Episode 19 最後の最後まで

106・撃ち抜け

 ドームの天井に大きく開いた穴から、風がどんどん入り込んできていた。緑の匂いの混じった風は、力強く、容赦ない。

 差し込む光の量も次第に多くなり、まぶしさで目を細める時間が多くなる。

 天使の白銀の身体は、光をよく反射した。それがまた、神々しさを倍増させる。

 あの男が考えたにしては、確かに美しい。女性の身体を意識した滑らかな曲線、優しさと力強さを併せ持った天使なのだと言われれば、確かにそう見える。

 だが、目の前に居るのが心を失ってしまったエスターなのだと思えば勝手が違う。愛を求めることをしらず、差し伸べられた手をどう握りかえしたら良いのか、戸惑いながらも自分のペースで前に進もうとしていた健気な彼女の面影はない。エレノアと同じ声で、同じ顔で、時折悲しそうに微笑んでいた、それがたまらなく愛おしかったのに。

 何故もっと抱きしめてやらなかったのか。

 自分の娘に“愛しているよ”と、そんな単純な言葉さえかけてやることが出来なかった。気恥ずかしかったわけではなく、自分自身、どう愛情を表現したら良いのかわからなかった。

 シロウの家に辿り着き、メイシィと再会したとき、ディックは内心ホッとしていた。彼女は家族の愛を知っていた。状況さえ飲み込んで貰えれば、もしかしたらエスターを一緒に育ててくれるかも知れないと、無責任にも思ってしまった。

 ラムザのように一人でエスターを育てていく自信はなかった。人間として不完全な自分が、一人の人間を育てていくなんてことは、とても考えられなかったからだ。

 メイシィや、シロウ、ジュンヤ、周囲の協力がなかったら、エスターはあんなに素直な人間には育たなかったかも知れない。

 感謝していた、言い切れないほどの感謝を。

 反政府組織に身を置き、リーへの復讐を胸に抱きつつ過ごしてきたこの七年間、やっとそれが報われる。だとしても、本当は躊躇するべきだったのかも知れない。

 エスターが、世界の中で一番大切にしていた存在がこんな事になるくらいなら、復讐なんてくだらないことは止めれば良かったのだ。そうすれば、彼女はマザーと同化せずに済んだ。名も無いNO CODEとして、日の当たらないところに潜んでいれば全て丸く収まっていたものを。

 マイナス思考がぐるぐる巡って、言いようのない悲しみがディックを襲った。

 知らず知らずのうちに、涙が頬を伝っている。泣いている場合じゃない。早く、早くエスターを助けてやらなければならないというのに。


「D-13、お前の思考が見えない。やはり、肉体を持ってしまうというのは不便だ」


 マザーがエスターの声で言う。


「何故涙を流す。お前の娘の身体は生きている。それだけでは不満だということか」


 トリストを介して会った、マザーの口調そのままだ。あの時はエレノアの声をしていた。死んだ人間の姿や声を借りるなど、不謹慎だと思っていた。だが、あの時の方が未だマシだと、今は思う。

 マザーはそっと羽を広げ、すうっと宙に浮いて、ディックの真ん前までやってきた。

 眼前に表情のない仮面が迫り、装甲で覆われた分一回り大きくなった身体でディックを見上げてくる。


「お願いだ、お前の口で、声で、その名を呼ばないでくれ……。頼む……」


 エスターには、自分が過去に番号で呼ばれていたことを話したことなんて無かった。“D-13”だなんて無機質な呼び方をするのは、エスターじゃない、マザーだ。

 食いしばった歯がガタガタと鳴った。握った拳が、肩が、ブルブルと震えていた。

 悲しみというのか、悔しさというのか。喪失感、哀れみ、何と表現したら良いのか。エレノアを失ったときと同じ、いや、それ以上の衝撃がディックの中に湧き上がってきた。

 細長い政府ビルは鉛筆のように削られ、風が強く吹く度に足場が大きく揺れる。重心がずれて傾いた最上階の床の上、生き残った数人は壁や瓦礫に掴まりながら、何とか留まっている状態だ。

 それはどこか、自分の心を映し出しているようだと、ディックは思う。上へ上へとビルを駆け上がっていく度に、心の中がわびしくなっていったそれに似ている。ほんの少し大きな力がかかるだけで、ビルはポッキリと折れてしまうに違いない。その下で、また誰かが瓦礫に潰され犠牲になる。

 折れそうだ。エスターにこれ以上のことがあれば、それだけで、ディックの心は折れ、我を失ってしまう。


「D-13、私は世界を造り直さねばならない。お前が私の邪魔をするならば、お前のことも排除しなければならない。それが我が主の望みであり、私の使命。主、ティン・リーは同化と共に私に破壊プログラムを仕掛けた。私の触れる物、私の見える物が次々に壊れていく。私は私の中で発動した破壊プログラムを止めることが出来ないでいる。D-13、お前にはまだ、世界を救う意志はあるのか。あるならば、私を止めろ。どうにかして、全てを終わらせるのだ」


 淡々と、マザーはディックに語りかけた。

 何を期待している、何故自分にすがろうとする。

 データの海の中で、『希望や願いを持つのは、人間だけだ』と彼女は言った。エスターの身体に入り込み、すっかり人間になったつもりでいるのか。人間になってエスターの声で、自分に何をさせようというのか。


