Episode 14 核心へ
68・生死の境で
ジュンヤの赤い足跡が、長い廊下に続いていた。逃げるなんて、とても出来そうにない。失血が酷く、意識が朦朧としているのがわかった。血液中の酸素が無くなっていく。
何を血迷ってあんな事になってしまったのか、彼は何度も頭の中を巡らせていた。
そもそも、どこから選択肢を間違ってしまっていたのか。
リーに出会い、必然的な出会いだったと父親の形見の秘密を知ったときか。
それとも、形見の写真を手にしたときか。
最初に写真を手にしたのは、子供の頃だった。昔話をするように語りかけてくれたシロウにこのような事態が予想できたとは思えない。とすれば、やはりあのティン・リーという男が、こういう事態がいずれ起こるだろうと知っていて仕組んでいたと考えるのが妥当だ。……だが、何十年も前から予測できることなのか。何か、見落としている事実はないのか。
視界が徐々に狭まってきていた。
廊下の明かりが薄暗いと思うのも、警報がものすごく遠くなったような気がするのも、ただ単に脳の機能が低下しているからだ。身体は限界だのに、なぜか頭は冴えていた。本能的に生命維持しようと、余計な機能をシャットダウンし始めているのがよくわかる。
1208号室で見た見取り図を思い出し、非常階段方向へ必死に歩いて行く。腹を抱え、前のめりになりながら、壁伝いに進んだ。
脂汗が滴る度に、限界かも知れないという言葉がジュンヤの脳裏をよぎった。自分の心臓の音が耳の近くで聞こえている。息をする度に、肺が苦しくなる。どこをどう傷つけられたのか、自分ではわからない。ただ、何とかして息の続く限り抵抗を続けたい、自分の犯した過ちを償いたいという一心で、歩き続ける。
見つかるのは時間の問題だ。警報が鳴ってから十分近く経過している。どういうルートで警備員が駆けつけてくるのかわからないが、部屋から続く血痕を見れば、犯人がどこへ向かったのかなど一目瞭然のはずだ。
殺人を犯したということよりも、自分がこれから先どうなるのか、そればかりが気になるのは好ましい状態じゃないと、ジュンヤ自身にもわかっていた。敵とはいえ、脳天を貫いて殺してしまったのだ、自責の念も恐怖心も、あるに違いない。だのに、彼の頭の中では、死に対する恐怖心が薄らいでしまっていた。――極度の緊張による感覚の鈍り。
ディックも、似たような感覚を味わったことがあるんだろうかと、薄れていく意識の中でジュンヤはぼんやり考えた。
現実味のない死。
目の前で起きていることに、追いついていかない思考。
彼が一体いつからどのくらいの人間を殺してきたのかなど、詳しいことは何も聞いたことがない。最初は手が震えたのだろうか。やはり愛用の銃を使ったのか。薬物に冒されたようなぶっ飛んだ思考で、どこまでその罪を認識できたのか。
人殺しだと罵倒した、それが自分に降りかかってくる。
そうか、死とはかくもあっけない。
シロウが死んだとき、銃創だらけの死体はディックによって綺麗に整えられ、棺に入れられていた。どんな殺され方をしたのかわからないくらい、自然な状態に四肢を整え、造花に囲まれた姿は、悲惨さなど微塵も感じさせなかった。死をより身近に感じていた、血に慣れている、そう言い放ったディックがどのような想いでシロウを弔ったのか、ジュンヤには今もわからない。自分が殺してきた人間たちの死と、ディックとエスターをかくまったシロウの死が、同系列に置かれていたのかどうかも。
最早、ジュンヤの思考はどんどんと現実から離れていた。何をしたい、何のために逃げている、殺される、生き延びてどうする――思考が徐々に回転を緩め、視界が暗転する。
足音だ。……いよいよ、殺されるのだ。
*
「さぁて、ちょっくら失礼するよ」
ジュンヤはまぶたの裏で、強い光を感じていた。鉛のように身体は重く、自分の意識ではとても動かせない。
男と女の声。腹の中をまさぐられる感覚。何かをされている。
