去も秘密も全部ひっくるめて、私はあなたのことを愛したいの。私はずっと、あなたの側に居続けたいの」
立ち上がってエマードに近付く彼女の気持ちは嬉しかった。
だが、
「だめだ。俺と一緒にいてはいけない」
彼は首を振って彼女を拒んだ。
「どうして。どうしてダメなの」
「君は本当の俺を知らない。数え切れないくらいの人間を平然と殺し、今もぬけぬけと生きているような恐ろしい男だぞ。何より、俺は俺自身をコントロールしきれない。いつまた誰かを殺してしまうかも知れない爆弾を抱えているような状況で、どうやって君を受け容れろと言うんだ。君は俺とこれ以上関わらない方がいい。君とは共同研究をした、それだけの仲だ。君が知っているとおり、俺はNO CODE、つまり人間じゃない。人間の定義から外れた人型の哀れな生き物だ。君はそういう対象として俺を見るべきじゃない」
声は震えていた。
彼の眼鏡の奥にうっすらと涙が浮かんでいるのを、彼女は見てしまった。
「――私は、最初からあなたのことを一人の男性として見てきたわ。あなたの秘密を知っても、私の気持ちは変わらない。もしかして、私のことが、嫌い?」
「そういう質問には答えられない」
「ずるい」
言って彼女は手を伸ばし、そのまま彼の胸に頭を埋めた。
柔らかく優しい彼女の匂いがエマードの鼓動を早くする。細い腕が背に回され、彼女の体温がしっかりと感じられる。堪らず抱き返していた。
言葉には出来なかった。本当はエレノアのことばかりを考えていたなどと。
愛されたことはない。誰かを愛したこともない。
でもどこかで誰かを愛し愛されたいと思っていたのだ。
首をもたげ、静かに目を閉じる彼女の唇に、彼はキスをする。互いの唇が重なり合うと、頭の中が真っ白になっていった。
彼女の全てが欲しい。
「抱いて」
甘い声に、彼は耐えられなかった。
本能の赴くまま身体を求める。冷静さを失う。
それは、彼の知らない心地いい狂いだった。肌を重ね合うことでえられる興奮は何物にも代え難い。溺れていく。
自分が何者なのかさえ、既にどうでもよくなっていた。結果がどうなろうと、そのときの彼にはどうでもよかった。
ただただ、彼女と愛し求め合う。心の隙間を埋めていくように。
**
一度知った温もりを手放すことは出来ない。
エマードはエレノアとの関係を更に深めた。
後戻りできぬほど彼女に浸り、抱いた。
性交という行為に彼は癒しを求め、彼女もそれを受け容れる。
背徳感は常にあった。
NO CODEと自分の身体の秘密を思い出さなかったわけではない。だが、それ以上に彼女と過ごす時間が欲しかったのだ。
**
数ヶ月が経ち、研究の集大成とも言うべき新型の転移システムの最終チェックを行う頃、エレノアは神妙な面持ちで一人研究室に残るエマードに声をかける。
「赤ちゃんが、出来たみたい」
恥ずかしそうに顔を赤らめる彼女のはにかんだ笑顔は、やがてエマードを地獄の底へと突き落としていくことになる。
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