29・殺意

 ショックのあまり、メイシィはよろめいて冷蔵庫に寄りかかった。弾みで冷蔵庫がグラッと揺れる。

 目の前が真っ白になる。自分と、エマードだけ。

 次々に殺されていった家族の笑顔、死に顔。幼かったメイシィにとってそれを目の当たりにするのは生き地獄だった。目の前で何度となく血飛沫が散る。真っ赤に染まった、負の記憶。

 幸せな暮らしの中、忘れたいと思い出さないようにしていたものが、一気にメイシィを襲う。鮮明に浮かび上がってくる。

 何故忘れようとしていたのか。

 何故彼はここにいるのか。

 自分に一体どんな用があるのか。

 考える必要のないことまでぐるぐると、頭の中をものすごい勢いで駆けていく。

 混乱。心音が恐ろしく高まり、自分の理性を制御できなくなる。


「ジュンヤを……奪いに来たの? また私から、全てを奪おうとするの?」


 今まで隠れていた狂気が、瞬く間に彼女を覆い尽くした。


「おい、メイ、何を言ってる?」


 突然の妻の変化に戸惑うシロウ。

 彼女の手は本能の赴くまま、シンク下の扉の裏から包丁をまさぐっていた。

 震えながらも、しっかりとエマードに刃を向ける。

 大きく見開いた目。高まる呼吸、荒い息。


「やめろ、何をする気だ!」


 シロウは慌てて妻の前に立ちはだかった。

 彼女の目にはシロウの姿は映っていない。声も、聞こえていなかった。

 かすれた叫び声のような大きな一呼吸の後、メイシィのか細い手の中に収まった包丁は、シロウをよけて真っ直ぐとエマードの腹部に突進した。


「──ぅぐっ」


 刹那、エマードは苦痛に腰をかがめ、膝を崩した。

 懐に入ったメイシィの耳に、エマードの心音が鳴り響いた。

 生々しいほど一定間隔で鳴っていた大きな音が、少しずつ緩やかになっていく。深々と突き刺さった包丁に彼の血が伝った。生温いものが彼女の手に触れ、メイシィはようやく自分がしたことの重大さに気付かされる、押し潰される。


「あ……、ああ……!」


 包丁から手を離した。あまりの事態に手で顔を覆う。

 自分の手が赤く染まっているのが見える。更に興奮し、がくがくと震え出す。

 大声を出してしまいそうな彼女の口を、エマードの大きな手がギッと塞いだ。


「声を出すな」


 その台詞に目を見張るメイシィとシロウ。


「大声を出すな。二階には子供たちがいる。こんな場面を見せ付ける気か?」


 落ち着いた声にはっと我に返る。


「満足か、俺を刺して、満足か……」


 低いエマードの声は、十五年前と変わらなかった。

 眼鏡の奥に光る鋭いダークブルーの瞳も、あの時のまま。


「……そうか、お前は、ウェイの……」


 ようやくメイシィの正体に気付き、呟くエマード。

 フッと吐くように笑うと、床に目をやる。足元に、彼の血がポツポツと小さな円を描いていた。



 *



「あの時、私はどうかしてた。だけど、たまにそのときと同じ気持ちになるときがあるわ。──今もそう」


 メイシィは眉をひそめ、作業をやめてディックを見つめていた。

 彼も、全てを受け止めるように彼女から目を逸らさなかった。

 厨房の開いた窓からはエスターや整備士たちの楽しそうに騒ぐ音がひっきりなしに聞こえていたが、彼らの耳には入らない。二人だけの静かな時間、二人だけの空間が作られていた。


「私の父はあなたに殺された。なのに、あなたは平然と人の親になり、娘と会話を交わすことが出来る。……どうして? 私の父は、私が大人になる姿を見ることすら出来なかったのに」


 彼女の手には、包丁が握られていた。迷いなく、切っ先はディック・エマードへと向けられている。窓辺から差し込む光がその刃に当たり、鈍く光る。


「前にも言ったはずよ、『私はあの日から進んでいない』って。あなたへの憎しみは、決して消えたわけじゃないのよ」


 メイシィの少し低い声。普段とは違う雰囲気にしばらく目を見張っていたディックだったが、刃の先に震えがないことを確認すると頬を緩めた。

 そして、何事もなかったかのように平然と食事を始める。

 出来立てだったはずのオムレツは、すっかり冷えてしまっていた。カチカチとフォークと皿の擦れる音が響く。


「殺意などもう無いクセに、一丁前に凶器なんか持つんじゃない」


 いい大人を馬鹿にするなとでも言いたげに、ディックはパンを頬張りながらちらちらとメイシィをうかがった。


「ふぅー。あなたには、何をしても無駄ね」


 メイシィは力を抜いて、いや、もしかしたら最初から力など入っていなかった様子で、シンク下に包丁を片付けた。


「あなたを殺そうとしても無駄なことは、あの時、思い知らされたから。もう、あんなことはしないわ」


「……だろ?」


「それに、──私は、あなたという人間がどんなに苦しんでいるか、知ってしまったから。本当はこうして会話しているのも不思議なほど、私たちとは違う世界から来たということも」


 スープを飲み干し、空になった皿をトレイに載せてメイシィに差し出す。


「同情しているのか」


「いえ。あなたに同情できるほど、出来た人間じゃないもの」


 溜め息混じりににっこり笑って、ディックからトレイを受け取る。

 彼女の、突き放したような台詞が、ディックには少し心地よかった。

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