「どうしろと、俺にどうしろというんだ。マザー、今の俺には何の力もない。勿論、俺だってエスターを救いたいと思っている。だが、どうやって、どうやって救えばいい。止めるったって方法なんてあるわけが」


「方法ならある」


「どんな」


「お前の銃で私を撃ち抜け」


「何を言って……!」


 マザーの冷たい手が、ディックの腕を掴む。肉に食い込むほどの力で握り、無理矢理、右手を腰のホルダーまで持ってくると、もう一方の手で銃を握らせた。残り数発しかないデザートイーグル、今は触りたくないものの一つ。


「お前の自慢の銃らしいな。“E”の記憶がそう言っている。いつも部屋で磨いていたと。お前が何のためにこの古い銃を大切にしているのか、彼女にはわからなかったようだ。しかし、私は知っている。ラムザだ。彼が、『自分の身は自分で守らなければならない』と言って、お前に与えたものだ。装甲が邪魔ならすぐに外す。心臓を狙えば良いのか。人間は心臓が止まれば死ぬのだろう。それとも、この身体の再生能力は、それすらも許さないのか」


 マスクの下で、何を考えているのか、彼女はやはり平坦に恐ろしいことを言う。見覚えのある唇から、また、マザーしか知り得ない言葉が出てくる。同時に、エスターしか知らないことも。


「記憶が、読み取れるのか。エスターの記憶が、お前の中に流れ込んでいるのか」


「話題を反らすな。私はどうすればこの身体の機能が停止するのか訊いているのだ。この身体が生命活動を停止しなければ、私の身体から発信される破壊プログラムを止めることは出来ない。世界が全て壊れてしまう前に、お前は決断をしなければならない。ティン・リーが消えた今、世界を滅ぼそうとしているのは私だけ。わからないのか」


 マザーは力尽くで、銃口を自分に向けさせた。心臓の位置までぐっと銃を持ち上げ、左胸の装甲を解くと、エスターのまだ大人になりきれていない肌が露わになった。柔らかな白い肌に、冷たい銃口が当たる。マザーの左手が、デザートイーグルの安全装置を解除した。引き金に指を突っ込まれ、このまま撃てとばかりに身体を前に押し出してくる。


「出来ない、出来るわけがない。マザー、やめるんだ、エスターを傷つけないでくれ、頼む、お願いだ!」


「お前の願いなど、聞き入れている場合ではない。私がまだ自分の意志で動けるうちに、全てを終わらせろ。破壊プログラムは、私の意識に徐々に侵入してきている。お前をD-13だと認識しているうちに私を止めなければ、恐らく私はまた、さっきのように暴走する。次は、街が破壊される程度のことでは済まされない。エスターも願っていたのだ。破壊の天使と成り果てるくらいなら死を選ぶと。お前はその意志さえ無視し、この身体を守ろうとするのか」


 マザーの手に、一段と力が入った。

 振りほどかなければ。何が何でもマザーを止めなければ。

 傾いた床の上で必死に踏ん張った。両腕を出来る限り外側に開いて、エスターの身体から銃を離そうとする。力が拮抗して、狙いがぶれる。このまま力一杯引っ張れば、何とかなるかも知れない。

 手のひらの汗で銃が零れそうになっていた。食いしばり、懸命に銃を引き上げた。だがまた、ぐっと銃を引き寄せられる。何度も、同じ動きを繰り返した。


「いい加減、諦めたらどうだ、D-13。お前は、何を恐れている」


 力が入っているにもかかわらず、調子の変わらないエスターの声。


「恐れているわけじゃない、俺はただ、自分の娘を守りたい……だけだ」


 マザーの指が、引き金に触れる。

 発砲、同時に――黒い影が二人の腕にぶち当たり、銃をはじき飛ばしていた。

 銃弾がエスターの左肩をえぐり、翼を掠める。赤い血飛沫が白銀の身体に降り注いだ。エスターの甲高い叫び声が、辺りに響き渡る。


「……その、犬か。私の邪魔をしたのは」


 身体をくねらせ、息を荒げ、マザーはギリリと歯を鳴らした。

 腰を落とし、エアバイクの側でじっと様子を覗っていたフレディが、二人に飛びかかったのだ。


「肉体など持たねば、痛みも苦しみも無かったものを」


 止めどなく、血が流れ落ちる。肩から腕、胸、そして床を、ぽとりぽとりと赤に染めていく。

 ディックは言葉を失い、その場に立ち尽くした。

 急所を外したとはいえ、娘を傷つけてしまった。『俺が救ってやる』、そんな単純な約束すら守れそうにない。

 嫌悪感が押し寄せた。

 血の気が引いていく。

 意気揚々やって来たくせして、何をやっている。これでは、本末転倒ではないのか。

 目の前の現実を、受け容れたくはなかった。

 だが、彼は目を反らすことが出来なかった。

 目を反らしてしまえば、また大切なものを見落としてしまう。

 どうしたらいい、どうすれば血が止まる。止血、しなければ。早く、早く。思うのに、足が動かない。


「D-13、何故、何故撃たなかった……。始まってしまう、私の中で何かがうごめき始めた。止められないぞ。もう、誰にも」


 ドクンと、天使の身体が波打った。

 血にまみれた身体を広げ、彼女は空を仰ぎ見る。

 引き寄せられるように天へと昇っていく彼女からは、既に意識が消えているように思えた。

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