Episode 05 科学者と少女の秘密

16・葛藤

 窓の外は、まだ雨だった。切れ目なく降り続けるそれは、まるで自分の心を映しているようだった。

 飛空挺の自室にこもると、ディック・エマードはベッドの上に寝転がり、窓を見た。狭い部屋の中にぎっしりと積み上げられた、書物やガラクタ。室内の中で唯一、広がりを見せているのが窓だった。

 足の踏み場もないようなこの部屋が彼の居場所。普段ならここで、コツコツ機械いじりをするか、本を読むかするところだが、今日はそうもいかない。分厚い二重ガラスに、うっすらと水滴が這う。湿っぽい空気がそこから伝って部屋全体へと流れ込んでいるような気がする。冷気はやがて全てを覆い、全てをカビらせてしまうのだ。この、心の中までも。

 窓は暗く寂しい空を切り取って、彼の視界にスクリーンを作り出していた。

 目を瞑ると、そこに自分のやったことが、ほんの数分の出来事が、鮮明に何度も蘇って映し出される。



 頬を伝う雨。不気味な笑みを浮かべるリー。発射された弾と、娘の悲鳴。

 あの後、雨が、ただただ強く、地面を打ちつけていた。


「何故なんだ! 何故、娘の前でこんなことを!」


 ハロルドはそう言って、ディックの胸倉をひしと掴んだ。が、当のディックはことを終えて、死んだような目をするだけだった。

 ピチャピチャと跳ねる雨粒の音が、レクイエムのように響いていた。


「お前に、何がわかるっていうんだ」


 ディックはうなだれて呟く。右手の力が抜け、銃がびちゃんと地面に落ちる。大量の雨粒が銃を呑み込んだ、赤い罪を覆い隠そうとしているかのように。

 雨に流され、どんどん薄く広がっていく血液をやるせない表情で見下ろしていたジュンヤは、力なく言葉をこぼした。


「何もわからないよ……。こんな状況で、何をわかれって言うんだ。勝手すぎる。リーが、一体何をしたって言うんだ。わからない、わからないよ……」


 わからないよ……わからないよ……。ジュンヤの声がこだまする。



 ディックは頭を抱えて体を丸めた。

 何も、考えたくない。あの時はどうかしていた、そう自分に言い聞かせた。

 ベッドの上であれこれ考え、ぼんやりと窓を見る、の繰り返し。そうしてどのくらい時間が過ぎただろう。

 急なノック音に、思考を遮られた。


「ハロルドだ。入るぞ」


 許可も得ずに、ハロルドはずかずかと彼の部屋へ入り込んだ。内鍵を掛け、荷物に時々脚を引っかけながら一番奥のベッドのところまで来ると、


「最悪だな」


 と鼻で笑う。いつもの威厳の欠片もない、ディックがいたからだ。

 気に入りの白衣は積み上げられた本の上に無造作に脱ぎ捨てられていた。ワイシャツに濃い灰色のスラックス、それも雨に濡れたのが半乾きになった状態で、彼はベッドに転がっていたのだ。シャワーすら浴びていないのかと、少し怪訝な表情のハロルド。彼自身はすっかり着替え、先程の衝撃を自分なりに整理して、頭も体もさっぱりしてからここに来たのだ。当事者はまだこんな状態なんだなと付け足して、彼はまた大きくため息をつく。


「今日、自分のしたことを後悔しているのか。超天才の万能科学者様が、形無しだ」


「……笑うなら笑えばいい」


 いつにも増して愛想のない返事。天井を見上げたまま、ディックはハロルドの中年顔を睨んだ。


「別に、馬鹿にしに来たわけじゃない。──話を、したくて」


「お前とする話なぞない」


「まあ、そう言うな」


 ベッドの縁に、ドスンとハロルドが腰を掛けた。全体が揺れ、ギシギシと鳴る。


「お前は敵を作りすぎるんだよ、ディック」


「知ってる」


 言うとディックは、ハロルドに背を向けるようにして転がり直す。まるでいじけた子供のように。

 ハロルドは面白くなさそうに、白髪交じりの短い髪を左手でもしゃもしゃとかきむしった。


「一人でも味方を作っておいたほうがいいと思う。少しでいいから、本当のことを、事実を知りたいんだ。でないと、俺もお前の敵になってしまうかもしれない」


「味方なんて必要ない。今までだっていなかったし、そう言ってくる奴から裏切るんだ。それに、事実を言ったところで何になる。何の解決にもならん」


「……シロウは味方じゃなかったのか? あんなに親しくしていたくせに」


「敵とか味方とか、そういうもんじゃない。あいつにだって、全部喋ってたわけじゃない」


 ディックの回答は散々なものだった。ハロルドも期待はしていなかったのだが。会話にならないのをどうやって引き延ばそうかと考えあぐねているうちに、ディックが続けて話し出す。


「人に話せるほど、いい人生を送ってきたわけじゃない。誰かに助けられるほど、軽いものを背負ってやしない。だから、いいんだ。俺のことはほっといてくれ。俺のしたことに、口出しするな」


 とんだ体たらくだと、ハロルドは血を頭のてっぺんまで上らせた。ほんの数時間前の威厳は、あんな事件でいとも簡単に失われるものなのかと。


「お前はまだそんなことを。よく考えてみろ、お前は良くても、エスターはどうなんだ。お前みたいなとんでもない男でも、人の親だろうが。自分が娘の前で何をやったのか、よく思い出すんだ。ESに来て、ちょっとは真っ当な人間になったんじゃなかったのか」


