15・雨の衝撃
ディック・エマードの無骨な手に、デザートイーグルが握られている。何に緊張しているのか、小刻みに震える右手を必死に左手が押さえている。
肩で息をしていた。体中の血管がうねっていた。心音の間隔が異常に短く、奥歯が噛み合わない。見開いた目。顔中を雨が伝っても、雨が徐々に体温を奪っていても、どうでもよくなっていった。
怒りのまま向けた銃口の先に、自分が殺したいと思う男がいる。それだけの理由があれば十分引き金を引ける。
「やめろ、こんなところで! 娘の前だぞ!」
後方で身構えていたハロルドが慌てて止めようと、彼の右腕にしがみつく。途端、彼は巨体を大きく捻り、ハロルドを遠くに投げ飛ばした。地面に染み込み損ねた雨水が、泥と混ざってハロルドの体中に飛沫をかける。
「だ、大丈夫か?」
駆け寄るジュンヤ。
泥まみれのハロルドは、ジュンヤに抱き起こされながら、悔しそうに歯ぎしりした。
「君らのリーダーはこの半狂乱した中年男なのかい」
リーは鼻で笑って、わざとらしく若い二人に問いかける。聴衆に訴えるような仕草は、ディックを馬鹿にしているようにしか見えなかった。銃口を向けられていても動じる様子は一切ない。飄々とした彼の気配は、熱く煮えたぎったディックとは正反対に落ち着き払っていた。
「ねぇ、君達はどうしてそんな組織ににいるの」
向けられた視線と突然の質問に、エスターは言葉を失い肩をすくませた。
少しだけ振り返ったリーの横顔は、さっきまでとはまるで別人。親しみ易さの欠片もなくなった彼に、エスターは激しい違和感を覚えていた。
「どうしてって……言われても」
ジュンヤもまた、言葉を詰まらせた。
「答えられないのに何故反政府組織にいるの。おかしいよね」
リーはニヤニヤしながら、縁側と庭先にいる二人の顔を交互に見渡した。濡れた前髪の隙間から覗いた切れ長の黒い瞳が、彼らを再び釘付けにする。
「やめろ、何を言ってる!」
叫ぶディック。銃をしかと構え、引き金に指を添える。
雨脚がまた激しくなり、彼の低い声はかき消された。暗雲がスピードを速めて庭の上空を西に流れていく。稲妻が会話を一つずつ区切るように何度も宙を裂いた。
「反政府組織“ES”。創始者のシロウは死んだって君、言ってたじゃないか。なのに、今も続いてるのは何故。動かしてるのはこの男なんだろ? 本当に、そこにいて自分のためだと思ってる?」
「……何が言いたいんだ」
一方的なリーの言葉に、ジュンヤが噛みついた。唸るハロルドの身体を支えながら、上目遣いにリーを睨み付ける。
この小屋の持ち主だという男の不可思議な存在は、最初から受け容れ難かった。
不必要なくらい紳士的な態度も、古めかしい小屋には似つかわしくない高級スーツも、その端正な顔立ちも、全てが嘘くさい。何かの罠かも知れないとわかっていて庭に誘導されたのだ。父と自分しか知らないはずの写真裏のメモ、父の知人にしては若すぎる男。自分の知らない父の姿があったかも知れないという期待、彼の正体を知りたいという欲望。……結果、このようなことになろうとは。
彼は、ディックが敵対心を持つような人物なのか。敵対心と言うより、殺意と言った方が適当かも知れない。異常なのは一体どっちなのだ。ジュンヤは困惑していた。リーは本当は何者なのか。何のために自分たちにそのような言葉をかけてくるのか。何故ディックは――。
「君達は自分の存在意義を考えたことはあるのかな、と思ってさ」
また、意図のわからぬ質問。
「存在意義だよ。何故自分はそこにいるのか、何故生まれてきたのか、これから一体、どうやっていきていくべきなのかってことさ。誰にだって、生まれてくる意味がある。……だとしたら、自分はどうか。必要とされているのか。いるべき場所は? ――そんなことは考えないのかい?」
