30・不死

「大丈夫。俺は死なない。お前達は何事もなかったようにこの場をやり過ごせ。包丁は俺が抜く。布を用意しろ。血を拭く布と、包帯を」


 メイシィに腹部を刺されたエマードは、包丁で傷が広がらないように注意を払いながら必死に訴えた。

 包丁の刺さった彼の胴体から流れ出す、大量の血液。

 エマードの巨体が石像のように動きを止め自身に倒れ込みそうな角度でいるのを、メイシィは両手で頭を抱え見上げるしかなかった。恐る恐る目線を上げれば、粘っこい汗が男の頬から伝わり落ち、メイシィの顔にぽつりぽつりと熱い雨のように降ってくる。

 あまりの光景、そして二人の関係に戸惑い立ち尽くしていたシロウだが、エマードの形相で我に返り「わ、わかった」と慌てて場を去る。

 二人きりになった。

 メイシィは、自分のしたことに対する恐怖で声すら出せないでいた。

 彼女の口を塞いでいたエマードの手がそっと離れた。


「まさか、お前がシロウの妻とはな。皮肉だ」


 痛みでぐっしょり汗をかいた男は、ふらりとキッチンの壁にもたれ掛かった。彼の白衣は、既に血で染められていた。

 メイシィはいつの間にか自分が泣いていることに気が付いた。

 それが何から来る涙なのか彼女自身にもわからない。自分の過去に対する苦しみか、彼に対する恨みか、それとも感情に突き動かされ彼を刺してしまった自分への哀れみなのか。


「人を刺した感触はどうだ。それで、お前は過去を清算出来ると思ったのか」


 ゆっくりと落ち着いて、しかし、明らかに苦痛に耐えて、エマードは自分を刺した女を見つめている。荒く、辛そうな呼吸。床にしたたる血液。

 メイシィは視線をうろうろさせ、何とか自分を取り戻そうとする。しかし彼女の頭は、彼を刺したという衝撃に蝕まれ何も考えることが出来ない。


「もう一度言う。俺は死なない。お前は、何の罪も犯していない。──お前が刺したのが、俺でよかった。もし自分の夫を刺していたら、お前はこの先生きていくことをやめてしまうところだった。……いかん、喋ると刃の先が内臓に当たる。早く抜きたい。シロウ・ウメモトはまだか……」


 エマードの足元の血溜まりが、どんどん広がっていく。この状態で立っているだけでも、相当な体力が奪われているはず。


「大きめのバスタオルと、包帯を持ってきた、どうすればいい」


 シロウがやっとキッチンへ到着する。彼も、恐ろしさで未だ膝を震わせている。


「タオルを貸せ。刃を抜いたときに、血が飛ばないように」

 頼りないシロウからバスタオルを奪うと、エマードは包丁ごと自分の身体の前方を覆う。そして、タオルの上から包丁の柄を握り、慎重に刃を抜いた。圧迫されていた血管からおびただしい血がバスタオルへと降り注ぐ。あっという間にタオルは真っ赤に染まり、零れ落ちた血でキッチンの床全体が赤くなった。

 バスタオルと彼の身体の隙間から、包丁が無造作にコトンと滑り落ちていく。

 血飛沫は壁や食器棚に飛散することなく、うまくバスタオルに染み込んだようだ。床は赤いまだら模様……まさに、地獄絵図。

 あまりの光景に、さっと血の気が引いた。メイシィは耐えられず、吐き気を覚える。胃液が逆流する。


「血が……足りない……、クソッ。酸素が、脳まで届かなく。包帯を。止血しなくては……。いや、その前にこの血痕を」


 エマードの思考は、次第に途切れ途切れになっていった。

 出血多量、しかも立っている分、体力の消耗が激しい。視界がぼんやりとしてくる。バスタオルを掴んでいた手が緩み、はらりと落ちる。


「歩けるか、リビングのソファに横になろう。これ以上立っているのはヤバい」


 気を取り戻したシロウが肩を貸し、エマードを連れてリビングへと歩いていく。靴の裏に付いた血糊が、苦しそうに後を這っていた。

 慎重に傷口を広げないよう、シロウは腹を押さえたエマードを、そっとソファーに寝かせた。


「エマード博士、あなたの言いたいことはよくわかった。──妻のしたことは、本当にすまないと思っている。あなたとメイの間に一体何があったのか知らないが、詮索するつもりはない。今、すべきことをしなくては」


 横になって落ち着いたのか、エマードの呼吸が少しゆったりとしてきた。汗も少しずつ引いてきたようだ。目を瞑り、深呼吸している。


「今、包帯を巻いてやる。メイ、お前は床を。子供たちがやっててくる前に。血の付いたバスタオルや雑巾は、後で処分しておく。汚れた服は、後で取り替えよう。サイズが合うといいんだが」