 ハロルドの言葉に何かを感じたのか、ディックはむっくりと起き上がり、本の山をかき分けながらおもむろに窓際へと進んだ。

 ハロルドはそれをゆっくりと目で追う。

 いつものように切れのある動きはない。本当に疲れきった、そんな様子だ。彼は冷たい窓に手のひらを合わせ、こつんとガラスに額を付けた。


「他に、方法がなかった。あの男の毒牙から、どうやったらエスターを救い出せるのか。俺だって考えなかった訳じゃない。奴は悪魔だ。手を汚さぬ悪魔が俺の娘をたぶらかし連れ去ろうとしているのに、俺は平和的に解決する手段を知らない。あの方法しか、思いつかなかった」


 表情を読まれぬように、気丈な振りをするディック。

 雨はまだ降りしきっていた。森の緑が、濃く霞んでいるように見える。到着時に見えていた山頂は厚い雲に覆われ、その姿を見ることは出来ない。渦巻く暗雲、走る雷光。それはますます酷くなり、森を飛空挺ごと闇へと誘っているかのようにさえ思えた。


「政府にいたときに、何があった。俺にも言えないのか。――なぁ、お前と“ティン・リー”の本当の関係は何だ。何を隠してる」


 ハロルドの言葉が次々にのしかかる。それに、簡単に答えられるなら、どんなに楽だろう。

 窓ガラスにベッドで手を拱くハロルドが映る。真剣なまなざしで、こちらをうかがっている。信じてみてもいいかもしれない。根拠なく思えたとき、ディックは自分の口から思いがけない言葉を発していた。


「──俺達には、俺とエスターには、あの中で生きていくために必要なものが与えられなかった」


「は?」


「この中にいれば、それを感じずに生きていけると思った。だから、ここへ来た」


「何だって?」


 やっと語り始めたディックだったが、出る言葉が全て断片的過ぎて、わからない。


「もっと、直接的には言ってくれないのか。悪いが、俺には到底理解が」


 ハロルドは聞き返した。

 ディックは、覚悟を決めたかのように振り向く。


「コードだよ」


「コード?」


「俺達二人には、“コードが無い”んだ」


 いつにも増して、目の下の隈が濃く刻まれていた。疲労感が彼を包み、いつもは絶対に開かない秘密の扉の錠を緩めてしまっていた。


「――“住民コードが無い”、のか。ま、まさか……」


「うそだと思うなら、探してみればいい。ここにいる連中といっしょだ。『無い』んだよ。だから追われ、抵抗する」


「お前、政府のエリート科学者じゃなかったのか……。名の知れた、天才だと聞いていたが……」


「それは間違いないことかも知れない。が、所詮俺は“コードの与えられない存在”。リーは、俺達を利用していた。俺の信じていたものは、全て奴が俺に与えていた虚像だった。俺に残ったのは、エスターだけ。抵抗して、奴をいつか殺してやろうと思った。身を潜めて、体制が整ったらおびき出し、八つ裂きにしてやりたかった。……これが全てだ」


 ハロルドは耳を疑った。それはとても、ハロルドの常識では考えられないようなことだったからだ。


「本当なのか……」


「冗談に聞こえるか?」


「本当だとしたら、お前とエスターは、人間じゃなく……」



「“実験体”だ」



 ディックの一言が、空気を止めた。

 ハロルドは息を呑み、聞こえた言葉の意味を受け止めようとした。


「俺達二人は、紛れも無く、“政府の機密プロジェクトの実験体”だ。意思を持ち、自ら行動している、感情もある。なんら人間と変わりない。ほんの少し、遺伝子の構造が変えられていて、普通の人間以上の能力を持つことがある。それだけだ。“あの男”、すなわち“ティン・リー”がいなければ存在せず、が、奴によって人生は歪められ、全てを奪われ、絶望の淵で考えたのは、“エスターを救わなければ”という、一筋の希望。……エスターは、エスターだけは、守りたかった……」


 両手で頭を抱え、髪をかきむしり、ディックはよろよろと壁に寄りかかった。全てをはき出した重圧に、押しつぶされるかのように。


「だから、ESに来たのか。エスターを守るため、コードの無い世界に。彼女がいずれ自分にコードが無いと知っても、それが不自然でないように。お前は、本当にエスターを……」


「エスターは、リーを誘き出すためのほんのきっかけを作ってくれるだけでよかった。“エレノア”の名前を出せば、リーは必ず姿を見せる。後は俺が奴を始末すれば、それで終わるはずだったんだ。それなのに、奴は……、よりによって、エスターのそばに……。それどころか、エスターを、娘を虜にしようとしていた。耐えられなかった。あのまま、リーに引き寄せられるかもしれないと思うと、あの場で奴を殺すしか、選択肢が無かった」


「ディック……」


「リーは“実験体”である俺とエスターを狙っていた。奴は多分、死んでなんかいない。今もどこかで、俺達の身体を狙っている。そんな気がしてならない。あの、不気味な笑いが頭から離れない。……こんな状況下で、誰を頼れと? こんな話を聞いたところで、ハロルド、お前は本当に、俺の力になれるのか?」


 全てを語り終えた彼は、いつもの“ディック・エマード”に戻っていた。

 ハロルドは、どんな言葉も慰めにすらならないとすべて飲み込んでしまった。自分が思っていたよりも辛いものを、彼は背負っている。彼が何も信じず、誰も頼らず生きていた理由も、政府から脱出してわざわざ反政府組織に身を隠す理由も、今の会話で説明できた。そしてエスターも、同じく辛い運命を背負って生きている。おそらく、何も知らされぬまま。

 外の雨がいっそう激しさを増した。

 深い悲しみと衝撃がすべてを包んでいた。

 ES要塞はそれから数日間、島から旅立つことは無かった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る