32・動き出す闇

 ジュンヤは飛空挺の自室でベッドに座り、手元の装置をじっと見つめていた。

 リーがなぜ自分にこれを渡したのか。それはきっと信頼の証だと、ジュンヤは思い込んでいた。あの、ディック・エマードという恐ろしい悪魔と共に戦ってくれという無言の協定であると。

 手のひらの中の赤い携帯端末。液晶画面に映る世界地図。アジア大陸を横切るように赤い点が移動している。メニューボタンから“メッセージ作成”を選択。


「一時間後……EUドーム」


 ──送信。

 つい先ほど船内放送で聞いたそれを、彼はリーに知らせる。


「後戻りは、もう、出来ないな」


 薄暗い室内、端末をポケットにしまうジュンヤ。大きく深呼吸する。

 真っ黒なスーツに身を固め、きゅっと唇をかみ締めた。彼に今までの面影はもうない。鋭い眼光、漂う殺気。ES要塞の中で彼にだけ漂う異質な空気。 


「俺は、俺の選んだ道を行く」


 短い髪の毛をきゅっと立て、気合を入れた。すっくと立ち上がると、ジュンヤは意を決して部屋を飛び出した。

 ──力強く開いたドアの向こうに、エスターがいた。いつからそこに立っていたのか、酷く驚いている。両手で口を押さえ、二、三歩下がる。


「あ、ご、ごめんなさい。こんなところで立ってた私が」


 ジュンヤの個室の前、薄明るい廊下の光。ぼんやりと浮かび上がったエスターの表情は、少し前より明るくなった気がした。


「どうした」


 彼はふと、彼女の足元を見た。その側に控える犬型のロボットに、ジュンヤは見覚えがない。

 無機質でシャープな作り、ドーベルマン。あの男が作ったに違いない。そう思うと無意識にロボットをにらみつけていた。

 ジュンヤの威嚇に反応し、フレディも臨戦態勢に入ったかのように唸り始める。

 機械の擦れるようなギリギリとした音が狭い廊下に響いた。


「フレディ、なんて音を出すの。やめなさい!」


 エスターが牽制し、屈んで背を撫ぜるとようやく犬は大人しくなる。

 それでもまだフレディは、小さな唸り声を止めなかった。


「ごめんね。今までこんなことなかったのに。どうしたのかな。この犬、フレディっていうの。パパが作ってくれたのよ」


 彼女は優しく犬を抱きしめ落ち着かせると、ゆっくり立ち上がってジュンヤを見上げた。


「最近、どうしたの。あれ以来、殆ど顔を見ていなかったから心配で」


 彼女の瞳は、いつもと同じく透き通っている。純粋で人を疑うことを知らない、無垢な少女。

 この美しい人を、あの男が父親であるということを盾にもてあそんでいることが許せなかった。


「EUドームに着いたら、俺は船を下りるよ」


 ポツリと呟くジュンヤ。

 そのさりげない一言に、エスターは地に落とされる。


「どういうこと、ESを抜けるってことなの?」


「ああ」


「そんな、どうして……。抜けて、それからどうするの」


 よろめき、壁に背を預ける。少女から笑みが消えた。


「エスター、君は何にもわかっちゃいない。ここにいたって、俺達は何も出来ない、何も変われない」


 足早に去ろうとするジュンヤを引きとめようと、エスターは彼の背広の端をくいと掴んだ。待ってという言葉が、なぜかすんなり出てこない。

 布端が指の間をすり抜けていく。

 もしかしたら、ジュンヤはこのまま帰ってこないかもしれない。手の届かない遠くの世界へいってしまうような気がする。

 小さくなっていく背中、彼女の胸は嫌な予感に押しつぶされそうだった。



 *



 政府ビルの最上階、総統執務室に集う特殊任務隊のメンバーたち。豪華な応接コーナーにどっしり腰を据え、それぞれが不穏な空気を漂わせる。

 チームを組んではいたが、彼らは互いに心を許し合っているわけではなかった。総統の命により掻き集められた烏合の衆。それぞれが思い思いの服装で、見た目全くまとまりがない。チームリーダーのケネスが目を光らせなければ好き勝手やりたい放題、危険集団に他ならない。


「その、“ジュンヤ”という男は本当に使えるのですか」


 軍服のケネス・クレパスが低い声で、執務机でワインを味わう総統に問う。

 リー総統はにやりと含み笑いし、赤ワインで満たされたグラスをそっと机に置いた。


「彼の利用価値は“試験体E”を回収できた時に、初めて認められるものだ。過剰な期待はすべきではない。──しかし今の時点では、確実に彼女を無理なくこの場へと引き入れるための布石にはなるだろうと判断した。私の読みが間違っていなければ、だがね」


「つまり、憶測に過ぎないというのですね」


 銀縁の丸眼鏡をかけたメンバー最年少の青年、ロイ・グレイが声を上げる。シックな黒い服を無理なく着こなし、天才肌を見せつけるように眼鏡をくいと人差し指で突き上げた。


「素性も知らない敵方の人間を、こちらの協力者として招き入れるのは、どうかと思いますが」


「素性? ロイ、君はそんなくだらないものに固執するのかい。彼はESの創始者の息子だよ。ただそれだけだ。他には何もない」


 さらっと言ってのけるリーに、それまで黙っていた最年長の老人スウィフトが重い口を開いた。


「敵の……中心人物の一人、ということですかな。そんな男を何故。わしには理解しかねる」


 その発言に、一同が頷く。


「説明不足で申し訳ないな」


 リーはぐるっと、全員に目配せした。それからにっと唇の端を上げ、話を続ける。


「どうやら“E”は、その男に想いを寄せているようなのだ。男は純真で、私の思惑通りに動くタイプ。何の疑いもなくこちら側にやってくるはずだ。彼の協力は、あの忌まわしきディック・エマードへの報復と“E”の回収の足がかりとなる。──そういうわけだから頼むよ。君らが協力してくれないと困るんでね」


 両手の指を絡め微笑むリーに見つめられ、メンバー唯一の女性パメラはソファーの上で顔を赤らめた。その様子を隣で見ていたエドモンド・ケインは不満そうに顔をしかめる。


「すぐに納得してくれとは言わない。全ては彼次第だからね。あれから数日経つ。私からの贈り物、そして言葉に、彼の思考は少しずつ捻れていったはずだよ。楽しみだね。もうそろそろ、ショーが始まる」


 総統の意味ありげな言葉に、彼らは目を見合わせた。

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