105・何が正しくて、何が間違っているのか
ジュンヤとダニー、レナに別れを告げ、ロボット犬フレディと一緒にエアバイクに乗り込んだディックは、政府ビルの最上階目掛けて突き進んでいた。炎に包まれていく街を尻目に、とにかく上へ上へ向かうことだけを考えた。
ドームの中の人間は、殆ど死んでしまったかも知れないと思うほどに、炎の勢いは凄まじい。脱出など、密閉された空間の中で簡単にできるはずがないとわかっていながら、避難指示をしたことを後悔する。しかし、何も知らされずにたくさんの人間が死んでいくのを見過ごせるほど、卑劣な人間にはなりたくなかった。
政府が殺せと言えば簡単に人を殺したこともある。半ば脅されるようにして人体実験をしたことも、娘を道具のように扱ったこともある。だが、心の中にはいつもラムザの言葉があった。
――『君は最初から、私の息子“ディック・エマード”だったんだ』
ただの実験体としてなされるがまま身体を預けていた自分に、ラムザは言葉や最低限の教養を与えてくれた。彼の行方は、結局、マザーにだってわからなかった。煙のように姿をくらましてしまった彼は、最早生きてはいないだろう。“D-13”ではなく、“ディック・エマード”として生きていくと誓った限りは、自らの意志で道を切り開く。無駄だとわかっていても、簡単に諦めることだけはしたくなかった。
自己修復機能が備わっていたとしても、老化を食い止めることが出来なかったように、死なない身体だからといって軽装備で突っ込むのが無駄だというのはよくわかっている。それでも、目の前で起きている何かに対し、何の手も打つことが出来ず、手をこまねいているだけの存在にはなりたくなかった。
残酷、冷徹、何度も言われた。
血の通わない悪魔だとも。
それでも、特に否定することはしなかった。
生きていくことに精一杯だったのだ。“一人の人間”として生きていくことに。
ティン・リーの器になって、政府総統として力を振るっていたら、どんなに楽だったか。権力をかざし、気に入らないものを排除する、それが出来るなら、苦しまずに済んだかも知れない。心の中にいつもあるわだかまりさえ感じずに済んだ、そうに違いない。
しかし、それは同時に、“一人の人間として生きていくこと”への放棄に他ならないのではないか。苦しみ、悶えながらも大切なものを守っていきたい――エレノアを失ってから先は、そればかり考えていた。
瓦礫の上を、エアバイクは車体を上下させながら進んでいく。道が途絶え、ディックは考えた末に、政府ビルの中を駆け上るしかないという結論に達した。
「フレディ、落とされるなよ」
エンジンを加速させ、エアバイクは傾きかけた政府ビルの中へと入っていく。
窓ガラスを突き破り中へ入ると、パニックを起こした研究員らと政府軍が衝突し、大きな騒ぎになっていた。銃声が何発も続き、悲鳴が響き渡る。死体があちらこちらに散らばり、鮮血が至る所に飛び散っている。何に怯えているのか、どうしたいのか、混乱しすぎてわからなくなっているのか、意味不明の言葉を叫ぶ人間もいる。
この混乱は、自分が引き起こしてしまったものなのかも知れないと思うと、胸が痛む。もし、自分が噂を流さなかったとしても、結果は同じだったかも知れない。やはりドームの人間共は慌てふためき、狂ってしまっていたのかも。
だが、目の前で起こっている騒ぎの発端は自分、世界を混乱させていったのは、ティン・リーの思惑通り器に収まろうとしなかったのが原因だと思うと、心臓に針が何本も刺さっていくような激しい痛みが襲う。
何が正しくて、何が間違っているのか。
自分だけの尺度で考えて、判断して、その結果がこの地獄のような光景なのだとしたら、どうだろうか。
キョウイチロウやラムザは糾弾されたと聞いた。
この世界での価値感は、自分の価値感とは大きくズレているのかもしれない。
――『エマード博士……、あなたは狂っている』
いつぞやに言われた台詞。
――『本当に狂っているのはお前らではないのか』
言い返したが、本当は誰が狂っていて、誰が正常なのかなんて、わかりようがない。最終的にそれを判断するのは自分たちではないからだ。
全てが終わった後で、次の時代が来て、今とは全く違う価値観が世界を支配したときに判断が下される。
今は、正当性を考えている場合じゃない。自分にとって何が大切なのか、それだけを考えなければ、前に進めない。