 シロウは手際よくエマードの汚れたシャツのボタンをはずし、用意していた濡れタオルで傷口の血を拭きとった。腹部の少し左寄りにぱっくりと縦に開いた穴。そこから血がにじみ出てくる。リビングの棚にあった救急箱から消毒液を出し、脱脂綿に含ませる。


「この傷は……、深すぎる。大至急医者に診せるべきだ」


 傷口の間から内臓が見え隠れする。

 目を覆いたくなるのを必死に絶え、シロウは消毒を続ける。染みるのか、エマードは時々唸り声を上げた。


「医者は必要ない。傷はすぐに治る」


 エマードは薄目を開け、シロウの顔をチラッと見るとすぐに目を逸らした。


「この傷が、すぐに治る傷か! バカヤロウ! 駄目だ、傷口からバイキンが入ったりしたらどうするんだ。もしものことがあったら、あの子はどうやって生きていくんだ!」


「死なない、俺は死なないんだ……」


 エマードはシロウから目を逸らしたまま、ぐっと身体に力を入れた。圧迫された傷口からぶわっと血液が押し出される。最後の一滴が腹部を伝い、シャツににじむ。


「……? なんだ、これは」


 シロウは脱脂綿で、ゆっくりと傷口をなぞった。おかしい。さっきより、傷口が小さくなっている。


「俺は、幻覚を見ていたのか」


 八センチほどあった傷口は、そのとき、三センチになっていた。

 何かがおかしい。


「だから、俺は死なないんだ」


 エマードが付け足す。

 床を拭き終わったメイシィが、二人に駆け寄る。「大丈夫?」と屈みこむメイシィに、シロウは彼の傷を指差す。


「言ったはずだ、俺は死なない、何事もなかったようにやり過ごせと」


 エマードの傷は、そう言っている間にも癒えていき、終いには傷の痕さえ見えなくなった。

 その様を、二人は呆然として見ていた。

 本当に、完全に治っている。


「どう、なってるんだ。あなたは一体……」


「包帯はいらなかったな。せっかく用意してくれたのに、すまん」


 エマードはそう言って、おもむろに上体を起こした。まだ少し痛むのか、お腹を擦る。血だらけの白衣とシャツを脱ぐ。科学者と言う割りにがっちりとした筋肉質の身体が露呈した。


「これでも、昔よりは劣ってきているんだ。俺の中の、細胞に仕組まれた“自己修復機能”というヤツは」


 L字に配列されたソファーのもう一辺に座る二人。


「“自己修復機能”……? 初めて聞いた」


 と、シロウ。


「再生するって、こと?」


 メイシィもオドオドしながら、エマードを見つめる。


「自然治癒力のもっと進んだものと思ってくれればいい。怪我をしてもたちどころに治ってしまう。急所であってもそれは変わらない。今まで何度となく殺されかけたが、やはり無駄だった。──俺は、死ぬことが出来ない身体なんだ」


 エマードはソファーから立ち上がり、ぐるっと辺りを見回した。リビングからキッチンにかけての道筋に、血の跡が残っていないか目視で確認する。


「どうやらうまくやってくれたようだな。……シャワーを借りてもいいか。あと、服も」


「なぁ、教えてくれないか。あなたは一体、何者なんだ」


 シロウの問いかけに、エマードはあからさまに表情を歪めた。


「ただの、落ちぶれた科学者だ。これ以上は何も言えない。……ESとやらには、出来る限り力を貸してやる。その代わり、詮索するのはやめてくれ」


「わかった。……条件は飲もう」


「すまない。世の中には、知ってはいけないこともあるってことを、ちゃんと理解しているようだな。ここへ来てよかった」



 ──そうして、ディック・エマードとエスターは、ウメモト夫妻の元で隠れ住むことになる。以後、シロウが死んでも、約束どおりメイシィはそれ以上の詮索を行わなかった。

 たとえ彼が自分の親の敵で非道な人間だったとしても、それなりに理由があってそうなってしまったということにメイシィは感付いていた。だからこそ、シロウが死んでも彼の手助けを続けている。

 人を憎しみ続けるより、その人をわかってあげたいと、彼女は思う。

 それが、辛い過去を乗り越えてきた彼女の選んだ、生きる道なのだ。



 *



 昼食の時間が近づいている。整備士や操縦士たちがこぞって食堂に押しかける。

 悩んでいる時間など無い。いつもの生活に戻らなくては。

 手際よく、支度する。

 厨房の隅でディックはまだ外を眺めていた。

 エスターが数人の整備士と共に後片付けをしているのを、静かに見守っている。窓枠に寄りかかり、じっと彼女を見つめる視線は、どこにでもいる平凡な父親のようだった。意思疎通が少し苦手な、ただの中年男。

 もし自分の父が生きていたら、きっと同じ視線で私を見つめていたかもしれないと、彼女は思う。形は違えど、やはり二人とも娘を守りたいと切に願う心だけは共通に持っていたのだから。

 ディックの姿にジャンを重ねたが、決して不快にはならなかった。

 むしろ、この平和な光景がいつまでも続きますようにという祈念に変わっていった。

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