「奴の問いに耳を傾けるな! お前達を引き込もうとしているだけだ!」
雨音で、ディックの声は殆ど聞こえない。
リーはそのことを知ってか知らずか、両手で大げさに訴えかけてくる。エスター側へ数歩、そしてジュンヤ側に数歩と庭の中を自由に歩きながら。土砂降りの立ち回りは、ジュンヤとエスターをリーの思惑の中へと少しずつ引き込んでいく。初めは不審に思っていたジュンヤも、彼の不思議な魅力に取り憑かれ、妖しげな空気に徐々に呑み込まれていくのを、止めることが出来なかった。
もしかしたら、彼の出したお茶に何かの薬品が混じっていたのかもしれない。麻薬か、何かそういった、最終的に暗示にかかりやすい状態にするものを、彼は二人に仕掛けていたのかもしれない。
「運命だったんだ、ここで僕に出会ったのは。きっと、本当の自分を知るための一つの転機だ。それとも君達は、“ES”にいれば本当の世界が見えてくるとでも思ってるの?」
……答えられない。二人とも、それに見合うだけの答えが出せなかった。
「真実を知り、“自由を勝ち取る”。――これは、君のお父さんとの約束だよ、ジュンヤ。それとも、そこの科学者が、全てを、この世界の真実を伝えてくれるの? 自分自身のことさえ、何故逃亡したのかさえひた隠しにして、誰にも話せずにいるその男を、君たちは信じていくの? 君たちは彼の何を知ってる? 本当のことを知っても、君たちはまだ、彼を信じることが出来るの?」
リーの台詞の中の何かが、ディックの箍を外した。
彼の中の理性は、それを失い、猛獣のような雄叫びを轟かせた。
気がつくと、引き金を引いていた。
顔を伝っているのが、雨なのか、それとも自分の目から溢れ出たものなのか。
銃口から発射された弾はスローモーションの如く進み、全ての時間がそこに集約されたかのように、そこにいた全ての人間の視線を奪った。ディック・エマードの言葉通りに、弾丸はリーの喉をめがけて突き進む。
ハロルドは握り拳を地面に叩きつけた。音もなく、泥の粒があたりに飛び散った。
ジュンヤはハロルドの身体を押しのけて銃声が鳴るより少し早く飛び出していたが、間に合わなかった。大きく力を込めて開いた右の手のひらは、空しく宙を掴むだけで、ディックには届かない。
生温かい鮮烈な赤が、飛沫になってエスターのいる縁側にまで飛び散った。
彼女は初めて見る父親の荒んだ姿に脅威し、襲い来る赤の恐怖に両手で顔を覆う。大切なものが音を立てて壊れていく。彼女は、言葉にならない声を上げ、泣き崩れた。
音は聞こえなかったんじゃない、音に勝る衝撃があったのだ。
ティン・リーは血まみれの喉元を必死に抑えて、そこに屈み込んだ。ゴフ、ゴフッと息をする度に傷口や口元から血が溢れ出た。激しく降る雨が、彼の血を庭全体へと伝わせていく。黒いスーツはみるみる赤黒く染まり、彼の色白の肌もまた、鮮明な赤を纏った。
銃を持った科学者の手は、わずかに震えていた。心臓が、壊れるくらいの勢いで動いている。目的は達せられた……はずなのに、達成感がなかった。それは単に、殺人という罪の上に成り立つものだからではない。
笑っている……。リーが笑っている。
明らかに、それが出来る状態ではないのに、ディックを嘲笑っている。
リーの体は、その痛みに耐え切れぬかのように、よろめき、地面に伏した。と同時に、青白い光に包まれて消えていった。まるで、彼がひと時の夢であったかのように。
──しかし、現実である。
彼の残した血の跡が、何よりもその証拠なのだから。
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