血だらけの廊下、階段を、上に上に駆けていく。
激しい爆音、振動、既に何かが始まっている。
先に執務室へ突入したハロルドたちは無事なのか、リーはどうなったのか。
翼を広げたエスターが飛び立ち、政府ビルの最上階に向かって消えていくのを遠目に見た。エスター、いや、マザーは、リーの言いなりになって動いているだけなのか。リーの所に行って何をしようとしているのか。
背中でフレディが激しく吠え、肩までしがみついてきた。うるさいぞ、思いながらフレディが吠えている方向に目をやる――、何かが勢いよく落ちてくる音。エアバイクを止め、近くの窓から身を乗り出した。
銀の大きな恐竜だ。
ティン・リーの意識を宿したあの化け物。
上空には天使の白い羽が見える。やはり、何かがあったのだ。
再度エンジンをかけ、上を目指す。辿り着くまで、何分かかるのか、ぶち切れそうなこの頭を、意識を、しっかりつなぎ止めたままエスターの元に着かなければ意味が無い。
いつも肝心なところでぶち切れて、自分を見失ってしまうのだ。怒りをコントロールできない、自分の感情を。
――『“不完全”なんだ』
――『人間じゃない』
ケネスに言い放った台詞そのままに、自分というものの脆さを突きつけられる瞬間。
苦しい、胸が締め付けられていく。考える必要の無いことまで、どんどん頭の中にわき出してくる。心が、壊れそうなほどに。
上階に進むにつれ、建物の損傷が大きくなっていった。今が何階なのかはっきりわからないが、人影がなくなり、何かの焼け焦げる臭いがしてきたことで、現場が近いと知らされる。
「もうすぐだ、フレディ」
自分自身に言い聞かせるようにして、背中の犬に声をかけた。
覚悟を、決めなければならない。すっかり人の変わってしまった娘に会いに行くのだ。トリストで出会った、エレノアの姿形をしていたマザーが、今はエスターの姿をしている。頭では理解している。受け容れなければならない現実だと言うことも。
押し潰され、まともに通れる高さのない階もいくつかあった。ディックは無理矢理体当たりで通り抜けた。エアバイクの前面がひしゃげようが、あちこち怪我して血が流れようが、お構いなし。
空気の流れが変わってきた。冷たい風が降りてくる。明るい日差しも差し込んできている。
急に、視界が開けた。
「ディック……、遅い」
最上階に辿り着いた彼に、いち早く気がついたのはハロルドだった。
しかし、どこに居るのか。
一面の瓦礫、どこからどこまでが何の部屋だったのか。天井すら吹っ飛んで、青空が見えている。
エアバイクから降り、ディックは呆然と立ち尽くした。
想像を超える壊れ方。“新たな世界を築くため”とはいえ、尋常ではない。見渡す限り、死体の山、残骸、瓦礫。
頭を抱えた。
どんな兵器を使えばこんな風になるのか。あのリーの化け物の仕業だけではないと直感する。まさか、ハロルドたちにだってこんなこと、出来るはずがない。
辛うじて残った壁の陰から、ハロルドがゆっくりと這いだした。血だらけで、やっと上半身を支えているだけの状態だ。
ディックは駆け寄り、身を屈ませてハロルドに尋ねた。
「何が起こったんだ」
「マザーが……、天使が、リーを」
ハロルドは虫の息だ。
他に、数人苦しそうに唸っているのが聞こえるが、動けそうな人間は一人もいない。
腕に覚えのある人間を中心に連れてきているはずだのに、ほぼ全滅とは。
立ち上がり、再度辺りを見回した。
下の階で上を見上げたとき、確か、白い羽が見えていた。エスターが居るはずだ。
「エスター、返事をしろ。どこだ、どこに行った」
三六〇度、ぐるっと見回しても、彼女の姿はない。
もう一度、
「エスター、俺だ、聞こえないのか」
すると上空から、バッサバッサと羽の音が。
空からの光が遮られ、目の前がフッと暗くなった。見上げる。白い、大きなものが空から舞い降りてくる。
ゆっくりと、それは瓦礫の上に降り立った。
「エスターというのは、この肉体のことか」
娘の、声が聞こえた。
しかし、そこに居たのは、いつもの寂しそうな笑顔を浮かべた、エレノアの生き写しではない。
白銀の鎧に覆われ、白い鉄の翼を生やした、表情のない天使だった。
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