「あちゃ、これ、ここじゃ無理だったかな。いやぁ、でも、しゃあない。何とかするか」
「何とかしてよ。どっかに連れてったりなんか、絶対無理だからね」
「助手、雇っとくんだった。……ねぇ、汗くらい拭いてくんない」
「無理。忙しい。早くデータ探んないと、逆探知される」
「つれないなぁ」
「お互い急がなきゃダメでしょうが。セキュリティ切ってんのバレるのも時間の問題だからね」
「へいへい」
軽快な会話――、聞き覚えのない声だ。
意識が、飛ぶ。
*
なぜシロウ・ウメモトが反政府組織を立ち上げようと思ったのかなど、息子は知らなかった。誰もがこの世界に絶望を感じている状態で、その中から自然に生まれる物だと信じて疑わなかったのだ。
母メイシィは、本当に理由を知っているのだろうか。
子供の頃、シロウに助けられたことをきっかけに、二人は契りを結んだのだという。まだ年端もいかぬうちに自分を産み、夫を支え、組織運営に協力し。そんなことは、同じ年齢だった自分にはとても考えられなかった。何が、二人を惹き付けたのか。
意図を感じる。
自分を操っていたのと同じような影が、その背後になかったのだろうか。
世界には、格差がある。
その原因を作った政府を倒す。
単純そうで、実はそうじゃない。政府の何が気にくわなかった。独裁体制か、ドームという閉塞した世界か、科学万能社会、それとも住民コードに縛られた生活なのか。大きな反政府組織は他にもあったはずだ。だのに、なぜ危険を冒してまで新規に組織を立ち上げた。
――多数存在した反政府組織の中から、なぜリーはまだ無名のシロウを選んだのか。
ディックはなぜ、自分のラボを襲撃した男に助けを請うたのか。
誰も答えてくれないのはなぜ。
誰も教えてくれないのはなぜ。
自分という存在自体が、希薄に感じてしまうのは、なぜだ。
**
大きな物音がした。同時に、女の声。
「ちょっと、大変なことがわかったよ! こいつのDNA、データベースに照合してみたらさ、あのコード廃止論で有名なウメモト博士の近親者みたいなんだよ。こんな事ってあると思う? 感動だよ、感動!」
「うっわ、ありえないな。だって、博士は廃止論のために政府追放、月の牢獄に入れられてそのまま自殺したって」
「だーかーらぁ、世紀の大発見なわけよ。ああ、これを発表できない我が身を呪うわ」
「そんなことしたら本末転倒だろ」
思考をかき乱す二人の声。状況を楽しんでいる、うらやましくもある。
長い眠りの中で、時折挟まってくる会話は、ジュンヤの脳にゆっくりと染みこんでいった。
**
――『人と人とは繋がっている。どこかで、知らず知らずのうちに繋がった糸が絡み合い、関係を作っていく』
そういうものだと、シロウは微笑んでいた。だから、ほんの小さな繋がりも無駄にしてはいけないのだと。
人格者であったシロウは、幼かったジュンヤに何度も教えを説いた。自分がいずれ殺されるのだということをその頃には知っていたはずだと、メイシィやディックが話していたのを聞いた覚えがある。
その繋がりが、絶望を生むとしても、彼は断ち切ろうとしないのだろうか。
*
ピッピッという小さな電子音が、リズムよく聞こえてきた。まぶたの裏が明るい。
「意識レベルが戻ってきてる」
「上手くいったんじゃない」
「当然」
また、あの声だ。
手を少しずつ動かし、生きている事を確認する。大丈夫、感覚はある。痛みは……倦怠感で、よくわからない。
うっすらと目を開けたジュンヤの視界に、全く見覚えのない二人の男女が覗き込むように身を乗り出しているのが見えた。敵か味方か、――自然体の彼らは、少なくとも自分にとって危険な存在ではない。彼は本能的にそう感じ、ゆっくりと息を吐く。人工呼吸器のマスクがいっぺんに曇り、視界を一時的に白くした。
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