31・打診

 食堂が賑やかになる前にディック・エマードは席を立った。誰に遠慮してか、身を隠すように遠回りして自室に戻る。

 ドーナツ状に部屋が並び、緩いカーブを描く単調な廊下が続く。最下層のエンジンルームから船体を貫くように伸びた柱状の機械室。その扉の一つから見覚えのある影がスッと現れ、ディックの足を止めた。


「ちょっと話が」


 人目憚るように左右を見回し、手招きして室内にディックを引き込んだのは、ハロルドだった。

 分厚い扉が閉じ、普段は真っ暗な機械室に明かりがともされると、ディックはいかにも面倒そうに顔を歪ませた。


「何の用だ」


「まあまあ、そう怒りなさんな」


 事件の日からじっと籠もりきりだったディックを待っていたとばかりに、ハロルドは少し興奮気味にポンポンと彼の肩を叩いた。壁に立てかけられていた作業用の背の低い脚立を二つ広げ、まず座れと促してくる。


「お前から色々聞かされて、俺も最初は参った。だけど、こんな俺でも力になることがあればとあれから思案してたんだ」


 ハロルドの声は明るかった。まるで子供みたいににこにこと頬を綻ばせる彼に悪気はない。話題が話題だけに、ディックはそんな彼の態度が少し気にくわなかった。


「思案して何とかなるものだったのか」


 仕方なく脚立に座り、腕組みをしてハロルドの中年顔を睨み付ける。


「そういう怖い顔をしない。俺だって役に立つことくらい出来るさ。こう見えて顔が広いんだ」


「顔が広い? それが俺と何の関係がある」


「長年あちこちで働いて今はここにいるわけだが、政府で運び屋をしていたときに面白い男と出会ったのを思い出した。今でも偶に連絡を取り合ってる。そいつと会ってみる気はないか」


 唐突な誘いにディックは目をしばたたかせた。


「何を言い出すかと思えば」


 期待していたわけではないが、役立ちたいといった割に結局他力本願かとため息が出る。くだらんと一言、立ち上がろうとするディックの白衣の端を、ハロルドはぐいと引っ張った。


「会わせたいのにはきちんとした理由がある。――俺が未だ政府にいた五年ちょっとくらい前のことだ。初めてEUドームで出会った時、そいつ妙なことを口走っててな。“ハッキング”がどうの“メイン・コンピューター”がどうの。ヤツは技術屋なんだ、機械系の。裏でも色々やっているようで……あのドームの体質を考えれば別に不自然なことじゃないが、政府の内部事情についても妙に詳しかった覚えがある。確か、お前のことも少しだが知っていた。俺がESに来て、政府の科学者だった男と行動を共にしてると喋ったら、『ああ、あの人か』って。彼ならお前が知らない別の経路からの情報も持っているかも知れない。どうだ、会ってみたら何かわかるかも知れないぞ」


 ハッキングと聞いてディックの眉がぴくりと動いた。無意識に身体がハロルドに向き直っていた。


「どの程度の技術力か知らんが、ハッキングで拾える情報なんてたかが知れてる。最深部まで侵入しなければ辿り着かない真実だって山ほどある。……くだらん。そんなヤツと出会って何がわかるって言うんだ」


「頑なだな。もっと柔軟に生きろよ。せっかく人が手を差し伸べて――。こうなったら意地でも会ってもらうからな。元々EUドームには用がある。そのついでに会うまでなんだ、拒む理由もないだろう」


 最初から決まってましたとばかりに彼は言う。

 とうとうディックは大きくため息をついた。


「……好きにするがいい」


「じゃ、決まりだな。こっちから連絡はとっておく。仕入れのこともあるからな」


 にたっといたずらっぽく笑うハロルドに、ディックは何も言い返せなかった。彼は彼なりに自分のためと思って行動しているらしい。そう思うと複雑で、何を言ったところで丸め込まれてしまうような気がしていた。

 ようやくハロルドから解放されたディックは、機械室を出て再び無機質な廊下を進んだ。

 並んだ個室の一番奥、自室に入るとドアに鍵をかけ、いつものように窓際の机に向かう。分厚い医学書を取り出し、ページをめくった。ドイツ語の古い記述を一文字一文字目で追っていく。

 メンテナンスを終えた飛空挺が、ゆっくりと動き出した。

 眼下に広がる大地、窓の外の景色は彼の目には入らない。美しい色たちよりも、彼の心を捉えるのは知識と文字。時間を惜しむように本を読み漁る。まるで、そうすることが彼自身を生かしているかのように。



 *



 リーの事件から十日。ようやく船は日本を離れ、ヨーロッパへと向かう。そこにはEUドームがある。

 小さなドームが群れを成し、それぞれが通路で繋がれている。それらの一つ一つが巨大な工場。地球上で生産されている食料、工業製品はそこから出荷されている。EUへと向かう理由は、食料生産ドームからの物資補給だ。

 ハロルドはそこにいるというハッカーとの接触を促した。彼からEPT内部の情報を聞き出し今後に備えるというのが、ハロルドの筋書きのようだ。

 その男は果たして信頼できる人間なのか、何故自分のことを知っていたのか。

 ディックの中に疑念が渦巻く。

 もしその男がいつかのジャン・ウェイのように、メイン・コンピュータから自分の情報を探り出しているのだとしたら。考えるだけで寒気がした。

 自分の過去をほじくり返されたくないという想いは、昔も今も変わらない。出来ることなら、自分という存在がこのまま空気中に溶けてそのまま跡形もなく消えてしまえばいいとすら思う。

 しかし、与えられた“自己修復機能”はそれを許さない。

 生きていくことの苦しみ、終わることのない闇。全てが、彼の心を深く傷つける。例え身体の傷が癒えても、どうすることも出来ない。

『強くならなければ生き残れなかった』というメイシィの言葉は、自分自身にも当てはまった。

 本当は脆い、薄いガラスで出来たような心。幾重にも巡らした、頑丈な知識の壁、経験の盾を剥がされれば……きっと、簡単に砕かれてしまう。

 ハロルドが紹介したいという男と会うことは、自分自身にとってよいことなのか。心を丸裸にされ、自分自身を失うようなことが──リーを撃ったときのように──ならないとは限らない。

 窮屈な気持ちを紛らわせるように、ディックは本を読み漁る。少しでも思考を止めればきっと、もっと苦しくなるだろうから。



 *



 島を離れてから半日後、次第にドームがはっきりと見えてきた。ネオ・シャンハイと同じように、しっかりと蔦で覆われたドーム群。巨大な卵をいくつも埋め込んだような異様な光景を、ディックは視界の切れるギリギリのところで感じ取っていた。

 寒気がする。嫌な予感も。

 決して、リーの不気味な笑いだけがそれを助長しているわけではない。

 自分自身の隠し続けていた過去が露呈し始めたことによって、大切にしていた何かが音を立てて崩れていくのを守れない自分自身の弱さ。それが原因の一つであることを、彼は知っている。

 もしかしたら、誰にも話したことがなかった過去さえ全て暴かれてしまうのではないのか。

 ドームが近づくにつれ、ディックの鼓動は早くなっていった。

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